第6話 どこにも居場所なんてない

 城にあるすべての現実から逃げたくて抜け出した。


 あの娼館に帰りたいと思った。

 自分を綺麗だの可愛いだのと言ってちやほやしてくれる母親たちのもとへ帰りたい。頭や頬を撫でられ、化粧を施され、淫靡な香の匂いに包まれたい。

 そしてまたいつか仕事ができるようになると信じていたい。


 男たちが自分の美しさにひざまずき縋りついて足を舐めたあのみだらで愉快な日々はもうこない。

 自分の顔はめちゃくちゃになってしまった。もう誰も美しいとは言わない。


 叫び出したかった。

 けれど頭のどこかがなおも冷静だった。

 声を上げたら空軍兵士が来る。見つかれば連れ戻されるだろう。消えるなら静かにと自分に言い聞かせた。


 包帯は巻かなかった。自分ではうまく巻けなかった。ごわついていて目立ってしまうと思った。木綿布だけ貼り付けて部屋を出た。


 途中、女中の部屋に忍び込んでチャードルを盗んだ。顔を隠せれば何でもよかった。ひとに見つかる前に頭からかぶって駆け出した。


 城の中は人でごった返していた。一般人とおぼしき老若男女が詰めかけている。エルナーズはなぜこんなに人が多いのか考えなかった。人が多いのは好都合だ。城内が混乱している、誰も彼もが対応に追われていて逆流していくエルナーズに声を掛けない。


 城の裏手から出た。


 そこには満天の星空が広がっていた。

 夜のとばりはエルナーズに優しい。


 帰ってきたのだ。

 自分は夜のタウリスにいる。

 自分の舞台だ。住み慣れた世界だ。


 涙が溢れた。


 このままタウリスの夜に溶けたい。


 裏門を守る兵士たちはエルナーズに気づかなかったらしい。一度「外は危ないぞ」と怒鳴られたが、わざわざ追い掛けてこようとはしなかった。女が一人街に帰っていったぐらいで兵士は仕事をしない。




 人混みに紛れたくて市場へ向かった。二千年の歴史をもつタウリス中央市場なら自分を隠してくれると思った。


 エルナーズはタウリスの歴史を何より信頼していた。一説によればタウリスは王都エスファーナより古い歴史をもつという。そんな古都タウリスの夜を彩る華として生きることは、タウリスの遊女たちの、そして彼女らの息子であるエルナーズの誇りだった。


 辿り着いた市場は静まり返っていた。平時ならこの時間でも屋台が軒を連ね酒に酔った人々が楽しく過ごしているはずだが、今日は猫の姿も見えない。


 通りの真ん中で立ちすくむ。


 エルナーズはこの光景を三年前にも見ていた。


 チャードルの頭の部分を払って顔を外に出し、星明かりを頼りに辺りを見回した。


 破れた垂れ幕が夜風にはためいている。へこんだ箱が辺りに転がっている。果物が道の上で潰れている。


 この街は何度こんな目にあってきたのだろう。


 足元に林檎が落ちていた。

 拾おうと思ってしゃがみ込み、左手を伸ばした。

 左手も包帯に包まれていた。

 その下がどうなっているのかは見なくても分かる。


 自分もあの娼館のように焼けただれてしまった。


 不意に小さな金属の音が聞こえてきた。聞き覚えのある音だ。


 顔を上げると、通りの奥から人影が近づいてきていた。

 どうやら若い女性のようだ。もしかしたらまだ少女かもしれない、エルナーズよりも小柄で華奢だ。か細い声で「誰か、誰か」と鳴きながら辺りを見回していた。

 全身を包む足首までの丈の服はアルヤ人女性の服だが、頭に巻いている刺繍の施された布はマグナエではない。星明かりで耳の銀細工が輝いている。音の源はあの銀細工だ。タウリス住まいのチュルカ人の娘に違いない。


 一人なのだろうか。

 夜のタウリスは女性の一人歩きには不向きだ。まして今はひとけがなく不気味なほど静かだ。出歩くべきではない。


 エルナーズは屋台の柱に身を隠した。

 へたに近づけば何かが起こった時自分も巻き込まれる。自分を守るのに手いっぱいの人間が自分より弱い者を助けられるわけがない。余計な期待をもたせないためにも――あるいは彼女自身が一度危ない目に遭って学習するためにも、彼女を放っておくべきだ。


 脇道から物音がした。

 娘が立ち止まり、「誰かいるの」と言ってそちらに歩み寄った。

 脇道から腕が伸びてきて娘の腕をつかんだ。

 娘が脇道に引きずり込まれた。

 男たちの下卑た笑い声と娘の悲鳴が響いた。


 エルナーズは顔を背けた。

 案の定、だ。

 だがこんなことは特に珍しいことではない。三年前エルナーズも似たような場所で同じような目に遭った。

 せめて彼女が生きて帰れるように祈ろうかと思った。けれどもしかしたら死んだ方がましかもしれない。


 遠くから馬のひづめの音が聞こえた。今こんな状況のタウリスの街中で馬に乗れるとなると空軍兵士だろう。しかも複数だ。まとまって見回りをしているのかもしれない。

 もしうまくいけば彼らがあの娘を助けてくれるだろう。幸運な娘だ。


 自分は逃げようと思った。今見つかったら捕まる。城に強制送還されたくなかった。人目につく前にどこかへ行かなければならない。


 しかし、どこへ、だろう。


 立ち止まったエルナーズのすぐ傍まで、馬のひづめの音が迫る。


 どこにも行く場所などない。自分が帰るべき場所はもうどこにもない。自分を買ってくれそうな男の姿もない。紛れ込めるような酒場もすべて閉まっている。


 肩から力を抜いた。

 足掻いたところで自分の運命は変えられないのだ。

 無駄な抵抗はやめよう。説教は喰らうかもしれないが命まで取られることはない。


 通りの真ん中まで出て、馬の主を見ようとした。

 エルナーズは目を丸くした。


「何をしている!?」


 馬のまま脇道に突っ込んでいった人間の背中で、星明かりを弾いて紅蓮の剣が瞬いた。

 空軍兵士ではなかった。空色の軍服ではなく、黒一色の闇に溶ける装束を着ていた。

 闇夜を闊歩するアルヤ王国軍の暗殺部隊――赤軍だ。


 脇道を覗き込んだ。


 そこには先ほどの娘と三人の男たちがいた。娘は裸で地面に四つん這いをさせられていて、男のうちの一人が頭を、もう一人が腕を押さえつけていた。そして最後の一人が筒袴を脱ごうとしていた。


 馬でやって来た人物が尻を出した男を馬で踏みつけた。

 今度は男たちから悲鳴が上がった。


 その人物はけして男たちを許さなかった。左手で手綱を握ったまま背に負っていた剣を抜いた。

 暗い路地に紅蓮の刃がひらめいた。

 慌てて立ち上がった男の鼻っ柱を切りつけた。


 馬からおりる。

 剣を横に薙ぐ。

 残った男の腕が切断されて宙を飛ぶ。


 そうこうしているうちに黒装束の集団が狭い路地を占拠した。地面に転がってうめく男たちを囲んで笑った。


「どうする?」

「始末しな」


 冷たい声が路地に響く。


「女子供に乱暴する奴はサータム人だろうがアルヤ人だろうが許さない。やれ」


 夜の闇の中に断末魔の叫びが響き渡った。


 黒装束の集団の間から松明が差し出された。辺りが明るく照らされた。


 紅蓮の刃を背の鞘にしまうと、地面に投げ捨てられていた服を拾った。そうして、今まさに松明の光でさらけ出されようとしていた少女の白いからだを覆い隠した。


「もう大丈夫だよ」


 炎の揺らめきの中、ターバンを巻いた赤毛が、たった今まで人を斬っていたとは思えないほど穏やかな黒い瞳が、日に焼けた頬、そして紅蓮の神剣の柄が、浮かび上がる。


「ユングヴィ」


 エルナーズがそう呼ぶと、ユングヴィは、少女を抱き締めつつ、エルナーズの方を振り返った。


「エル!? なんであんたこんなところにいるの」


 本物だ。本物のユングヴィだ。

 一瞬気が動転しかけた。事態が呑み込めなかった。


「こっちの台詞や! なんであんたがここに!?」

「え。バハルが、西部人手足りないって言うから、出張」


 唖然としたエルナーズの後方から、また新たにひづめの音が聞こえてくる。


「ちょっと、ユングヴィ! 置いていかないでください!」


 この、まだどこか不安定な少年の声は――

 振り向く。

 星明かりに、艶やかなまっすぐの髪が、白く滑らかな頬が、まだ華奢な体躯が、照らし出される。


「今バハルから聞いたんですが、エルが行方ふめ――もう解決したみたいですね」


 馬上から「軽率な行動は慎んでください」と言われた。


「将軍としての自覚がなさすぎですよ、エル」

「ラーム」


 今や十神剣一の美貌の持ち主となったラームテインだ。


 ラームテインが馬からおりた。

 ラームテインと、まだ少女を抱きかかえたままのユングヴィの間に、挟まれてしまった。


「なに? 行方不明? どういうこと?」

「無断で城を抜け出したそうですね。こんな状況で、そんな体で! いったい何を考えているんですか?」

「バカじゃないの?」


 落ち着いていつもの女郎言葉で「あんたにバカって言われたくないわ」と言ったエルナーズの右肩を、ラームテインが「はいはい」と言いながらつかんだ。


「ほら、帰るよ。ラームの馬に乗りな、私はこの子連れてくから」


 ラームテインが「細かい説明は城に戻ってから」と耳元で囁く。

 もう逃げられない。


 ユングヴィが優しい声で少女に「一緒においで」と言った。少女はしゃくり上げながら頷き、ユングヴィの首筋に顔を埋めた。

 エルナーズはひとつ大きな溜息をついた。





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