第3話 涙についてサヴァシュ先生のありがたいお言葉

 赤軍の施設から自宅に戻ろうと蒼宮殿の東の庭を歩いていた時だ。

 気配がしたので振り向いた。

 少し後ろにソウェイルが立っていた。

 走ってきたらしく赤い頬で荒い息をしている。幼い眉根を寄せ目には涙を溜めている。


「どうした?」


 ユングヴィが問い掛けると、ソウェイルが腕を伸ばしてきた。ユングヴィの服の袖をつかんだ。


「あの、」


 口を開いた途端頬に大粒の涙が零れ落ちた。

 ソウェイルはしばらくの間涙を拭うこともせず黙って涙を流し続けた。言葉どころか声すら出てこなかった。歯を食いしばり斜め下の何もないところを睨んでいる。ユングヴィの服の袖を握り締めた手が力を込め過ぎているのか白くなっていた。


 ユングヴィはその場に膝をついた。ソウェイルと目線を近づけようと思ったからだ。

 ユングヴィが膝立ちになるとユングヴィの目線よりも高い位置にソウェイルの目線がきた。ソウェイルが大きくなってしまったことを痛感する。王妃から預かった時はもっと小さかったはずだ。抱き上げてやりたいが――そしてそれはユングヴィの腕力ではさほど難しいことではなかったが、さすがにこの年になるとためらわれた。

 いつまでも自分の腕の中で大人しくしている幼子であればよかったのに、と、思ってしまう。


「どうした……? 何かあった?」


 それだけ言って、ユングヴィは待つことにした。ソウェイルを急かしたくなかった。世界に二人きりだった時のようにいつまでもソウェイルを待っていてやりたかった。

 しばらくの間蒼宮殿のせせらぎの音だけが聞こえていた。


 どれくらい待ったことだろう。


「フェイフューが――」


 一度言葉を発すると、ソウェイルはしゃくり上げるようになった。


「ナーヒドに剣を習ってるんだって」

「剣を?」


 ユングヴィから手を離し、自分自身の服の袖を口元に押し当てて声をこらえながら、ソウェイルが頷く。


「すごく好きで楽しいんだって」

「そう……」


 それでと、続きを促すことさえユングヴィにはできなかった。それが今のソウェイルとどう関係するのかとか、フェイフューがソウェイルに何らかの無理を強いているなら自分がナーヒドに申し立ててみようかとか、言いたいことはたくさんあったがすべて呑み込んだ。


 また少し間を置いてからソウェイルが言う。


「将来はさ、おれのことを守ってくれるんだって」


 また、ソウェイルの目から透明な雫が伝った。


 ユングヴィは困惑した。それの何がそんなにソウェイルを泣かせるのかまったく分からなかったのだ。むしろ、ソウェイルは王になるのだからフェイフューには積極的にそうであってほしいと思う自分がいる。


「……ソウェイル……?」


 どうやって訊ねようか言葉を選んでいた、その時だった。

 馬のひづめの音と、銀細工が触れ合うしゃらんしゃらんという音が聞こえてきた。

 振り向くと、黒い愛馬にまたがってこちらに向かってくるサヴァシュの姿が見えた。


 目が合った。


「何やってんだこんなところで」

「サヴァシュこそ」

「ヒマだからザーヤンド川まで散歩してきた」


 サヴァシュが顎でユングヴィの後ろの方を示した。言われてみればこの道の先に黒軍の厩舎があった。通り道なのだ。


「サヴァシュって、戦争がないと本当に何にもすることないんだね」

「ああ。退屈で死にそうだ。アルヤ人に飼い殺される」


 サヴァシュの視線が下におりた。ユングヴィは嫌な予感がした。サヴァシュの視界にソウェイルが入ってしまう。


「なんだ、泣いてるのか?」


 ソウェイルの肩が大きく震えた。涙も一度止まった。


「外でびーびー泣くな。強くなれないぞ」


 直後、ソウェイルが声を上げて泣き出した。

 ユングヴィはサヴァシュを睨んだ。余計なことを言われたと思ったのだ。しかも相手はサヴァシュだ。このままではソウェイルがおもちゃにされてしまう。


 サヴァシュが馬を降りた。そして、ソウェイルのすぐ傍に立った。黒い瞳でソウェイルを見下ろす。


「何泣いてるんだ。喧嘩に負けでもしたか?」


 ユングヴィが「あのねサヴァシュ」と言い掛けると、サヴァシュの目が一瞬ユングヴィを見た。


「お前は黙ってろ」

「は?」

「俺はソウェイルに訊いているんだ。お前が喋るな」


 あまりの物言いに唖然としているユングヴィをよそに、ソウェイルが喋り出した。


「フェイフューが、ナーヒドに剣を習ってて、すごく得意になってて――」


 ところどころしゃくり上げながらだったが、彼はユングヴィに説明できたところまでは説明した。


「どーやら、将来は、おれのこと、守ってくれるらしい」

「あー、余計なお世話だな」


 ユングヴィは目を丸くした。

 ソウェイルは三度も頷いた。


「ナーヒドの奴どうやってしつけたんだろうな? 何なんだろうな、あの鋼のような自尊心は」

「えっ、サヴァシュ、えっ? なに、今ので何が分かったのっ?」

「でも今のままだと仕方がないだろ、どう見てもお前よりフェイフューの方が強そうだ。屈辱的だろうがな」


 そこまで聞いて、ユングヴィはようやく悟った。

 つまり、ソウェイルはフェイフューに武術による強さを振りかざされて威圧されてきたのだ。

 サヴァシュの目には、ユングヴィには分からない男児の力関係の世界が見えている。


 サヴァシュは「お前は今のままだと負ける」と言い切った。ユングヴィは胸が冷えるのを覚えたし、ソウェイルも眉間に皺を寄せた。だが、サヴァシュはそこで言葉を切ることはしなかった。


「お前がフェイフューより勝っているところって髪の色が珍しいこと以外に何かあるか?」


 ソウェイルがまた、今度は堂々と嗚咽を漏らして泣き始めた。


 急いでソウェイルの肩を抱き締めた。


「なんてこと言うんだよ!」


 ところが、だった。

 他でもなくソウェイルが、そんなユングヴィの手を振り払った。

 驚いて黙ったユングヴィを放って、ソウェイルがサヴァシュに歩み寄る。


「サヴァシュは強いのか?」


 サヴァシュは顔色一つ変えずに「ああ」と答えた。


「十神剣で一番な」

「どうしたらおれも強くなれる?」

「強さなんてものは一言で言って説明できるものではないが、まあ、剣術だったらとりあえずがむしゃらに稽古を続けて鍛えた。まずは基礎的な体操から、それから素振り」

「おれ、剣を持ったこともない」

「教えてやろうか」


 予想外の展開だった。


「サヴァシュ何言ってんの」


 事もなげに「ヒマだからな」と答える。


「馬を置いてくる。そこで待ってろ」

「しかも今!?」

「善は急げって言うだろ。俺の気が変わらないうちに始めるぞ」


 戸惑って意味もなく手を振るユングヴィには目もくれず、ソウェイルが「わかった」と首を縦に振った。


「俺が戻ってくるまでには泣き止んでおけよ」

「だからサヴァシュ、もうちょっと言葉に――」

「泣くこと自体は悪いことじゃない。それだけ悔しかったってことだろ。俺だってガキの頃はさんざん泣いた。でもそれをひとに見せるな、一人で食いしばって噛み締めろ。強くなるというのは、そういうことだ」


 ソウェイルが頷いて自分の涙を拭った。




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