第4章:空色の蝶の独白

第1話 桜将軍の掟

 外は秋の気配を感じないほど日差しが照っていたのに対して、霊廟の堂の中はひんやりとしていた。ベルカナは安堵して息を吐いた。これでカノも暑いとは言わなくなるだろう。

 今日、ベルカナはカノに黒一色の衣装を着せた。チャードルと呼ばれる東大陸西方の伝統の女性の衣装だ。一枚の大きな布で作られていて、頭の先から足首辺りまで全身をすっぽりと覆う。着るというよりは普段着の上にかぶせるといった方が近い。

 カノは嫌がってさんざん脱ぎたいと喚いた。暑いし動きにくいと言う。まして流行りではない。むしろ、仕事に生きる最近の女性たちからは女性を束縛する文化の象徴として批判されている。

 しかしベルカナはそんなカノを許さなかった。市井では今でもしょっちゅう見掛ける恰好だ。特別厳格な家でなくとも、家長がよほど革新的でない限りは娘にチャードルを着せるものだ。

 ずっと限られた人間としか交流しないならいいかもしれない。けれどいつどこで誰とやり取りしなければならなくなるか分からないのが人生だ。

 カノももう次で十歳になる。そろそろ他人の目を意識するよう教育しなければならない。年頃になってから困るのはカノだ。

 そういう教育は、きっと、ベルカナが施すべきなのだ。

 今日はベルカナもチャードルをまとった。衣擦れを感じながらここまで歩いた。

 ベルカナはむしろチャードルで良かったと思っていた。道中で将軍であることが見つからなくて済む。カノと二人きりでいるところをひとに見られたくなかった。

 廟の周りでは散策する人を見掛けたが、廟堂の中には誰もいなかった。

 カノが祭壇の前でひざまずいた。

「カノが来たよ、お父ちゃん。あんまりまめに来れなくてごめんね」

 持ってきた花や菓子を並べつつ、ベルカナは目を細めた。

「さ、チャンダンに最近のことを報告して」

「うん」

 カノが神妙な面持ちでまぶたを下ろす。ベルカナも肩の力を抜きながらカノの隣に膝をついた。

 歴代の橙将軍たちはきっと自分たちのこの後継者を心配しているだろう。何せカノより少し先輩のユングヴィがあの調子だ。

 ベルカナも、目を閉じた。

 ユングヴィは、将軍であろうと努めているというよりは、女性であることを放棄しているように見えた。最近ソウェイルを宮殿に帰して肩の荷が下りたのか少し雰囲気が変わったような気もするが、それでも男の恰好をして忙しなく動き回っていることに変わりはない。

 カノにはああなってほしくない。

 それもこれも全部自分にかかっているのだ。

 ベルカナが目を開けても、カノはまだ祈りを捧げていた。表情は真剣そのものだ。邪魔をするのは気が引けてしばらく黙って待つことにした。

 どれくらいした頃であろうか、カノがぱちりと目を開けた。濃い睫毛の密集したまぶたを瞬かせながらベルカナを見る。

「終わった?」

「待ってた? ごめん」

「いーええ、たっぷりお話してあげてちょうだい。チャンダンもきっと喜んでるわ」

「そうかなあ?」

 「というか、お父ちゃんほんとにここにいるのかなあ」とカノが呟く。

「なんかさー、お父ちゃんいつもちょー適当だったからさー、橙将軍は死んだらここって決まってるって言ってもさー、聞いてなかったごめんごめーん、みたいなノリでふらふらはなれてそうなんだよねー」

「そうね、確かに、チャンダンはそういう奴だったわね。でも、ま、可愛い一人娘に会えると思ったら何とかするんじゃないの」

 人の声が近づいてきた。参拝客だろう。ここは誰にでも開かれている霊廟だ、軍神にあやかりたい者はみんな気軽に入れる場所である。

 「行きましょうか」と促した。カノが「うん」と頷いて立ち上がった。

 二人連れ立って堂を離れる。ふたたび外の日差しの下に出る。カノが「暑い!」と文句を言う。

「ずいぶん長いことお祈りしてたみたいだけど」

 展望台の方へ足を向かわせながら訊ねた。

「チャンダンに何お話してたの?」

 途端、カノが頬を赤く染めた。

「だれにも言わないでくれる?」

「ええ、内緒よ」

「カノがおよめに行ってもお父ちゃん文句言わないでね、っていうお話」

 ベルカナは笑ってしまった。カノが「なんで笑うのよーっ」と怒ったので一応「ごめんなさい」と言ったが、九歳のカノがそんなことを言うとは、と思うと、可愛くていじらしくて仕方がないのだ。

「フェイフュー殿下?」

 カノが不機嫌そうな表情で「悪い?」と言ってくる。ベルカナは何とか笑いをこらえた。

「フェイフューってすごいのよ? サータム語も大華たいか語もできるし、さいきん宮殿に来る貴族の子たちの間で一番剣術が強くってね。しょーらいゆーぼーでしょ」

「どこでそういう言葉を覚えてくるの」

「それにカノが宮殿にいる時はおかしも用意してくれるしね、宮殿の中を案内してくれて一緒に塔の上にのぼったりとかしたのよ」

「それはそれは、困った王子様ね。将来きっと大勢の女の子をそうやってたらし込むようになるのよ」

「もーっ、なんでそういうこと言うのー!? カノだってカノが特別なんだと思いたいじゃーんっ!」

「そうね、そうよね、女の子だものね。お姫様の気分、味わってみたいわよねえ」

「ちょっと、真剣に聞いてる!? カノのことバカにしてない!?」

「してないわよ、怒らないでちょうだい」

 王族のフェイフューは自由に結婚できないはずだ。この二人が結ばれる可能性は限りなく低い。けれどカノがいつ誰と恋愛してもベルカナは応援するつもりだ。

 今のうちに好きなだけ恋をすればいい。いつか現実を見なければならぬ日が来る。それまでは自由でいてほしい。

 もっと言えば、できることなら夢から覚めないでいてほしい。桜将軍以外の女性将軍は結婚してはいけないとは定められていないのだ。いつか想いを叶える日が来てくれることを祈る。

「カノちゃんはいつもフェイフュー殿下と遊んでるのかしら」

「フェイフューと、ソウェイルと、三人で。テイムルが見てることも多いけど、きほん三人で遊んでるよ」

「ソウェイル殿下はどう? ソウェイル殿下は男性として魅力的でない?」

「ない!」

「あら一刀両断」

「だってソウェイル暗いんだもん! なにきいてもすぐわかんないとかむりとか言うんだよ? つまんない! フェイフューはいっしょにいて楽しいよ、おもしろいこといっぱい言うの。ソウェイルの分までフェイフューがしゃべってるんだよ」

「それはそれで困ったわね」

 『蒼き太陽』はソウェイルの方だ。すぐ傍にいる上にまだこどものカノには分からないようだが、より王位に近いのはソウェイルの方である。

 ベルカナは今のアルヤに必要なのはサータムに打ち勝てる力強い指導者だと思っている。その点、神聖な蒼い髪をしたソウェイルは、アルヤ民族統合の象徴として分かりやすく頼りになる――はずだ。それがこんな風に言われてしまうというのは何とも心もとない。とは言え聡明で勝ち気なフェイフューの方が力強く見えるのも分かる。

 カノがおとなになる時この国は荒れるかもしれない。

 今のうちに何とかしておかなければならない。何とか、何事もなくソウェイルが王位について争いに発展することのないよう、今から手を回しておくしかない。

「もうちょっとソウェイル殿下に手を割けるおとながいればいいんだけれどね」

 ふと漏らしてから、カノの顔を見て、思い出した。

「そう言えばカノちゃん、最近サヴァシュと会って喋った?」

 カノが首を横に振る。

「テイムルが、サヴァシュがソウェイル殿下に剣術を教えているらしいとか何とか、言っていたような」

「あ、それカノも聞いたよ!」

「聞いただけ? 参加はしてないのかしら」

「ソウェイル何にも言わないのよ、きょうみあるからさそってって言ったのにさ!」

 口を尖らせて「いいなあ、カノもサヴァシュに遊んでもらいたい」とぼやく。

「ちっちゃい頃はよく遊んでくれてたのになあ。将軍になって南にひっこしてからぜんぜん遊べなくなっちゃった」

「あら、憶えてるのね」

「わすれるわけないでしょ、毎日あのおっきい黒い馬で川まで連れてってもらったの、カノほんとうれしかったんだから」

 思えばベルカナがカノを産んだ時に手離しで祝福してくれたのはサヴァシュだけだった。それを思い出すたび、ベルカナは、サヴァシュだけは何があっても裏切れない、と思う。

「サヴァシュはね、毎日ふらふらふらふらしてるからだめ」

「そうね、あのコが決まった時刻に決まった場所にいてくれるっていうんならそこに王子様がたお二人とカノちゃんをぶち込むのにね。今度ちゃんと話をしてみようかしら」

 展望台に辿り着いた。煉瓦造りの低い壁の向こうにエスファーナの街並みが見えた。複雑に入り組んだ旧市街、その中央で輝く蒼宮殿、旧市街の外側を流れるザーヤンド川――砂漠に咲く一輪の薔薇、永遠の都エスファーナだ。

「――いいなあ」

 カノが呟く。

「カノもエスファーナにもどってきたいなあ。そしたら、フェイフューとも、ソウェイルとも、サヴァシュとも、一緒にいられるのに」

 「ベルカナとも」と言う声が風と風の合間に聞こえた。

「カノ、ベルカナがお母さんだったらよかったな」

 その声が風に掻き消される。

「カノのお母さん、今、どこで何してるのかなあ。お父ちゃん、なんで、カノにお母さんのこと話してくれなかったんだろ。カノ、お母さんがいてくれたら、エスファーナにいられなくってもがまんするのになあ」

 こらえきれなくなって腕を伸ばした。カノの華奢な体を強く抱き締めた。

「ごめんなさい」

 カノが目を丸くして「ベルカナ?」と首を傾げる。

「ごめんなさいね、カノちゃん。ごめんなさい」

 それでも、桜将軍だけは生涯独身でなければならない。情報を求めて男の間を渡り歩く桜将軍に誰か一人のものであった記録が残ってはならないのだ。

 生粋のアルヤ人であるベルカナには、掟に背くことはできない。今のベルカナにできることといったら、軍神の立場からこの国を良くする方法を考えることだけだ。

「どうしたの? なんでベルカナがあやまるの? ベルカナ……、何か、かなしいことがあったの? ねえ……」

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