第3話 王都陥落の日――自宅にて

 腕が疲れで痺れて感覚がなくなっている。

 それでも、ユングヴィは荷物を強く抱き締め続けた。そうすると布に包まれたままの王子の温もりを感じられたからだ。


 生きている。


 気を失っているのか、はたまた王妃が何かを飲ませたのか、王子は身じろぎ一つしなかった。ユングヴィにされるがまま声一つ上げない。何度かユングヴィの頭の中に万が一のことがぎっていったが、温もりや柔らかさが失われている感じはまったくないし、布に体液が染み出ている感じもない。それに今は起きないでいてくれる方が助かる。


 ユングヴィが蒼宮殿の敷地の片隅にある自宅に戻った時もなお、辺りは静かだった。


 扉は壊されていた。

 すでに敵兵が荒らしていった後のようだ。念のため神剣を抜いて片手に構えたが、覚悟を決めて突入しても、誰とも遭遇しなかった。

 ただ、屋内の、戸という戸、幕という幕が破られ、衣服や日用品が床に散乱している。


 寝室に辿り着いた瞬間、ユングヴィは膝からくずおれた。緊張の糸が切れたのだ。


 もしかしたらまた誰かが戻ってくるかもしれない、とも、思わなかったわけではない。けれどこれ以上ユングヴィにはどうすることもできない。その時はその時だ。


 頭が働かなかった。

 なぜ、人の姿がないのか。なぜ、人の声がないのか。

 考えられない。


 まず、ずっと腕に抱えていた荷物を、敷布の引きがされている寝台の上に置いた。

 次に、神剣を鞘に納めて壁へ立てかけた。

 それから、体幹を守っていた甲冑を脱ぎ捨て、床に放り投げた。


 足を引きずるようにして姿見へ向かう。この家ができた時に第一王妃が年頃の娘には必要だからと言って与えてくれた鏡だった。


 鏡の部分は叩き割られて蜘蛛の巣状のひびが入っている。上部に装飾としてはめ込まれていた宝玉は抜き取られていた。


 ひび割れた鏡に、自分の姿が屈折して映った。


 まったく気づいていなかった。自分も血みどろだった。いつ怪我をしたのだろう。甲冑のなかった部分のほとんどが傷ついている。左肩は裂けて今なお血が流れ出ているし、右の二の腕は折れた矢が突き刺さったままだった。足も、爪が割れているに違いない、爪先が両方とも真っ赤だ。


 笑ってしまうほど、敗残兵だった。


 転んだ時にこすったのだろうか、右頬のみならず右耳まで擦り切れていて、右側頭部は砂ぼこりにまみれている。


 震える手で服を脱ぎ、下着姿になる。


 この二年間がむしゃらに鍛え続けてきた筋骨はたくましく、肩も首も筋張っていた。腕や脚に無数の傷痕が残る。頬や手は日焼けして荒れている。散切り頭だった赤毛は、戦の間には落ち着いて切ることができなかったために少し伸びて頬にかかっていた。


 服の隙間から小刀を取り出し、自らの右腕に突き立てた。肉を割り開いて矢を取り出す。強烈な刺激に痛みを思い出した。けれど矢じりごときれいに矢が抜けた。これで腕を切り落とさねばならなくなるような事態は避けられる。


 体に傷痕が増えそうだ。

 もう、いまさらか。


 鏡に触れる。

 その手にも、剣の柄を握り続けていたためにたこやまめができていて、短く切られた爪は割れていた。

 その場に座り込んだ。


 左手の先で、赤毛を軽く引っ張る。

 同い年の少女たちは、髪を長く伸ばして、マグナエと呼ばれる飾り布で頭を覆っている。

 自分の容姿は少年兵そのものだ。


「もう……、お嫁には、行けないなあ」


 口に出した瞬間涙がこぼれた。地下水路カナートの隅で膝を抱えて温かい家庭に憧れていた日々を思い出してしまった。


 疲れているのだろう。もう寝よう。


 寝台に身を投げようとして、思い出した。

 大事な大事な荷物が、寝台の上に放られている。


 慌てて手を伸ばした。今度こそ黒い布を剥ごうとした。

 布の端は固く結われていてなかなかほどけなかった。

 何とか黒い布を剥いだら、今度は中から王妃の衣装と思われる刺繍の美しい絹の布が次々と出てくる。これでは窒息してしまうではないか。


 最後の最後、白い布を剥いだ時、ユングヴィは硬直した。


 分かっていたつもりではいた。王妃があのような言い方をするということは、中に入っているのが何者であるのか、分かってはいたはずだった。

 本当の意味では、分かっていなかったのだ。本当に理解していたら今までこんな扱いをすることなどできなかっただろう。


 それは、アルヤ人の本能に刻み込まれている色だった。神聖な色だった。

 太陽の、色だった。

 太陽の、蒼い色をした髪の子供が、姿を現した。


 おそれのあまり、ユングヴィは手を離した。


 蒼い髪の御子――『蒼き太陽』だ。髪の蒼くない今の王よりなお尊く神に近いとされる存在だ。


 『蒼き太陽』が地上に遣わされた時、アルヤ王国は太陽に繁栄を約される。『蒼き太陽』がある限りアルヤ王国は滅びない。


 ユングヴィは、その場に膝を折ったまま、動けなくなった。

 目の前に――自分の家の中、自分の寝台の上に、『蒼き太陽』がいる。


 図ったかのようにそのまぶたが動いた。何度か引きつれを起こしたのち、徐々に持ち上がった。


 やはり、蒼だった。

 瞳の色もまた、王族特有の、太陽と同じ蒼い色をしていた。

 太陽、だった。


「――……、ここはどこだ」


 薄紅色の、形の良い唇が動いた。


 ユングヴィは動揺した。どうしたらいいのか分からなかった。だが『蒼き太陽』がお求めだというのに沈黙を続けるわけにもいかない。


「私の家です」


 『蒼き太陽』が、寝台の上に手をついて、上半身を起こした。


 太陽と呼ばれているにもかかわらず、実際に日の光を見たことはないのではないかと思うほど白い手や頬をしている。大きな二重の目も相まって、ともすれば女児に見えそうだった。


「おまえのいえ?」


 不思議な呪文を唱えるような声音で、『蒼き太陽』が言う。


「はい、あの――」

「キュウデンではないのか」


 ユングヴィは言葉に詰まった。何と言うべきか言葉を探した。

 そんなユングヴィの反応から、察したらしい。


「ああ。母上が、キュウデンはもうあぶないからと言っていた」


 彼は自分で言いながら表情を曇らせた。

 眉尻を垂れ、長い下睫毛に透明な雫を宿らせたその顔は、いとけなく、いじらしく、


「母上は……? 母上は、ばあやは、ほかの女官たちは……? みんな、どこへ……?」


 不安げな声は六歳の幼子そのものだった。


「大丈夫です」


 たまらなくなって抱き締めた。

 神聖な王族は、それも次の王であり神の子である『蒼き太陽』は、軽々しく触れていいものではない。

 それなのに――そうと分かっているはずなのに、ユングヴィは、どうしても、抱き締めなければならない気がした。


 六歳の子供だ。

 この子を安心させてあげなければならない。


「ユングヴィがお守りしますから……! このユングヴィがお傍にいますから、何にも怖いことはありませんから……!」


 ユングヴィを抱き返し、ユングヴィの胸に頭を預けて、『蒼き太陽』が「そうか」と呟く。


「おまえがユングヴィなのだな。父上や母上から聞いたことがあるぞ。今の十神剣じゅっしんけんにわかいおなごが入ったと。きっと長きにわたってわたしのそばにつかえてくれるはずだと」


 ユングヴィはただ、「はい」と頷いた。『蒼き太陽』は安心したのか小さく笑った。


「わたしの名はソウェイルだ。キュウデンの外に出たことがまだ一度もないから、民はだれもしらないかもしれないけれど」

「知ってます、殿下」


 『蒼き太陽』――ソウェイルは、弾かれたように顔を上げた。


「なぜ? 『あおきたいよう』はダイジだから、キュウデンでかくしてそだてるのだと母上が言っていたのに」

「民は誰でも次の太陽のことを知ってますよ」


 ユングヴィは、それでもソウェイルを離さずに告げた。


「誰よりも大事な方。お姿は見えなくても、みんな殿下の存在を信じて戦ってきたんです」


 ソウェイルが「たたかって」の部分を繰り返した。


「そうだ、ユングヴィ、とてもたくさんケガをしている。いたくないのか? だいじょうぶか……?」


 ユングヴィは泣いた。


「大丈夫です」


 神聖な太陽であると同時に六歳の幼子なのだ。


「大丈夫ですからね……」


 守らなければならない。








「なあなあユングヴィ、おなかすいた。ごはんまだ?」

「こら、ソウェイル! 食卓の上には乗らないって言ったでしょ!」

「おれ、今日はレンズ豆の汁物アーシュがいいなあ。肉の炊き込み飯ポロウはいらない……」

「好き嫌いはしないの! 何なのあんたは、うちに来たばっかりの頃はもっとお上品だったのにいつからそんな口を――」

「ユングヴィのせいだ。ユングヴィといるとちゃんとしなくてもいいんだもん、すごく楽なんだもん。おれ、このまま、ずーっとこうして、ユングヴィと、民とおんなじ暮らしをしていたいなあ」

「……、なんだかなぁ。ソウェイルはいつかは次の王になるんだよ。ソウェイルが次の王にならなきゃアルヤの民はこのまま路頭に迷いっぱなしなんだ――と思うんだけど、まあ……、今はまだ、いっかな……」





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