第9話 あんたもブス!
自分の顔を見るために姿見の前に突っ立っていたところ、外から戸を叩く音が聞こえてきた。
ひとの相手はする気になれなくてエルナーズは無視した。
向こうは諦めなかった。もう二度ほど戸を叩く音が響いた。
「入るよ」
ユングヴィの声だ。
すかさず「嫌よ」と言った。
聞いてもらえなかった。戸が開いた。
ユングヴィは部屋に入ってすぐエルナーズの方へ歩み寄ってきた。そして姿見の端をつかんだ。腕を伸ばして抵抗を試みたが、押し退け、姿見を裏返してしまう。
「何するの」
「ほっとくと一日中見てるでしょ」
ユングヴィの言うとおりだった。眺めたところで何にもならない――そう頭では分かっているのにどうしてもやめられなかった。
自分がここまで自分の顔に執着していたとは思っていなかった。
将軍になるまでは矜持のほかには何も持たずに自由に生きていたと思っていた。心は今でも何物にも囚われていないはずだった。
怪我をして思い知らされた。
自分は美しかった容貌と遊女たちとの記憶に生かされていた。
身を売ることを選んで生きてきたのではない。身を売る以外の生き方を知らないのだ。
売れるものがなくなった自分に生きている価値を感じられない。
「どんな怪我だって一日二日じゃ治らないよ。薬を塗って、清潔にして、何日も、場合によっちゃ何ヶ月もかけて、ゆっくりゆっくり治していくものだよ。毎日見てたって焦るだけ。見るなとは言わないけど、思い出した時だけにしなよ」
ユングヴィは正しい。彼女の言うことは何にも間違っていない。それに優しい。エルナーズには彼女がまったく治らないとは言っていないことも分かっていた。
ユングヴィの顔を見た。
頬はいつの間にか滑らかになっていた。彫りの深い少し垂れ目気味の二重の目元の上、赤い眉ははっきりとしている。どこから見ても年頃のアルヤ女だ。エルナーズの記憶の中にいる遊女たちと比べれば十人並みだが、サータム男たちからすれば奴隷として買ってでも手に入れたいことだろう。
あれだけ美しいと褒めそやされたエルナーズがこんな顔になったというのに、色気のかけらもないとわらわれていたユングヴィが美しく生まれ変わろうとしている。
「あんたはいいわよね」
「何が」
「元がブスだからちょっといじるだけでもちやほやされるでしょ? 今気分いいんじゃない? 特に赤軍は女に飢えてるからあんた程度でもより取り見取りでさ」
遊女たちの間では美しくあろうと努力する様を嘲ることは許されなかった。どれだけ拙くとも美しくありたい気持ちの否定は禁忌とされていた。エルナーズもそれだけはするまいと誓っていた。今の今まで冗談であってもユングヴィの容姿に触れたことはなかった。
「急に色気づいて! 男でもできたの? 慌てて取り繕ってるの無様よ、どこのどいつが相手だか知らないけど、その程度で振り向いてもらえると思ったら大間違いなんだから」
今の自分こそ無様だ。醜い。見た目がどうこうではない、性根が腐っている。
それでも、言わずにいられない。
「浮かれちゃって、ブスのくせに」
ユングヴィは唖然とした顔でエルナーズを眺めていた。
彼女からしたら唐突だろう。エルナーズも自分がこんなことを言うとは思っていなかった。そもそも彼女をそこまでの不細工だとも思っていなかった。彼女を傷つけるためだけにこんなことを言っている。
ユングヴィが動き出した。その手が姿見を離した。
エルナーズはとっさに肩をすくめて目を閉じた。殴られると思ったのだ。ユングヴィが指示に従わない赤軍兵士に鉄拳制裁を加えるという噂は空軍まで届いていた。彼女が本気で殴れば自分は頬骨を砕かれるかもしれない。
しかし――いつまで経っても拳が触れる気配はなかった。
衣擦れの音がした。
目を開けて驚いた。
ユングヴィは自ら帯を解き筒袴を下ろしていた。脚を剥き出しにしていた。
思わず口元に手を当てた。
ユングヴィの左脚の外側の半分には皮膚がなかった。全体的に赤黒い。一部は膨れ上がって凹凸を作っている。とても直視できるものではない。
「二年くらい前。仕事で新型爆弾を作っていて、火薬の分量を間違えてぜんぜん想像してなかったところで爆発したんだよ。すごい大火事になった。エルは知らないよね、エスファーナでのことだし、その程度のことなんて赤軍ではよくあるから」
自らの左腿を撫でながら言う。
右脚も綺麗ではなかった。右腿、膝の上辺りに大きな傷がある。鉈か斧を振り下ろされたかと思うような刃物傷だ。
「上も見る? 見たかったら見せてあげる。三年前の戦で斬られたり刺されたりした傷、数えさせてあげるよ」
言いながら自らの服の裾をつかんだ。
「自分とどっちがマシか比べてみてよ」
「ユングヴィ」
「まあ私の方がマシかもね、顔にはないからね。ほんとはこめかみにあるんだけどね、前髪を上げなきゃ分かんないだろうからね。でもこんな体で普通に嫁に行けると思う? ちょっと顔いじったくらいで浮かれて男と遊べるって? この体で!?」
結局ユングヴィは上は脱がなかった。服から手を離してエルナーズの服の襟をつかんだ。
「嫁に行けない分一生懸命仕事してやるって決めてんだよ! その上でできること探して何とかやりたいようにやってこうって思って生きてんだ! 私は私なりに自分を好きになれるように努力してるってことだ男の気を引くためだけにこんなことやってられるか! ふざけんな! バーカ!」
胸倉をつかまれて引かれた。顔と顔とが近づいた。
「言葉には気をつけろ! 女の子っぽいことしようとしてぐずぐずしている今の私がブスなら顔の傷を気にしてぐずぐずしている今のあんたもブス!」
エルナーズは目を丸くした。
それは、エルナーズが、自身をバカだと言うユングヴィへいつか投げつけてやろうと思っていた言葉と、まったく、同じ構造だった。
ユングヴィはそのうち、呆然としているエルナーズの襟首を解放した。目を逸らして、溜息をついた。
「ごめん。かっとなって言っちゃった。やっぱり、私の方が、マシかも。脱がなきゃ分かんないと思うからね」
彼女は「ごめんね」と繰り返した。
途端、エルナーズも彼女に対して申し訳なく思った。
「けどさ、傷があることで、自信、なくさないでほしい。私にとってはエルは憧れだったんだ、いつもきれいにしてるし、十神剣で一番美容とか服飾とかに詳しいのはエルだと思ってるから。そういうエルをかっこいいって思ってるから。だから……、気にするなったって、無理だと思うけど――」
呟くように言う。
「体に傷が一つや二つできたくらいじゃそのひとの価値は変わらない。私はそう教わった」
誰に――そう問い掛ける前に戸が叩かれた。外から「ユングヴィ?」と訊ねてくる声が聞こえてきた。ラームテインの声だ。
ユングヴィは慌てた様子で筒袴をはいた。急いで帯を締めながら「いるよ」と答えた。
戸が開いた。
案の定、ラームテインが顔を見せた。
整った白い顔は誰よりも美しい。こんなところでユングヴィと小競り合いをしてもどうせ十神剣で今一番の美人はラームテインだ。
どうやらユングヴィも同じことを思ったらしい。ユングヴィが「なんだかんだ言ってラームは顔可愛くていいよね」と呟いた。ラームテインが「はあ、僕がですか」と首を傾げた。
「まあ、僕の顔は確かにアルヤ産の美少年として値がつく代物ですが――」
「自分で言うんかい」
「将軍としての仕事には何ら役に立ちません。十神剣の他の皆さんや紫軍の皆さんに顔を褒められたところでまったくお金にならないんですよ。したがってどうでもいいです」
真理だった。
ユングヴィとエルナーズは、顔を見合わせて、溜息をついた。
「いつ出掛けます? どうせなら僕も連れていっていただけないかと思って探していたのですが」
ラームテインに言われて、ユングヴィが「あ、そうだった」と手を叩いた。
「私ちょっと町に行かなきゃいけないんだ、エル一緒に来てよ――っていうお誘いに来たんだった、忘れてた」
「はあ? なんで俺が、二人で行きなさいよ」
「将軍の中であんたが一番タウリスの地理知ってるでしょ、助けてよ。案内して」
「嫌よめんどくさい! 誰か空軍の兵士連れていって」
「ここでずっと引きこもっていても暗くなるだけ! 気分転換しよ!」
「ちょっと――」
ユングヴィがエルナーズの右肘をつかんだ。そのまま戸の方へ向かって引きずり出す。
「ほら、行くよ!」
エルナーズは慌てて「分かった、行く! 行くわ! 行くから着替えさせて!」と叫んだ。
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