第3話 バカの定義

「中央はね、ホントお育ちの良いお坊ちゃんなんだわ、って思った」

 私服のナーヒドはふだんからは想像できないほど穏やかであった。食事中はけして声を荒げず、終始誰かの話に相槌を打っていたように思う。おっとりとした貴族の青年であった。

「あの違いすごいよなあ。ふだんいかに気ィ張ってるかだよな、って思うと、俺、ちょっと申し訳なく思ったりもした」

 エルナーズは肩をすくめた。

「仕事中もずっとあれだとみんなにナメられちゃうから正解っちゃ正解じゃないの」

「確かに。サヴァシュなんかあっと言う間に馬鹿にし始めそう」

 ナーヒドが声を大きくしたのは、唯一、カノが料理を手にしたまま出歩き始めた時だけだ。あの場にはそれくらいしか彼の世界の道徳を掻き乱すものがなかったのだ。そしてそれは行儀作法のしつけの範囲内のものとして認められるものだ。ふだんからこのくらいであればきっと誰とも衝突しないだろう。

「きっと純粋なんだわ。世界は正義と悪にきっぱり分けられるって信じてるの」

「なるほどなるほど、言われてみればそんな気もする。正義じゃないことを認めずにいたら何もかも認められなくなってったってわけだ」

「あれは誰かに悪いことを良いことだと教え込まれたら一気に暴走するに違いない、転落した時が見物ね」

「やっだエルちゃま怖いこと言うなよ」

「悪いこと教えたいわよねー、そういう意味では食べてみたいけど何かと面倒臭そうじゃない? 見返りがあるっていう確たる何かがなきゃちょっと」

 「それに比べるとね」と息を吐く。

「サヴァシュとはこちらからお願いしてでも一回寝てみたいのよね」

 エルナーズの「今回もダメだった」という嘆きに、バハルが「おやおや?」とつっこんでくる。

「サヴァシュに気があんの」

「そそられないわけないでしょ。だってアルヤ最強の男よ、一回くらい抱かれてみたいと思うじゃない」

「そんなもん!?」

 しかし彼はまたうまくかわしていくのだ。ふだんからあんな態度なので多少のことはどうせサヴァシュだからで許してしまうところもある。加えて最低限のことはわきまえているということか、彼はこういう話題の時は禍根が残らないようのらりくらりとかわすすべも身につけていた。だがそうであればなおのこと味わってみたいと思ってしまうものだ。

「俺もともとチュルカ人大好きなの。アルヤ男とは体力が違うからね、その気になれば朝まで楽しめるのよ。遊び相手としては最高」

「うわーエルちゃまこわい!」

「いいわあ、アルヤ最強という響き、筋骨たくましい体格、お金貯め込んでそうな感じ、どこをとってもオイシイ。これがときめきかな?」

「絶対違うと思う!」

 そして、思うのだ。

「ベルカナが言い掛けたの、何だったんだろうね」

 ナーヒドが出ていった後、サヴァシュが来るまでの間のことだ。カノを宮殿の宿泊場所に送ってから戻ってきたベルカナに、ユングヴィが問い掛けたのである。ナーヒドとサヴァシュはこれでもかというほど仲が悪いが、いつ何があってあそこまで関係がこじれたのか、ベルカナは知っているのか。

 ベルカナは答えにくそうな顔をしながらも語り始めた。

 もともと相性はあまり良くなかった。最初からぎこちない雰囲気ではあった。けれど当初はナーヒドの方が譲歩して一生懸命サヴァシュに語り掛けていた。ナーヒドの父親である先代の蒼将軍が年の近い者同士で仲を深めておくようにと言っていたからだ。

 しかし当時のサヴァシュはアルヤ語が分からずことばだけでは会話ができなかった。

「あの二人いくつだったかな」

「今は、中央が二十六、サヴァシュが二十七。一個違い。サヴァシュが神剣抜いたのが確か今から十二年前っつってたか――当時は十四と十五か」

 ある時事件が起こった。サヴァシュがナーヒドの顔面を思い切り殴った。それまでサヴァシュを兄だと言ってくっついていたナーヒドの態度が一変して今の状態になった。

 積もり積もったものもあったのだろうが、直接原因になったのは――というくだりで狙ったかのようにサヴァシュ本人が現れた。話が途切れてしまった。悔しがった一同を眺めて、サヴァシュが笑って俺の悪口でも言っていたのかと察しの良い一言を放つ。あの笑顔の憎らしさといったらこの上ない。彼はいつからあんなに流暢なアルヤ語を喋っているのだろう。

「北と南も帰っちゃったじゃん? 今頃中央六部隊だけ残されて殺伐としてんだろうな、と思うと、出てこれてよかったな。板挟みになってるユングヴィはちょっと可哀想だけどな」

「どうかな」

 エルナーズは一口酒を含んだ。

「ユングヴィ、案外うまくやってると思う。あのひとああ見えて結構やるのよ」

 「そう?」と首を傾げる。

「まあでも、エルがそう言うんならそうなのかもな」

「どういう意味」

「エルとユングヴィって仲良しだろ」

「そうとは限らないわよ」

「ほう」

「俺はユングヴィのあの、私バカだから、っていう口癖すごい嫌いなの」

「へえ」

「ユングヴィの全部が嫌いなわけじゃないんだけどね。それに十神剣の中では一番きょうだいって感じがするの、お姉ちゃんがいたらきっとこんな感じだったんだろうな、って」

 エルナーズは「だからこそ」と苦笑した。

「自衛のために線ひいてんだ、っていうのが見えちゃってムカつく。バカならゆるされると思わないでちょうだい、って。だいたいあのひと何をもって自分のことバカって言ってるのかな、学校に行ったことがなくて一般教養が分からないのがバカなら同じような知的水準の俺もバカなのよ、あんたそういうことまで考えて言ってるのって言ってやりたくなる。そうやって逃げてきたツケを払って一回痛い目見ればいいんだわ、って俺は思っちゃうのよ」

 その時だった。戸を叩く音が聞こえてきた。

「エルナーズ将軍」

 空軍の兵士だろう。

 舌打ちをしたエルナーズに、バハルが「相手してやって」と言う。仕方なく「どうぞ、起きてますけど」と答える。

 入ってきたのはエルナーズと同じか少し上くらいの年若い青年であった。空軍の空色の制服を真面目に着込んでいる。

 青年は部屋の中に踏み込んでから目を丸くして動きを止めた。その目はバハルを見ていた。

 エルナーズは笑った。

「大丈夫よ、バハルとはいかがわしいことをする仲じゃないもの」

 青年が「申し訳ございません」とかしこまってひざまずく。バハルが「おっと」と頬を引きつらせる。

「ちょっとエルちゃまふだんの行ないが悪過ぎるんじゃないの?」

 エルナーズは鼻で笑った。空軍にとっては自分が部屋に男を連れ込むなど日常茶飯事だ。誰かと二人きりでいたらまずそういう行為を連想する彼らは間違っていない。

 いつものことだ。

 エルナーズからすれば将軍になる以前から当たり前だった行為に対して、彼らはいつもこんな風に身構える。

 将軍の傍近くに控えるような貴族出身の上級兵士たちの世界はとてもきれいだ。

「何の用? さっさと済ませて出てってくれない?」

 エルナーズが言うと、青年はまた「申し訳ございません」と言いながら一通の文を差し出した。

「テイムル将軍から急ぎの文にございます」

 エルナーズとバハルが、顔を見合わせた。

「こんな夜中に?」

 すると青年はこんなことを口にした。

「副長が、どうしても、エルナーズ将軍にお考えいただきたいとのこと」

 エルナーズは眉をひそめた。

「昼だろうが夜だろうが軍のことを考えてろって?」

 青年は何も言わなかった。

「確かに、俺、ふだんは軍のこと何にも考えちゃいないけどね」

 バハルが「まあまあ」と間に入ってくる。

「いいじゃん、起きてたんだから。それに副長判断ってことはよっぽど大事な用件なんだろ」

「俺のところには来てバハルのところには来ないのね」

「テイムルは俺とエルが今一緒にいるの知ってんだからエル宛に出せば伝わるかもしれないって思ってるのかもしれないぜ」

 これ以上駄々をこねても時間を浪費するだけだ。青年の手から文を取って広げた。

 書かれていたのは簡潔で分かりやすい文章であった。

 エルナーズはこんな時も苛立ちを覚える。

 テイムルは知っているのだ。学校に通ったことのない、将軍になってから間に合わせで文字教育を受けたエルナーズは、今でも読み書きを不得手としている。それで気を遣って分かりやすい文章を書いてくる。相手がナーヒドやラームテインだったらもっと格調高い詩的な文面だったに違いない。そういうテイムルの優しさにエルナーズは腹が立つ。

「ウマル総督がいなくなった……?」

 バハルが顔をしかめて手元を覗き込んできた。

「何だって?」

「なんか、行方不明らしいわ。急に宮殿からいなくなったとか」

 「貸してくれる?」と言ってきたので、エルナーズは何ということなくバハルに文を差し出した。バハルが広げ直して沈黙する。

「それが、何なの? どうして、そんなこと、わざわざ急ぎで。白軍が捜してるんでしょ、俺にはぜんぜん関係ないじゃない」

「おい、まずいだろ。いつの話だ? 続報はないのか」

 青年がこうべを垂れて「まだ」と答える。バハルが「うーん」と唸る。

 置いていかれている感じがした。エルナーズは不快感を覚えてバハルに問い掛けた。

「それが、俺に何の関係があるって?」

「ありまくりだろ」

 バハルはいつになく真面目な顔で答えた。

「総督失踪が誘拐だったり、ましてや殺されていたりしてみろよ。アルヤでサータム帝国代表者の身に危害が加えられたとなったら、帝国にはアルヤに攻め込む口実ができる」

 そこまで説明されてようやく、エルナーズは、頷いた。

「アルヤの西側にあるサータムと戦争になった時、真っ先に戦場になるのは――あとは、さすがに分かるよな?」

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