第7話 美容と色恋と下ネタは心を元気にする薬

 油灯ランプの挿し口から顔を出している灯心にバハルが火をつけた。

 暗かった室内に明かりが燈った。


 小さな炎を見ていると、エルナーズは、気持ちが落ち着いてくるのを感じる。幼い頃から遊女たちの部屋や花街の路地で見てきたからだろうか。

 ようやく息を吐くことができた。肩の力を抜いた。


 バハルの油臭い手がエルナーズの頭を撫でた。抵抗はしなかった。こんな体になっても誰かが触れてくれるということに安堵した。


 傷になったのは、顔の左半分と左肩から左の手の甲にかけて、だ。頭や右半身は何ともない。

 それでもエルナーズはすべてがめちゃくちゃになってしまった気がしていた。自分の何もかもが醜く変質したように感じていた。


 先刻もう死にたいと叫んだエルナーズを、バハルとユングヴィが抱き締めた。二人で寝室に連れ戻し寝台に寝かせた。二人がかりで運んだだけだ、二人とも自分に触れたくて触れているわけではない――頭ではそう思っていたが、頭を撫でてきたバハルやずっと右手を握り締めているユングヴィを見ていると、エルナーズの思考は徐々に緩やかになり、やがて、停止した。


 赤軍兵士に呼び出されて一度席を外したユングヴィが帰ってくる。こちらに歩み寄ってきて寝台の縁に腰を掛ける。エルナーズはそれを黙って目で追った。


「あの子の家族、見つかったよ。ご両親、やっぱり城内に避難してた。ずっとあの子を捜してたみたい、再会できて喜んでた」

「よかった」


 言ったのはラームテインだ。しかし彼の言葉や表情にはあの少女を心配しているというよりは厄介事を片づけられた安堵が見て取れた。


「心配してくれるご家族がいるのなら、それにこしたことはないですからね」


 気づいているのかいないのか、ユングヴィは「ラームがいなくなったら私がすごく心配するよ」と言った。


「もちろん、エルも。二人とも私にとっては大事な弟だからさ」


 普段なら何を言うかと鼻で笑っているところだったが、今のエルナーズには声を出すこともできない。


「にしても、許せないなあ。私、まだはらわたが煮え繰り返ってる」


 バハルが「何が」と問い掛ける。ユングヴィが一度言いにくそうに口を引き結んでから「女子供に乱暴なことをするのが」と婉曲的な言い方をする。


「あいつらアルヤ人だった」


 奥歯を噛み締めている。敷布を握り締めている。


「チュルカ人なら何してもいいと思ったのかな。サイテー」


 だが、街が荒れている時はそういうことも起こる。人々は街の空気にあてられて攻撃的になる。しかも軍の治安出動が間に合わないので歯止めが利かない。

 エルナーズからすれば、よくあることだった。


 ユングヴィからしてもそんなに珍しいことではないだろう。まして彼女は普段からエスファーナの荒れた街区を歩いている。こんなことに遭遇するのは日常茶飯事のはずだ。だからこそ今回の対応も早かったのではとエルナーズは思っていた。しかし今回彼女はいつも以上に感情的だ。


「もう、ほんとに、やだ。体には大きな傷はなかったけど、絶対、心の傷ってやつにはなったよ。消えない傷になったよ」


 バハルが苦笑して「でも最後までやられてたわけじゃないんだろ」と言う。ユングヴィは両手で自分の顔を押さえながら「一応ね、一応」と答えた。


「入ってないなら不幸中の幸いなんでは?」

「うーん、そうかなあ。外で裸に剥かれて、乱暴にからだに触られて、それでもまだマシなんて言ってほしくないなあ。私だったら舌噛み切って死のうと思うね」


 ユングヴィがこんなにはっきりと自分の意思や感情について述べるのは珍しい。よほど不快だったに違いない。


 彼女は潔癖なのだ。


 そう言えば、初めて出会った時から彼女は性的な話題に強い嫌悪感を示していた。純潔を重んじるアルヤ人の娘らしい発想だ。彼女たちは処女でなければ嫁に行けず、未婚の身でそんなからだになっては一生石を投げられて過ごすと思っている。一夜の夢を売って食ってきたエルナーズからすれば笑ってしまうような甘い幻想だった。


 だからと言って否定するつもりもなかった。


「女の子はさ、まず、丁寧に扱われることを覚えた方がいいよ」


 春をひさいできたエルナーズだからこそ、暴行されることと自らの意思で肌を重ねることの違いを知っている。どうせ同じ部分を使うのなら後者の方が良いに決まっている。


「特定のひととさ、一対一で、ゆっくりした方がいいと思うんだよね」


 そこは相容れなかったが、そんな幻想を語るユングヴィは嫌いではない。彼女には後生大事に処女を守って生きてほしいと思う。


 バハルは穏やかに微笑んで「そうだな」と頷いた。


「俺も、ユンちゃんはそういうふうに扱われるようになってほし――」

「私お嫁には行きません」

「否定すんの早過ぎない? 俺、密かにユンちゃんの結婚式呼ばれるの楽しみにしてるのに……」

「はっは、ごめんごめん」


 そこで、ユングヴィは、頭に巻いていたターバンを外し、長く伸びた前髪を耳にかけた。


 エルナーズは目をみはった。


 今までターバンと前髪のせいで気づいていなかった。

 ユングヴィは髪を首を覆うほどまで伸ばしていた。自分の容姿にかける手間を惜しんで切っていないだけかと思ったが、どうも違う。耳のすぐ上に見たことのない小さな髪飾りをつけている。


 顔の雰囲気も少々変わっていた。眉を整えたのか目元がすっきりしていた。ユングヴィの代名詞だった肌荒れも改善されている。化粧気は相変わらずないがなんだか急に綺麗になった気がする。


 興味を引かれた。


「あんた、髪、伸びたわね」


 あえて遠回しに、何気ないふうを装ってそう声を掛けた。


 ユングヴィが肩を震わせた。


「似合わない、かな」


 やはりわざと伸ばしているのだ。


 エルナーズは声を抑えて「そんなことはないわよ」と言った。


「ただ、前に邪魔だからすぐ切りたくなるって言ってたじゃない」

「あー、うん、そうなんだけど……、もうちょっとしたら切るつもりなんだけど、傷んでるところだけ取って、長くしても汚くならないようにしたいなー、って思ってて……」


 そこで前のめりになったのはバハルだ。


「えっ、ユンちゃん髪伸ばすの!?」


 極力刺激したくなかったエルナーズは眉をひそめたが、こういう時に止めるのも不自然な気がして言葉を選んでしまう。


「やっぱり変かなあ?」

「そんなことない! 俺はすごいいいと思います! でもなんで急に?」

「いや、さあ」


 そこで、ユングヴィの口から予想外の言葉が出てきた。


「なんかそういうの私がやるの似合わないかなあと思ってたんだけど、最近、サヴァシュを見てて、そういう意識って違うかな、と思い始めて」

「サヴァシュ?」

「あのひとさー、どこに行ってもチュルカ人の上着デール着てるでしょ、宮殿の公式な場とか関係なくあの恰好でしょ。絶対自分のしたい恰好しかしないんだ、もう自分がこうでありたいと思ったらずっとそうなんだ。って思ったら、私も、周りの目を気にしてやりたいことしないのはもったいないかな、自分のしたい恰好するかな、って思ってさ」


 視線を泳がせつつ、「ちょっと憧れてたんだよねえ」と口を尖らせる。


「髪の毛おだんごにして、綺麗な柄のマグナエするの……」


 彼女は「うわ、恥ずかし」と言って自分の両頬を押さえた。


 今度はラームテインが「当然のことだと思いますよ」と言った。


「自分の身なりに気を遣うのは礼儀のひとつです」


 つい、エルナーズは「あんたは酒姫サーキイだったからそんなことが言えるのよ」と言ってしまった。ラームテインが睨むような鋭い目つきでこちらを見つめてきた。


「そういうのがお仕事の一環だったあんたと違ってユングヴィは初心者なんだから余計なことを言うんじゃないの。やるのもやらないのも自由。黙って見ているべきだと思うね」


 ユングヴィが小声で「ベルカナに相談したら似たようなこと言ってた」と呟いた。それでエルナーズは察した。おそらくベルカナが肌の手入れの方法や髪の伸ばし方を吹き込んだのだろう。ベルカナは美容の達人だ。そのベルカナに教えを乞うたならユングヴィも本気に違いない。


 俄然元気が出てきた。





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