第14話 私が十二の時

「やる」


 サヴァシュが何か手の平大のものを放った。それはユングヴィの太腿にぶつかってから布団の上に転がった。


 体を起こして手に取る。


 硝子ガラス製の、平たくて丸い小瓶だった。ユングヴィの手に収まるくらいの大きさで、木のふたで栓をしている。中には乳白色の液状のものが詰まっている。

 窓からの朝日に透かしてみようとした。不透明で中身が分からない。


 サヴァシュの右手が伸びてきて、ユングヴィの手から小瓶を取り上げた。


 木の栓を外して中に指を突っ込む。どうやら完全な液体ではなく凝固しているものらしい、それは柔らかく伸びた。


 小瓶を布団の上に置くと、サヴァシュはそれをユングヴィの腕に擦り込むように塗り始めた。


「傷痕に効く軟膏らしい。中央市場で見つけた」


 ユングヴィは「へえ」と呟いてサヴァシュの手を眺めた。大きな手の皮膚の厚みを感じる。昨夜触れられた時の熱さとは違う、安堵をもたらす温かさがある。


「ありがとうー。すっかり諦めててこういうの使おうなんて考えたこともなかったよ」


 それに今は裸でいることに慣れて羞恥心もなくなっていた。当たり前になってしまった。朝の明るい光の中でも隠そうと思わない。焦りもどこか遠くへ行ってしまった。


 思えば自分はいつも焦りに囚われていた気がする。毎日追われるように体を鍛えて動き回って働いていた。今は何に焦っていたのかも思い出せない。どうしてあんな生き方をしていたのだろう。


 最近何もかもが穏やかだ。特にサヴァシュといると時の流れが緩やかに感じる。これが彼にとっての時間の感覚なのだろうか。もしもそうだとすれば自分は永遠に彼に敵わないと思う。根拠はない、理由はないが、何となく、落ち着きのなかった自分では彼に勝てないような気がする。


 からだのすべてを委ねる。


 サヴァシュの指が醜く引きつれた傷痕をなぞっていく。それを、ただぼんやりと眺める。


「ほんと、私の肌、ぼろぼろだね」


 サヴァシュの指が右の乳房に触れた時、ユングヴィは初めてそんなところにも傷があることに気づいた。


「俺は別にどうでもいいんだが」


 傷に軟膏を擦り込みながら言う。


「お前が自分で気にしてるんだと思うと気になる」

「私が何にも言わなかったら気にならなかった?」

「だろうな」


 目を細める。

 とても、心地良い。気持ちが安らぐ。

 どうしてかは、分からない。こんな感覚は生まれて初めてのものだった。


「今日」


 サヴァシュが言う。


「夕飯何だ?」

「んー、何にしようかな、何がいい? ――ってちょっと待って、何言っちゃってんの、それじゃまるでサヴァシュがうちで食べるの大前提みたいじゃない?」

「あれだあれ、何だったか、挽き肉で玉ねぎが入っているやつ――シャーミーだ、シャーミー食いたい」

「当たり前のようにうちで食べるつもりで話を進めないでくれる? しかも肉団子シャーミーどんだけ手間かかると思ってんの、あれ働いてる人が仕事の後に作る料理じゃありませんからね」

「そうか、じゃあ次の休みの時だな。まあ、お前の作るアルヤ料理なら何でもいい」

「だからそうじゃない。最近サヴァシュ毎日うちでご飯食べてない?」

「食費?」

「そういう問題でもない」


 思わず自分の頭を掻いた。


「サヴァシュ結婚したら?」


 彼に「はあ?」と言われた。すぐさま「だからね」と返した。


「誰か肉団子シャーミー作ってくれそうな子お嫁さんにしたら? 昼間もずっとうちにいられる、一日中煮物ホレシュ煮込んでられそうな、主婦になってくれるお嫁さん」

「いや別にそこまでしてアルヤ料理を食いたいわけでは」

「一応将軍なんだから三人や四人養えるでしょ。ご飯も作ってもらえるし夜の相手もしてもらえるし万々歳でしょ」


 ユングヴィは「むしろなんで結婚してないの」と問うた。サヴァシュはやや間を置いてから「結婚しないつもりだった」と答えた。


「アルヤ女とは結婚できないと思っていた。どいつもこいつも気位が高くて、表ではにこにこしているくせに裏では何を言っているか分からなくて、面倒臭いと思っていた」

「女の子ってそういうものなんじゃないの? 私は男所帯に慣れ過ぎてちょっと麻痺してるけど」

「ああ、お前といると楽だ」

「そうじゃない子もいっぱいいると思うよ。でも、うーん、女の子の知り合いぱっと浮かばないから紹介できないや」


 他ならぬユングヴィがサヴァシュには家庭をもってほしいと思うのだ。

 ずっと考えていた。先日、ナーヒドと衝突した時のことを、だ。

 あの時彼があんなに怒ったのは、ナーヒドが銀細工のことに触れたからではないだろうか。


 そう言えばソウェイルとフェイフューの騒ぎの時も実家の妹の子供を見るために平原に帰っていたと言っていた。彼は実家の姉妹を大事にしている。それだけ自分の家族を愛せるということではないのか。


 今自分に触れている手も優しい。泣きたくなるほどにひどく心地良いのだ。こんな風にどこかよその女の子を慈しめばいい。


「お前は?」


 ユングヴィは首を横に振った。


「私は一生結婚しないよ」

「じゃあ俺も一生結婚しない」

「なんでそうなるの」


 彼はなぜか不機嫌そうな顔をした。そんな彼を眺めて、ユングヴィは溜息をついた。


「結婚ってさー、準備がすごい大変なんだよね」


 サヴァシュが顔を上げた。


「一生かかるくらいにか?」

「一生は大袈裟かもしれないけど、普通は、物心がついてからお嫁に行くまでずっと準備にかけるものだよ。三歳とか四歳とか、針と糸の使い方を覚えてからずっと、お母さんに手伝ってもらいながら自分で花嫁衣装や嫁入り道具を作るものなんだよ」


 目が合った。


「私さー、もともと東部の生まれなんだ」


 こんなことをひとに話すのは初めてかもしれない。


「七人兄弟の長女で、弟と妹が全部で六人いてさ。とにかくすごい貧乏だった。いつもお腹すいてた。お母さんを手伝って毎日料理してたけど、自分で作ったもの自分で食べるってのはあんまりなくてさ――ちょっとでも弟たちに食べさせなきゃいけないと思ってて、私いつも我慢してた」


 けれどなぜか止められなかった。


「知ってるかなあ、東部ってすごい地震が多いんだよ。私が十二の時、めちゃくちゃ大きな地震が起こって、お父さんと弟たちが死んじゃって……男手がなくなっちゃって、もっと貧乏になっちゃって、それで――」


 空っぽになったひつの中を思い出した。もう泣かないと決めていたのに、目の奥が痛くなってきた。


「お母さん、私の嫁入り道具、全部、売っちゃったんだ。私、ずっと、家事の合間にこつこつ作っていたのに。お母さん、私に黙って全部お金にしちゃったんだよ。私がブスだから結納金じゃ稼げないと思ったみたいで、私じゃなくて物の方を売った」


 そこで「でもいいんだ」と言った。そう、自分に言い聞かせていた。


「私さ、ちっちゃい頃から男の子みたいで、空いた時間は近所の男の子たちや弟たちと追い掛けっこしてることのが多かったくらいだし、同い年の子たちの中でも一番体格が良くて、取っ組み合いの喧嘩をしてもぜんぜん負けたことなんてなくてね。でも妹たちはそうじゃなかった。妹たちまでお嫁に行けなくなっちゃったら可哀想だと思った。一番大きくて強い私がしっかりしなきゃ、って、いろいろ考えて、最終的に、こっそり家を出た。一人でエスファーナまで来たんだ、都会だったらこんな私でもできることがあるんじゃないかと思ってた」

「そうだったのか」

「もうほんと、今思えばバカだな、って思うよ。都会に出ても女の子一人でできることなんてないもん、読み書きそろばんもできないし、美人でもないしすごく怖かったから売春とかも考えられなくて。それでしばらく地下水路カナートで寝起きしてたんだけど、ある時人買いに遭って――でもすごく運が良くてね、白軍の一斉検挙が入って、売られる前に保護されたの。神剣を抜いたのはその直後」


 軟膏のふたを閉めつつ、サヴァシュが言った。


「こっちに来てから親と連絡取ったか?」

「いや、まったく。もしかしたら私が将軍になったことも知らないかもしれない」

「お前の親、後悔してるだろうな」

「どうだろう。私がいなくなって、家事や子守の人手が足りなくなった、っていうのは、あるかもしれない。けど、口減らしになったって考えたらよかったんじゃないかな」


 不意に抱き締められた。胸と胸が触れ合った。

 やめてほしかった。

 ぬくもりが優し過ぎて涙が溢れてきそうだからだ。

 こらえて呟いた。


「妹たち、売られてないといいな。みんな、私とはぜんぜん似てなくて、可愛かったんだよ。ちゃんとお嫁に行って幸せになってほしいな」

「だからってお前が幸せになったらいけないわけじゃないだろ」

「うん、そうかもね。私が私や私の妹たちの親だったら、そんな風に言ったかもしれないね。でも私は無理、考えるのに疲れた。黙ってお世話になった王家のために戦ってればいい、体を動かしてる間は、将来がどうとか、考えられないから」


 体が離れた。次の時口づけされた。どうして今、と思ったが、何も言わなかった。心地好かったからだ。やめてほしくなかった。


 強いて幸せになろうとなどしなくてもいい。言うなら今が人生で一番幸せだと感じる。すべて彼のおかげだ。


「朝ご飯食べよう。早く支度しないと、ソウェイルが待ってるかもしれない」


 サヴァシュに囁いた。サヴァシュも「そうだな」と頷いた。




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