第10話 旅立たされた日

 デヘカーン家に迎えの一団が訪れた。全部で五名だ。いずれも砂漠の遊牧系サータム人らしく、全員揃えたように白い貫頭衣カンドゥーラを着ていた。武具の類は皆腰の短剣ジャンビーヤだけだ。一見無害な隊商キャラバンの一行を思わせた。


 そのうちの一人である恰幅の良い男が、ひげ面に笑みを浮かべて、一歩前に出てニマーに右手を差し出した。ニマーもすぐさま右手を出し、固い握手を交わした。


「私が責任をもってお届け致します。道中の心配はありません。私はこう見えて帝国では名の知れた商売人です、控えている者たちも皆商売上の部下に見せかけた護衛です」


 流暢なアルヤ語だった。アルヤ語は東大陸における通商上の公用語だ、この男はその筋では相当なやり手に違いない。


「ほう、この人数で砂漠を渡るとなるとなかなかの達人揃いなのだな」

「もちろんです――と言いたいところですが、私も長年通商路を練り歩いている者です、念には念を押しますよ。エスファーナの外にらくだを待たせていまして、そこでもう何名か追加をする予定です」

「エスファーナの外に、かね」

「エスファーナはよそに比べれば治安が良いですから。大人数で固まって歩く方が白軍に目をつけられます、武装は軽微にした方がいい」

「ふむ、エスファーナ事情にも明るいと見える。頼もしいですぞ」


 ニマーがラームテインに腕を伸ばした。拒む隙を与えることなくラームテインの頬を包む。


「とうとうこの日が来てしまったな。こんなにも寂しいものだとは思っておらなんだ」


 ラームテインは笑みを作ってやった。


「今までありがとうございました」


 強く抱き締められた。


「ラーム」


 ニマーの纏う香の臭いに一瞬だけ顔をしかめる。この臭いとも今日でおさらばだ。


「お前の幸福をここから祈っているぞ。永遠に、この命尽き果てるまで」

「僕もです、ご主人様」

「おお、ラーム、ラームや」


 大した茶番だと思った。日が暮れるまで続くのではないかとも思った。ついついどうやって解放されようかと悩んでしまった。


 幕を引いてくれたのは、意外にも、様子を見守っていたサータム商人だった。


「あまり長く惜しんでいますと離れられなくなりますよ」


 サータム商人に肩をつかまれたニマーが、「貴殿のおっしゃるとおりだ」と言って離れた。サータム商人が人の良さそうな笑みを浮かべた。


「ではな、ラームよ。いつまでも息災で。お前が帝国で活躍することを期待しておるぞ」

「はい。ご主人様こそ」


 今度はサータム商人に肩を抱かれた。強く引き寄せられて「さあ」と囁かれる。そんなことなどされなくともニマーやデヘカーン邸に未練はない。ラームテインは前を見て歩き始めた。


 ニマーを振り返る真似はしなかった。だが、ニマーがいつまでもラームテインの背中を見つめているのは感じていた。やめてほしかった。ニマーには自分を想う気持ちが本当にあったのではないかと勘違いしそうになる。


 三年暮らした屋敷から一歩ずつ離れていく。図書館に通うため何度も行き来した通りを一歩ずつ踏み締めていく。


 これでお終いだ。


 帝国で一からやり直そうと思った。ニマーの言うとおりになるのは癪だが、自分は本当にこれから帝国でどうやって道を切り開いていくかを考えた方がいい。その方が建設的で生産的で現実的なのだ。


 しかし、大きな交差点に出た時だった。


 サータム商人がひげの下で笑った。先ほどニマーに向けた人の良さそうな笑みとはまったく違う嫌な笑顔だった。


「それにしても、綺麗な子供だな」


 大きな宝石の指輪のついた指が顎をつかんだ。顔をむりやりサータム商人の方へ上げさせられる。


「長年アルヤ人の子供を扱っているがお前ほどの上玉にはなかなかお目にかかれない」


 ラームテインは思わず顔をしかめた。サータム商人が愉快そうに目を細めた。


「デヘカーン卿が羨ましい。いったいどこでお前を仕入れたのか。やはり田舎でみなしごを漁るのではなくエスファーナの深窓育ちを狙う方が儲けになるのか」


 子供を扱っている――仕入れる――みなしごを漁る――深窓育ちを狙う――冷たいものが胸中をぎった。


 サータム商人が周囲の護衛たちにサータム語で何事かを告げた。手を出すな、と言っていたように聞こえた。いつもの商品とは違うのだから、と――


「貴方は奴隷商なんですか」


 ラームテインの問い掛けに、サータム商人は難なく「ああ」と答えた。


「子供の運搬に慣れているからのご指名だ。お代としてすでに何人か納めていただいている」


 ニマーにそんな面もあったとは知らなかった。

 絶句したラームテインの髪を撫で、「心配ない」と言う。


「今からお前をお届けする先は皇帝陛下のご親族だからな。大事な大事な商品だ、きずをつけたら首が飛ぶどころの騒ぎではない。お前を丁重に扱う」

「ちょ……っと、待ってください」


 護衛たちが歩き出すのにつられて足を進め始めつつ、


「僕は奴隷として売られるんですか?」

「声が大きい。ひとに聞こえるだろう」


 大きな手で口を塞がれた。


「違いに何か、こだわりが?」


 サータム商人の瞳が鈍く光る。


酒姫サーキイと奴隷はどう違う? サータム人の私にはまったく分からない」


 自分はそういう意識の者たちに囲まれたところへ行くのだ。


 いつの間にかひとけの少ない路地へと進んでいた。枷をはめられているわけでも縄で縛られているわけでもないのに、逃げられなくなっていく気がした。


 一歩遅れた。周りを固めている護衛の男に肩を小突かれた。


 次第に大通りから離れてきた。通りというよりは壁と壁の間と言った方が合う入り組んだ道を歩かされ始めた。


 自分はこれからどこで何をやらされることになるのだろう。ニマーの酒姫サーキイとして暮らしていた時と変わらないのではなかったのだろうか。もっと低い身分に落とされるのだろうか。耐えればサータム帝国で何らかの地位を得られる話はいったいどこへ行ったのだろうか。


 何の変哲もないエスファーナの裏路地の壁が急に重苦しく感じられるようになった。


 向かう先が読めてきた。エスファーナの城壁にある門の中でも南西の門の方へ進んでいる。通商路の一部となっている東西の門とは異なり、地元の民しか使わない小さな門だ。

 それは暗に今の自分たちが大きな門から堂々と出られる立場ではないことを示している気がした。


 頭の中が真っ暗になった。

 一生犯され続けながら暮らすくらいなら死んだ方がいい。


 周りの男たちの腰にある短剣ジャンビーヤに目を向けた。


 どこかで、どうにかして、どうにかなるしかない。


 その時だった。


 ラームテインの思考を読んだかのように顎の下で銀の光がひらめいた。

 刃物だ。

 後ろから喉元に刃物を突きつけられた。



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