第2話 日々失われていくエルナーズの栄光

 夏の間は灼熱の太陽にやかれ死に絶えていた花々が、少しずつ息を吹き返し始めていた。秋だ。この国はまた薔薇の咲き誇るこの世の楽園と化す。


 しかしエルナーズの心は浮かない。


 冬になれば自分は十八歳になる。


 時の流れはどうあがいても止まらない。背は伸びたし声は低くなったし体毛は濃くなる一方だ。いくら丁寧に肌を手入れしたところで、この先自分が西部一の美少年と謳われていた頃に戻ることはない。


 人生はどれほど多くのことを諦めれば楽になるのかと、エルナーズは思う。この世は何一つエルナーズの思うとおりにならない。


 柔らかな布団の上に横たえ、滑らかな絹の敷布に包まれた状態で、ぼんやりと天井を眺める。花の香りがする。百合に似ている。


 いい部屋に泊まることができても、いい男を連れ込めるわけではない。

 実に面白くない。


 それなら自分から出掛けようかと、エルナーズは体を起こした。


 何とかして護衛たちの目を盗むことはできないだろうか。これほどの規模の隊商宿がある街だ、人ごみに紛れて消えてしまうこともできなくはない、はずだ。


 何が軍神だ。アルヤ民族の信仰、アルヤ民族の希望、アルヤ民族の象徴――そんなおきれいなものなどエルナーズはもううんざりだ。

 かつて味わった享楽の日々に帰りたい。


 立ち上がった、その時だ。


 戸を叩かれる音がした。

 直後、能天気な男の声が聞こえてきた。


「エルちゃまー、もう寝ちゃったー? おにーさんとあーそーぼー」


 思わず苦笑する。


「起きてるわよ。お入りよ」


 投げ掛けると戸が開いた。


 顔を見せたのは案の定バハルだ。南方風の体を締めつける部分がまったくない上衣カフタンを着ている。左手には酒杯が二つ、その手首には紐でくくられた酒瓶がぶら下がっていた。


 エルナーズは彼が嫌いではなかった。ひとびとの規範にならない軍神には好感が持てる。全体的に締まりがないので恋の相手としては不足だが、こうして一緒に酒を飲むくらいなら歓迎できる男だ。


「よー、ちょっぴりおしゃべりしようぜぇ」


 遊びに行く機会は一回減る。けれど、副長に説教を喰らう危険を冒してまでしたいことでもない。それに、エスファーナから西部の州都タウリスまではまだまだ長い道のりだ。ひと晩くらいは宿でおとなしくバハルと語らうのも悪くない。


「ちょっとだけよ?」

「ひっひ、ありがとうございます。エルちゃまと二人きりなんてホント光栄です」


 バハルが床の絨毯の上に腰を下ろした。エルナーズもそれに続いた。


 エルナーズの前に酒杯が置かれる。バハルがそれに酒瓶の口を傾ける。乳白色の液体が甘い香りを漂わせながら酒杯を満たした。


 酒瓶を、バハルが床に置くや否やエルナーズが手に取る。同じようにバハルの酒杯に注ぐ。バハルが「どうも」と機嫌の良さそうな声で言う。


酒姫サーキイほどにはうまくできませんけど」

「エルほどの美男に注いでもらって嬉しくない男なんかこの世に存在しませんから」

「またまた。俺はもうとうがたっちゃったわよ。これからはラームテイン様の時代よ」

「おっと? ひょっとしてエルちゃま的にはラームの存在面白くない?」


 やんわり笑って酒を呷ったエルナーズに、バハルが「えーいいじゃん俺そういう話聞きたいー」と縋りついた。


「せっかく二人きりなんだし、普段地方住まいのもん同士、中央六部隊の悪口言おうぜ」

「何それ」

「真面目な話、地方四部隊ってなかなか会えないじゃん? 今回はたまたまこういうことになったけど、次はいつ東から出れるかわかんないからな。今のうちに交流させてくれよ」


 バハルは西部の農村出身らしい。十三歳で村を出て空軍兵士になり、八年前時の空将軍の護衛の任務でエスファーナに赴いた際に黄の神剣を抜いてしまったのだそうだ。以来東部に拘束されていて実家に帰省できるのは今度でようやく三度目だと言う。


「将軍って死ぬまで将軍でいなきゃなんないんだぜ。どうせだったら仲良くしときたいだろ。中央とサヴァシュなんか見てみろよ、どっちかが死ぬまでああとかマジで疲れるわ」


 普段は調子の良いことばかり言っておきながらたまにこうして現実的なことを言うバハルが好きだ。彼はいつもあえて陽気な態度を演じているのではないか――そんな風に勘繰っている時、エルナーズは自分が生き生きしているのを感じる。ごちゃごちゃした人間関係ほどおいしいものはない。


「中央とサヴァシュはね、今回仕事と関係ないトコで別々に会えて最高に面白かったわよね。その点ラームには感謝しないと」


 エルナーズとバハルが西部へ向かって経つ数日前のことである。

 アフサリーとベルカナが飲み会を企画してくれた。

 参加対象者は当初十神剣の全員のつもりだったが、ナーヒドとサヴァシュは一緒にするとまた揉め事に発展しかねない。どちらかだけ呼ぶか、あるいはどちらとも呼ばないか、で、ちょっとした議論になった。


 そこでラームテインが一計を案じた。


 まず、必ず時間どおりに現れ規則正しい生活を守るために深酒を避けるであろうナーヒドを先に呼ぶ。この時ナーヒドに細かいことは伝えない。ナーヒドが裏事情を知ると面倒なことになる可能性が高いからだ。


 サヴァシュには、包み隠さず、早く来るとナーヒドがいるからあえて遅れてやって来るように、と言う。サヴァシュは時間こそ守らないが話は通じる男だ。こうやって言っておけばナーヒド本人に余計なことは言うまい。


 はたしてラームテインの計算どおりになった。


 時間より少し早く会場に来たナーヒドは、何事もなく飲み食いして、ベルカナがカノを寝かしつけるために中座した時一緒に出ていってそのまま帰宅した。

 それから少し間を置いてのんびりと現れたサヴァシュは、カノとナーヒド以外の残っていた全員と談笑して呑気に夜明けを迎えた。


「あれは普段からああいう小細工ばっかり考えてるからできるのよ」


 バハルは大きく頷いた。


「よくひとを見てるんだなーと思ったわ、だってラームが将軍になってまだ、何ヶ月? 三ヶ月も経ってなくない? それでここまで十神剣の性格把握してんのがヤバい」

「ほんと頭のいい子よね。うかうかしてられないわ」


 バハルが「喧嘩すんなよ」と言う。


「どんな美少年が入ってきたところでエルが俺たちのエルなのに変わりはないからな?」


 エルナーズはそれをわらった。自分が彼らのエルナーズだった記憶がないからだ。結局のところバハルも十神剣は皆兄弟だとか言ってしまう人間なのである。幸せな奴だと思う。


 ラームテインは美しい。白い肌はなめらかで触り心地が良さそうだ。緩い弧を描く褐色の髪もつややかで、薔薇の花のような香りがする。成長期の少年特有の華奢な体躯で、手足は長く、かたい肉は一切ついていない。

 何もかもエルナーズがあのくらいの年にもっていたもので今は失ったものだ。


 それでいてあの機転と知識量では敵うはずもない。そんな相手に張り合ったところで無駄な労力だ。エルナーズはそんな愚かな真似はしない。余計なことはしないに限る。





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