第6話 宮殿に赤い噴水が上がった

 サヴァシュの声が響いた。


「走れ!」


 彼が大きな声を出したのはいったいどれくらいぶりのことだろうか。

 目が覚めた。


 このままではソウェイルが斬られる。


 ユングヴィは走り出した。


 サヴァシュとユングヴィに気がついたらしい、男たちが一瞬動きを止めた。


 その隙をついて、ユングヴィはソウェイルの襟をつかんでいた男に横から体当たりをした。

 男が倒れる。ソウェイルが解放される。

 けれどソウェイルは呆然としたまま動こうとしない。


 別の男が斬りかかってきた。

 ユングヴィは背に負っていた赤い神剣を鞘ごと革の帯から引き抜いて横に構えた。鞘から抜く手間さえ惜しい。


 神剣の鞘と男の剣がかち合う。金属の音が響く。


 次の時男の首が飛んだ。


 黒い、漆黒の、闇を凝縮したような刃が、男の血液を撒き散らしながら宙を舞っている。サヴァシュの――黒将軍の神剣だ。


 首を失ってもなお立ったままの男の手から剣が落ちた。ややして胴も崩れ落ちた。ソウェイルの目の前に倒れた。ソウェイルの蒼ざめた頬に赤い血液がはねた。


 今度はユングヴィがソウェイルに腕を伸ばした。

 ソウェイルの腕をつかんでむりやり引いた。

 左腕でソウェイルを強く抱き締める。右手で赤い神剣の柄を握り締め左手で鞘を外す。鞘を地面に放り投げてソウェイルを抱え直す。


 三人目の男が向かってきた。刃をまっすぐ上から下へ振り下ろそうとする。それを赤い神剣の刃で受け止める。横に払って流す。

 男はすぐに剣を返した。男の剣と赤い神剣がふたたびぶつかった。

 押される。重い。ソウェイルを抱えているせいで満足に動けない。普段なら蹴り飛ばして何とかするのにと奥歯を噛み締める。


 最後の一人が襲ってくることはなかった。

 最後の一人は黒い神剣にほふられていた。

 サヴァシュが黒い神剣を水平に薙ぐ。男の剣が払われる。

 返す刃で男の手首を切り裂く。

 剣が落ちかけたところで、黒い切っ先で弾き飛ばす。

 地面に男の剣が突き刺さるか否かのところで大きく一歩を踏み込む。黒い神剣が斜めに男の肩を捕らえる。刃が食い込む。


 サヴァシュの銀細工が、しゃらん、しゃらんと鳴る。まるで狙ったかのように一定の拍を奏でる。舞を舞っているように聞こえる。


 肩に食い込んだ刃がそのまま急な角度で斜めに持ち上がった。男の首の根元に食い込んだ。男の首元が裂けた。

 刃を引く。赤い噴水が上がる。


 引き抜かれた黒い神剣は勢いを保ったままこちらの方へ動いた。

 そしてユングヴィと向き合っていた男の背中を撫で斬りした。

 男がユングヴィとソウェイルの方に向かって倒れた。ユングヴィはソウェイルを抱き締めたまま一歩引いた。


 視界の端に、最初に突き飛ばした男が映った。起き上がって剣を構え直そうとしている。


 今度こそソウェイルに触れさせない。


 ソウェイルを離した。

 神剣を地面と水平にした状態で一歩大きく跳んだ。

 男の胸に赤い神剣が突き刺さった。


 右に動かした。布が裂けて皮膚の断面が空気に晒された。骨の当たる固い感触が手に伝わってきた。


 男の腹に足をかけて神剣を引き抜こうとした。男の体を踏みつけるように蹴って地面に叩きつけた。引きつれた肉は重かったが、血に濡れた紅蓮の刃は肉から引き抜かれふたたび姿を見せた。


 黒いクーフィーヤの男たちが全員沈黙した。


 いてもたってもいられなくなった。

 ユングヴィは神剣を左手で握ったままもう一度ソウェイルを抱き締めた。


 ソウェイルの体が小刻みに震えている。肩が強張っている。


「怖かったね……!」


 ソウェイルの耳に頬を寄せた。

 温かい――その事実がとてつもなく愛しい。

 この子が、生きている。


「びっくりしたね、嫌な思いをしたね」


 サヴァシュを追い掛けてきて正解だった。間に合ってよかった。もしも少しでも遅れていたらソウェイルは殺されていたかもしれない。


 いつまで経ってもソウェイルの肩から緊張が解ける気配はない。


 こんな恐ろしいことがあるものかと、ユングヴィは思った。宮殿の中でソウェイルの命が狙われるのなど考えたこともなかった。なぜ考えなかったのだろう。自分はいつもどこかで甘い。


 ユングヴィがいくら力を込めて抱き締めても、ソウェイルは何も言葉を発しなかった。泣くことも忘れたようだった。ただただ震えている。


 まぶたをきつく閉ざした。


 ソウェイルを傷つけるすべてのものが憎いと思った。ソウェイルにこんな思いをさせるすべての存在を斬り刻んでしまいたい。この子に刃を向ける者すべてがユングヴィの敵だ。


「殺したな?」


 声に気づいて首だけで振り向く。

 斜め後ろでサヴァシュが血に濡れた刃をそのままに黒い神剣を鞘に納めている。


「当然でしょ、ソウェイルにこんなことして生かして逃がすものか」

「一人は生け捕りにして誰の差し金か確認しろ」

「あっ」


 そんな基本的なことも忘れていた。ソウェイルに手を上げられると頭の中から何もかもが吹っ飛んでしまう。それこそ赤軍の仕事だというのに、サヴァシュに指摘されて恥ずかしい。

 やっと頭に血が上っていたことを認識した。

 とりあえず、危機は去ったのだ。冷静になるべきだ。


 辺りに四人分、クーフィーヤをつけた頭が転がっている。


「何事だい?」


 後ろから声を掛けられた。

 振り向くと、白いクーフィーヤに白い貫頭衣ガンドゥーラの男たちが歩み寄ってきていた。

 先頭を歩いているのは総督ウマルだ。


 ユングヴィはウマルを睨みつけた。


 クーフィーヤに貫頭衣ガンドゥーラ――砂漠のサータム人の民族衣装だ。


 ソウェイルを背後に押しやった。両手で神剣を構え直した。


 込み上げてくる怒りに全身を焼かれる。

 冷静になるのなど無理だ。耐えられない。


 ソウェイルの命が奪われようとしている。


 ナーヒドの言葉が脳裏に甦る。

 サータム帝国は野蛮な国家でサータム人は野蛮な連中だ。


「殺してやる」


 ソウェイルの手がユングヴィの服の背中をつかむ。

 自分が戦わなければという思いがよりいっそう強くなるのを感じた。自分がこの子を守るのだ。


「絶対に許さない!」


 ソウェイルを振り切って一歩を大きく踏み出した。

 サータム人の護衛たちも剣を抜いて構えた。


 しかし、ユングヴィと護衛たちの刃がぶつかり合うことはなかった。


 銀細工の鳴るしゃらんという音が響いて、ユングヴィの前に黒い衣装の袖が伸びてきた。

 サヴァシュの腕だ。

 腹がサヴァシュの腕にぶつかった。

 サヴァシュに止められた。


「何するんだよっ」


 サヴァシュが半身をユングヴィの前に出した。足がサヴァシュの足に絡んだ。


「まあ、待て」

「待てるか! ソウェイルが殺されるかもしれないっていうのに」

「殺させない」


 サヴァシュの顔を見た。彼は横目でユングヴィを見ていた。目と目が合う。


「俺がいる」


 一瞬、ユングヴィは動きを止めた。サヴァシュのその言葉がすんなりと耳に入ってきたからだ。


 サヴァシュが自分の代わりに戦ってくれるのだろうか。それなら彼に任せて自分はソウェイルの相手に専念しようか。

 ソウェイルはきっと深く傷ついている。一刻も早くなだめてあげないといけない。

 自分がそうしてソウェイルに構っている間のことをサヴァシュに委ねてしまおうか。


 考えたのも束の間だ。

 サヴァシュが何をどこまでしてくれるのか分からなかったし、サータム人をこの手で斬りたかった。


 サヴァシュを睨みつけつつ、手の甲でサヴァシュを押し退けようとした。サヴァシュは微動だにしなかった。


「待ちたまえ」


 ウマルが言う。


「話をしよう」


 ユングヴィは「聞きたくない」と怒鳴った。サータム帝国の手先に耳を傾ける必要などない。彼奴らは悪魔だ。アルヤ王国を滅亡に追いやった連中だ。


「誤解があるようだ、私もこの状況が何なのか知りたい」

「黙れ、あんたなんか信用できない」

「お願いだ、ユングヴィ。君からしたらサータム人はすべて同じに見えるのかもしれないが、私は君たちの味方だ。少し話をさせてくれないか」

「誰があんたと――」

「落ち着け」


 サヴァシュに耳元で囁かれた。思わず「ぎゃあっ」と叫んで一歩下がってしまった。背中がソウェイルに衝突した。


「何やら事情がありそうだな」


 下がったユングヴィに代わってサヴァシュがさらに一歩前に出る。ユングヴィとウマルの間に入る形となる。


 ウマルが「おお」と頬を緩めた。声の調子が何となく明るくなった気がした。ユングヴィはその声を聞いてさらに苛立った。


「サヴァシュ、君が間に入ってくれるとは、実に頼もしいぞ」

「勘違いするな。話の内容次第では俺があんたを斬る」


 ウマルは両手を上げて手の平を見せた。


「俺もこれがどういう状況か知りたい。釈明できることがあるならしてみろ。全部聞いてから考える」


 頷いて、「賢明な判断だ」と呟くように言う。


「君は冷静な男だ」

「そういう御託はいい。こいつがいつまでおとなしくしているかも分からない、早くしろ」


 ユングヴィは顎で示されて眉間に皺を寄せたが、とりあえず神剣は下ろした。サヴァシュこそユングヴィが敵う相手ではない。ソウェイルが命を狙われるに至った経緯を知りたいとも考え始めた。刺客は全員殺してしまったのだ、黒幕だと思われるウマルに吐かせるしかない。

 ユングヴィが神剣を下ろしたのを見たからか、護衛たちも剣を下ろした。場に静寂が訪れた。





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