第10話 エスファーナの狭い裏路地で 2

 ユングヴィの顔色が変わったのをベルカナは見逃さなかった。


「三年前」


 ベルカナが繰り返した。


「十神剣は四人も入れ替わったわね」


 蒼将軍、白将軍、橙将軍、そして西方守護隊のくう将軍の四人だ。


 サータム帝国はアルヤ国の西側に位置している。アルヤ西部の高山地帯を制圧するのは地理的な距離で言えばたやすい。


 ユングヴィには外交がどうとか貿易がどうとかといった政治経済のことは分からない。したがって何がどうなって開戦に至ったのかはいまだに理解できていない。

 ただ、王が望んでいた。

 王の望みのままに戦うのが十神剣の務めだ。ユングヴィにはほかに何の理由もいらなかった。


 けれど最後はその務めを放り出して逃げてしまったのもまた覆しようのない事実だ。


 アルヤ国は、今、サータム帝国の一部だ。


 だが、誰も、お前のせいだ、とは、言わなかった。

 言われないのをいいことに自分も何も言わなかった。何事もなかったかのような顔で相変わらず十神剣として居座った。


 今日、ベルカナがとうとうこの話題に触れた。

 そろそろ、向き合え、と言われているのかもしれない。


「あんた、あの時――あたしらとはぐれた後、何してた?」


 ベルカナは時々厳しい。だがその厳しさも彼女の優しさのひとつだ。誰も踏み込めないところに踏み込む役目をかって出てくれる。そして、そう言いながらも話を聞いて、最終的には受け入れてくれる――導いてくれる。


 唾を飲み込んでから、ユングヴィは口を開いた。

 三年前――エスファーナ攻防戦を、思い出す。


「……私は、地下水路カナートに逃げたよ」


 少しずつ、確かめるように、言葉を紡いだ。


「私には何にもできなかった、ただ逃げてばっかりで地上にいなかったから。そうだ、私の分サヴァシュが戦ってくれたんだよ。私が、すべきだった、ことを。私はあの時、サヴァシュにやってもらったんだ。あの時は、サヴァシュに救われた、って思ってる」


 小声で「みんなの前では、ちょっと、言えないけど」と付け足したユングヴィを、ベルカナはやはり否定しなかった。


「みんなの前で言ってもいいのよ」

「そう、かなあ」

「サヴァシュについてはあんたの言うとおりよ。あのコがあの時西を切り捨ててエスファーナに戻ってきてくれなかったら、エスファーナはもっと悲惨なことになっていたかもしれない。あのコはエスファーナの救世主だわ」


 三年前、サヴァシュが早々に引き揚げてこなかったら、被害はさらに拡大していただろう。王都エスファーナはアルヤ王国どころか世界の中心で百万都市だ。どんな都市に替えてでも守らねばならなかった。


「フェイフュー殿下をお助けする時間だってあのコが作ったようなものでしょ。あのコが最後にひと暴れしてくれたおかげであたしたち桜軍も時間を稼げた、エスファーナの住民も相当数避難できたわ。あのコ自身は本当は市街戦なんてやりたくなかったでしょうにね」


 胸が激しく痛んだ。

 それは、本来、赤軍の仕事だ。


「ま、普段の行ないが悪いから何を言われてても庇えないけど」


 その台詞にひと息をついてユングヴィが「当人気にしてなさそうだしね」と言った、その直後だった。


「だからと言って赤軍が役に立ってなかったとは言わないわよ」


 ユングヴィは、目を、丸くした。


「誰もそんなことは言ってないでしょ」

「ベルカナ」

「みんな分かってはいるのよ。でも、誰にも言えないの」


 ベルカナの長い睫毛が頬に影を落とした。


「みんな、ユングヴィを助けられなかった、って、思ってるのよね。あんたは頑張ってたのに誰も褒めてあげられなかった。あんたが本当は何を思って何を感じてどうしたかったのか誰も聞いてやれなかったわ。だから、あんたの前では、何にも言えなくなっちゃうのよ」


 優しい声で「ねえユングヴィ」と投げ掛ける。


「教えてちょうだい。あんたはあんな乱戦の中どこに向かったの?」


 ベルカナは穏やかな目で自分を見ている。しかし逃げることは許されない。まっすぐ、真正面から、見つめられている。

 ユングヴィはうつむいた。少しでも逃れたかった。


「ごめん、なさい」


 ベルカナが「勘違いしないで」と言う。


「あたしたちは怒ってなんかない。誰ひとりとしてね。ただ、言ったでしょ。みんな後悔してるの、あんたをひとりにしたことを」

「しょうがないよ、あの時はみんな余裕がなかった、私はひとりでちゃんと自分の仕事をしなきゃいけなかったんだ。だって将軍がほとんどいなかったんだよ? エスファーナの最前線にいたのは私だけだった」


 帝国軍に見つからないよう陰に日向に補給物資を送り届けていたベルカナと桜乙女たちはその光景を黙って見ているしかなかった。彼女たちに助けを求めるのは間違いだ。


「ナーヒドとテイムルはまだ将軍じゃなかったし目の前で自分たちの肉親が死んでた、私に構ってる場合じゃなかった。本当は私がしっかりしなきゃいけなかったんだ」

「そう……、そんな風に思っていたのね」

「ナーヒドは偉いよ、あんなに慕って尊敬してたお父さんが目の前で殺されたってのに涙ひとつ見せずにフェイフュー殿下をお助けした」

「お父さんが亡くなったからでしょ。誰かを、何かを、守りたかったんでしょ。フェイフュー殿下がいらっしゃると思えば強くいられたんでしょ」


 それは、自分もだ。

 自分も、ソウェイルがいたから、走り続けられた。逃げることにも肯定的になれた。ソウェイルのためだと思えば誰かを裏切ることになってもいいとすら思った。


 それを口に出すことができない。


「あんたはどうやって生き延びたの」


 ベルカナが繰り返した。


「あんた、三年前に変わったわね。もともと本音は言わないコだったけど、もっと堂々と隠し事をするようになったわ」


 動揺のあまり顔を上げた。

 ベルカナはなおもまっすぐユングヴィを見ていた。


「あたしたちのせいだと思うわ。だからこそ、教えてちょうだい。何をしたらあたしたちはあんたの貴重な三年間を取り戻せるのかしら」


 言葉が出ない。


「あの時、あんたは、何を見たのかしら。何をしたのかしら。そしてそれは、あたしたちには言えないこと?」


 ベルカナの目を見ることができない。


「あたしたちのこと、そんなに信用できない……?」


 ユングヴィには、ただ、茶を飲むことしかできなくなってしまった。




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