第5話 焼け落ちる

 狭い路地にいくつもの明かりが燈っている。娼館の明かりだ。娼館の壁に取り付けられている油灯ランプの中で小さな炎が揺れている。連なる油灯ランプ、連なる軒、女たちの白粉おしろいの匂い――この町のすべてが一夜の夢を買いたい男たちを幻想の世界へいざなっていた。


 女たちの明るい笑い声が響く。


 ――こっちにいらっしゃいエルちゃん。


 緩く波打った豊かな髪が華奢な肩を覆う。白い滑らかな手には丁寧に磨かれた爪がついている。胸と腰から下だけを包む衣装の間からは縦長の臍が見えた。首周りの金の飾りが揺れる。


 ――あたしの可愛いエルちゃん、あんたは高値で売れるよ。


 小さな筆が唇を撫でた。紅をひかれている――その少しくすぐったい感触が心地良い。こうして自分は艶やかに変わっていく。


 ――あんたはこの町でとびっきりの売れっ子になれる。


 甘い、甘い、頭の奥が痺れるような香りがする。


 ――エルちゃんは世界で一番綺麗、エルちゃんは世界で一番可愛い――


 あの館にいた遊女たちは皆エルナーズを可愛がってくれた。エルナーズは館の遊女全員をお母さんと呼んで慕っていた。この中の特定の誰かが自分を産んだのだとは思っていなかった。それに特別な意味がある気はしなかった。あの頃のエルナーズにとって意味のあることといったら、稼ぐ女は何をどうやって男を操っているのかということと、男である自分は将来どこでからだを売っていけばいいのかということ、この二点だけだった。


 しかし中でもまめに部屋へ呼んでは丁寧に化粧を施してくれた女がいた。今思えば彼女といた時間が一番長かった気がするし、自分の髪の色や瞳の色は彼女に似ている気がする。彼女がエルナーズの産みの母だったのかもしれない。


 彼女の白い手に、細い腕に、長い髪に、化粧の香りに包まれている時、エルナーズは、彼女のように誇り高い遊女になりたいと思った。彼女はたくさんの男たちに夢を見せている。その自負が彼女を堂々とした美しい女にしている。自分も大勢の男たちに愛されるようになれば彼女のような強い人間になれるだろう。


 そんな甘い思い出の館はもうない。


 三年前、タウリスが戦場になった時、館は町ごと焼かれた。たくさんいた遊女たちのゆくえは知れない。エルナーズは駆けずり回って捜したが、館とともに皆焼死したとも、奴隷としてサータム帝国へ連れていかれたとも、アルヤ軍に捕まってエスファーナに送られたともいわれている。いろんな噂があってどれが確かか分からずじまいだ。誰が焼いたのかも知れない。はたして、サータム兵だったのか、アルヤ兵だったのか。


 黒焦げになった館の跡地に夢は残っていなかった。くすぶる炎の熱だけを感じた。

 熱かった。


 熱い。


「――ル」

「あつい」

「エル」


 目を開けたら、そこはかつての華やかな娼館でも今の焼け落ちた娼館でもなかった。娼館を出た自分がからだを売っていた陰間茶屋でもなかった。

 いくつもの石片タイルを組み合わせて造られた乳白色の天井、大きくとられた窓から差し入る明るい光、無味無臭の乾いた空気――空軍の宿舎だ。


 自分は、今、タウリス城の将軍の部屋にいる。


 いつここに来たのだろう。なぜ記憶がないのだろう。


 左半身が熱くて痛い。


 左目が見えなかった。包帯だろうか、何か布に覆われていて目を開けることができない。


 何が起こったのだろう。


 自分の目を覗き込んでいる青年の顔があった。一瞬誰か分からなかった。短く整えられた薄茶の髪に、同じ色の瞳をしている。皺のない着物は黄軍の正規兵の軍服だ。特徴のある顔立ちではないが、清潔感を人の形にするとこういう好青年になるのだと思うような、見知らぬ――いや知っている男だ。


「誰」

「いや髪切ってひげ剃ったらその反応ってすごい失礼じゃない?」

「あかん今冗談言うてる余裕ない」

「バハルです」

「嘘、分かってる、分かってんねん。俺が冗談言うてたわ、ごめんなさいね」

「ですよね! べっつにいいけど相手俺以外の将軍だったら今エルたぶんすごい怒られてると思うぜ!」


 左半身が熱い。

 左目が見えない。

 怖い。


 体を起こそうとした。「まだ寝てろ」と止められた。バハルの手が伸びてエルナーズの右肩を押さえつける。寝台の布団の上にふたたび沈められる。


「なに? 何が起こってん? 俺、タウリスに到着してからどうやってここまで来たんか思い出せへんのやけど」


 バハルが「混乱してんな、方言喋ってんぜ」と苦笑する。


「荷馬車の積み荷に仕掛けられた爆弾に触って――」


 思い出した。すさまじい爆風に当たって後ろに吹き飛んだのだ。


「荷馬車に爆弾? なんでや」

「誰がどういう目的で仕掛けたのかは分からない」


 その表情は険しい。


「どういう仕組みだったのかも分からない。たぶん誰かが触ったら爆発するように組み立ててあったんだと思うから、荷馬車の主である空軍を攻撃したかったには違いないけど、そんなからくりどこの誰が作れるの? 西方の新技術だったらサータム帝国? いつそんなの仕掛ける時間があったんだ、空軍はいつそんな危険人物が将軍の荷物に近づくのを許したんだ? 手掛かりも何も全部吹っ飛んだ、もー何も分かんない」


 彼は「今の俺たちに分かるのは」と続けた。


「空将軍であるエルが何者かによって殺されかけたということ、アルヤ国内では犯人はサータム人だという噂が流れていて対サータム感情が最悪になっているということ。ほぼ同時にエスファーナのザーヤンド川でウマル総督の死体が発見されたということ、サータム国内では犯人はアルヤ人だという噂が流れていて対アルヤ感情が最悪になっているということ」


 三年前のタウリスを思い出した。

 タウリスは戦場になる前から荒廃していた。アルヤ人たちに石を投げられて追い詰められた在アルヤ王国のサータム人たちがあちこちで暴動を起こしたからだ。

 あの頃はまさか彼らを救うためにサータム帝国が派兵するとは思っていなかった。このままサータム人たちがアルヤ王国から追い出されて終わるのだと思い込んでいた。


 戦争は民衆に衝き動かされて始まる。名もなき人々の憎悪が積み重なった結果小さなほころびが大きな崩落と化す。


「また戦争になるんやな」


 そう言ったエルナーズを、バハルは「いや」と否定した。


「もう始まってる」


 廊下を走ってくる足音がする。


「将軍! バハル将軍!」


 バハルが立ち上がって「ここだ」と叫んだ。

 部屋に空軍の兵士が転がり込んできた。


「第九街区で衝突が発生! 武装したアルヤ系の集団がサータム系の集団を襲撃したとのこと」

「何としてでも止めろ。絶対にサータム人を殺させるな」


 エルナーズに背を見せる。


「これ以上やったら本当に帝国軍が動く。帝国にアルヤ人は紳士だと思わせないとだめだ」


 バハルの背中がたくましく見えた。今の彼の背中になら縋れると思った。

 きっと今大勢のアルヤ人がバハルに対して自分と同じ感情を抱いているだろう。


 バハルは、今、本来空将軍がすべき仕事をしている。彼はアルヤ軍の将軍なのだ。


 バハルがエルナーズの方を見た。目が合った。

 エルナーズは思わず目を逸らした。


「――続きは指令室で聞くわ。ここ、エルの寝室だから、な。俺、ここでばたばたすんのやだわ」


 兵士が「はッ」と短く返事をした。


「お待ちしております」

「すぐ行く。頼む」


 ややして足音がした。戸が閉まる音もした。兵士が出ていったのだ。


「エル」


 そう呼ぶ声が優しい。

 顔を上げると、バハルは微苦笑していた。


「大丈夫だ。俺が全部やっといてやるから、エルは傷を治すことに専念しろよ」


 何も言えなかった。


「テイムル宛に、中央かサヴァシュよこしてくれって手紙書いといた。俺一人だけだと頼りないだろ? 誰か大人の男よこしてもらおうぜ」


 そして、手が伸びる。大きな手が、エルナーズの頭を包み込むように撫でる。


「何にも考えなくていいから。もうちょっと寝ててくれよ」


 エルナーズは返事をしなかった。バハルはそんなエルナーズを待つことなく部屋を出ていった。


 さすがに申し訳なく思った。

 バハルは慣れない真面目な姿勢を見せようとしている。傷ついたエルナーズの代わりにせいいっぱい戦おうとしている。

 けれど、それでも、エルナーズは空将軍として頑張りたいとは思わない。バハルがやっていることを一緒にやろうとは思わない。バハルの負担を減らそうとは思わないのだ。


 エルナーズにとって今一番知りたいのはタウリスの状況でもエスファーナの状況でもない。


 左半身が熱い。


 寝台から下りた。重い体を引きずって二、三歩歩いた。


 壁に姿見が立てかけられていた。

 姿見を覗き込んだ。

 エルナーズは息を詰まらせた。

 顔全体を包むように包帯が巻かれていた。特に左側を重点的に覆い隠そうとしているようだった。表面が膨れている。包帯の下にまた別の布を当てられているに違いない。


 心臓が破裂しそうだ。


 手探りで包帯の結び目を探した。首の右側にあった。

 震える指先でほどいた。固い結び目はなかなかほどけず、引っ張られた顔の左側が痛んでつらかったが、全力で急いだ。


 包帯を少しずつ解いていく。


 下から白い木綿布が出てくる。左目の上から唇の左端まで大きな木綿布が当てられている。

 黄色い体液が滲み出ている。


 怖い。

 でも、確かめずにはいられない。


 大きくわななく手を左頬に押しつけた。

 木綿布はなかなか取れなかった。貼り付いていた。剥がすのに痛みを感じた。


 胸が、爆発する。


 左目が開いた。

 よかった、目が見える――そう思ったのも束の間、


「俺の、顔」


 皮膚がなかった。

 左目のまぶたから、左顎の下まで、皮膚が、剥ぎ取られていた。

 薄桃色の肉が剥き出しになっている。頬の端には、おそらく焼けた皮膚の残骸であろう、縮んだ黒いかたまりがこびりついている。


 意識が遠退いた。


 頭の中に女性の声が響いた。自分の母親とおぼしき、優しかったあの遊女の声だ。


 ――エルちゃんは世界で一番綺麗、エルちゃんは世界で一番可愛い――




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