第5話 ぶれない、折れない、ゆるぎない

 腰を低く落とす。

 向かって右を睨みつける。

 木刀を薙ぐ。空気を裂く。

 手首を動かさず肘を引く。切っ先が止まる。


 サヴァシュの目の前には、今、サヴァシュだけに見える何かが存在している。そして、彼は、今、それを確実に切り分けている。

 彼の切れ長の目は相手をしかと捉えてけして離さない。


 いつもの、銀細工がこすれ合う時の音はしなかった。サヴァシュの身につけているチュルカ風の装飾品が、今ばかりは、まったく動かない。下半身がぶれない証拠だ。上半身のばねだけで動いているのだ。


 切っ先がまっすぐ斜め上に持ち上がる。見えない敵の腕を切り落とす。

 そのまま手首を返して首を狙う。喉が裂けた――ような気がした。


 目はなおも敵を睨み続けている。


 ゆるぎない強さを感じる。堂々とした、何にも恥じることのない、伸ばした背筋そのままの強さだ。


 首が左を向いた。首周りの金属が揺れてようやくしゃらんと鳴った。

 次に大きく右上から左下に木刀を振った時にももう一度上下して小さな音を立てた。だが連続して騒ぐようなことはない。楽器のようにひとつずつ音を奏でる。


 ユングヴィは、そんなサヴァシュの様子を眺めて、ひとつ、深い溜息をついた。

 完璧だと思った。胸を張った立ち姿、ぶれのない動作のひとつひとつ、視線の動かし方まで、何もかもが美しい。サヴァシュの容姿を美男子だと思ったことはないが、サヴァシュのこういった力強い動作は何度見ても綺麗だ。


「――何だよ」


 サヴァシュの黒い瞳がユングヴィを捉えた。


「あ、気にしないで。見てるだけだから」

「見れたか?」


 口に出すと調子に乗るので絶対に言わない。


 サヴァシュが肩の力を抜く。木刀を担ぐように肩の上へのせる。もう終わりだ。つまらない。


「丁寧だなあ、とは思った」

「基礎中の基礎、基本中の基本だろ」


 また自慢話が始まるのかと思いきや、彼は真面目なことを言った。


「俺は基本どおりのことしかしない」


 武術に関しては謙虚らしい。こういう姿勢も、つい、見直してしまう要素だ。


「いや、でも、基本がしっかりしてなきゃ次にいかないでしょ。私も先の戦争の前には副長とかテイムルとかにちゃんと習ってたのに向いてないやと思って途中から体術ばっかりになっちゃった」

「ああ。基本がしっかりしていないとひとに教えられないしな」


 ユングヴィは大きく頷いた。


 ここ数日、サヴァシュは毎朝欠かすことなくソウェイルに剣術の稽古をつけている。それも、意外にも、一切ふざけたり茶化したりすることなく、昼食の時間になるまで真剣に、ソウェイルと向き合い続けている。


 ソウェイルの方もサヴァシュの教えを素直に吸収し続けていた。もともとひとに従順なところのある子ではあったが、サヴァシュに対しても反発する様子はない。むしろ積極的に教えを乞うている。


 ユングヴィは嬉しい。

 ソウェイルが誰かと交流しながら運動しているところを見られる。

 生きていてよかったと、大袈裟でなく本気でそう思った。

 ソウェイルにやっと人並みの生活をさせてあげられるようになった。

 それもこれも、サヴァシュのおかげだ。


「私、ほんと、だめ。ひとに何かを教えるっていうのが向いてない。私自身の基礎がぐだぐだだからだな」

「それでもそれだけ動けるということは、感性というやつがいいんだろ。筋はいい。芯の部分を矯正してやればもっと強くなれるはずだ」


 最初はあのサヴァシュに預けて大丈夫なのかと心配していたものだが、今となっては、このサヴァシュだからこそ安心して託すことができると思える。サヴァシュに委ねて自分は宮殿の外へ働きに行くことができる。

 サヴァシュがいれば、自分は安心して戦うことができる。


「強く、なれる、かな。私、もっともっと、強くなれるかなあ」


 サヴァシュが右手だけで木刀を掲げるように持った。木刀と右腕が一直線になる。伸びた筋肉が美しい。


「お前にも教えてやろうか」


 ユングヴィは目を細めてサヴァシュを眺めた。


「うん……、私も、ソウェイルと一緒に、習おうか、なあ」

「ソウェイルと一緒に、か。それも悪くないな」

「ね。なんか、いいよね。なんだかよく分からないけど、いいな。私、今、すごい楽しい」


 とても、充実している。安心して前に進むことができる。


 しかし、そこで、サヴァシュがふと、息を漏らした。


「今日、あいつ、遅くないか」


 言われて初めて気がついた。


「あれ、そう言えば。寝坊でもしたのかな、珍しい」


 木刀を、下ろす。


「迎えに行くか」


 サヴァシュはユングヴィの反応を待たなかった。きびすを返して一人歩き始めた。

 彼はおそらく王族の居室としてソウェイルとフェイフューに割り当てられた北の棟を目指している。もともとは後宮ハレムの中の第一王妃――双子の実母――の間として使われていた空間だ。現在は女性が一人もいないので臣下の人間も条件が整えば入れるが、それでも深い理由なく堂々と入ろうとする男はめったにいない。彼には蒼宮殿に対するおそれが足りない。


 それでも――サヴァシュの背中を見た途端、ユングヴィは言い表しようのない不安に襲われた。あのサヴァシュが気にかけている、ということが緊急事態を示しているように思われたのだ。


 慌ててサヴァシュを追い掛けた。サヴァシュは一度ユングヴィを横目で見ただけで何も言わなかった。


 嫌な予感がした。おかしな汗をかく。


 ソウェイルに何かあったらどうしよう。


 今はウマル総督が使っている王の居住区と後宮ハレムをつなぐ回廊へ辿り着いた時だ。


 こちらへ向かって小走りで近づいてくる蒼い影があった。

 ソウェイルだ。

 ソウェイルは、フェイフューの服を借りているのだろうか、武官向けを小さくしたような動きやすい衣装を着て、袖や筒袴の裾を折ってめくり上げていた。髪も首の後ろで一つにまとめている。

 ユングヴィは一瞬頬を緩めた。いつもと違う恰好をしていて遅くなったのだろうと解釈して安堵した。


 そんなユングヴィの視界の隅に、黒い何かが映った。


 柱と柱の間を、黒い何かが音もなく走っている。


 何なのか分からなかった。あまりにも速かったし、あまりにも静かだった。


 黒いかたまりが柱の陰を移動している。


 黒いかたまりから生えた腕がソウェイルの背中に伸ばされた。


 ユングヴィは目を見開いた。


 ソウェイルの襟首がつかまれた段階になってようやく、黒いかたまりの輪郭を見て取れた。


 黒い衣装を着た男たちだ。黒い貫頭衣ガンドゥーラを身につけ黒いクーフィーヤをかぶり黒い布の靴を履いている男たちが四人、ソウェイルを囲もうとしている。


 後ろから服をつかまれたソウェイルは、その場でつんのめった。驚いた顔をして自らの服の襟で絞まる首に手をかけた。


 ソウェイルが顔を上げた。蒼い目を丸くした。

 そしてそのままその場に座り込んだ。


 何が起ころうとしているのか、場慣れしているはずのユングヴィにもすぐには認識できなかった。ましてソウェイルならなおさらだ。


 ソウェイルを囲む男たちが腰の剣を抜いた。

 刃が日光を弾いてひらめいた。




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