第5話 酒姫《サーキイ》になった理由《わけ》

 憩いの場の絨毯に腰を下ろしてから、フェイフューはラームテインから本を受け取った。


「ラームのオススメ、ぼくにも読めますかねえ」


 わざと意地悪をして「難しいかもしれませんね」と言うと、フェイフューは「本当ですよ、ラームはむずかしいことばかりです」と口を尖らせた。


「でもいいです、ラームが読んだ本は全部ラームにぼくにもわかるように説明してもらいますから」

「いつまでも僕が殿下にご教授できるとは限りませんよ」


 何気なく言ったつもりだった。言ってから、自分で落ち込んでしまった。実際に自分はサータム帝国行きが決まっている。フェイフューに会えなくなるまで残り半月足らずだ。

 帝国行きのことはフェイフューにはまだ話していなかった。フェイフューはいつまでもこうして会えるものだと思っているのかもしれない。


 そこで同時になぜかフェイフューも悲しそうな顔をした。一瞬何か言ってしまっただろうかと慌てたが、フェイフューはフェイフューで違うことを考えていたようだ。


「それに……、本当にむずかしい本は、図書館にはないです」


 ラームテインは眉をひそめた。


「それは、どういう?」

「ウマルがみんなどこかにしまってしまったのだそうです」


 ウマル、というのは、サータム帝国から派遣されたアルヤ属州総督のことだ。王を失った蒼宮殿の新しい主人であり、今のアルヤ国の実質的な最高権力者である。ニマーの一番の上司でもあった。直接会話をしたわけではないものの一応何度か会ったことがある。人のよさそうな笑みをした食えない男だ。


「しまってしまった?」

「ウマルはアルヤ人に本を読ませたくないのですって。どうしてかよくわからないのですけれど――とにかく、図書館が昔のままどんな本でも全部あると困る、と」


 ラームテインは「なるほど」と呟いた。すべてウマルの仕業だったのだ。

 フェイフューが「何かわかるのですか?」と問い掛けてきた。


「道理で哲学の書棚がすかすかになっているわけですよ。サータムの連中は政治思想に関わる本を抜いているのですね」

「政治思想?」

「アルヤ人がサータム人の政治に疑問を持たないようにするためです。政治の本を読んであるべき国家のあり方というものを考えるようになる人間がアルヤ国から現れたら困るんです」


 奴らにとっては幸いなことに、今エスファーナにいるアルヤ人の官僚たちの大抵はそのような大局を見てはいない。長いものには巻かれる精神でアルヤ王とサータム人総督をすげ替えて考えている――ニマーのように、だ。


「僕が知らないだけで兵学や歴史のたぐいもなくなっているかもしれません。アルヤ人の知識層が知恵をつけて帝国に反抗するかもしれないとなれば芽は摘んでおかなければならない」


 口を開けたまま自分を見つめているフェイフューに、ラームテインは「いいですか」と諭した。


「本を読むということは、文字というものが現れたいにしえより続く事実を、その長い時をかけて磨かれてきた思考の仕方という名の技術の粋を、かつては最先端を行っていた人々しか得られなかったものの見方を、この場にいながらにして短時間で習得する、ということです。これは誰かにものを考えてほしくない人々にとっては恐るべきことです」


 フェイフューに「アルヤ人にものを考えてほしくないということですか」と問われた。ラームテインは頷いた。


「難しい本はそれだけ本の中で提示している思考の仕方が複雑だということです。その思考の仕方を理解できた時には、それが強力な武器となる」

「本を読むだけなのに」

「少なくともサータム人たちはそう思っているのです。強力な武器だと分かっているから――本当は自分たちの武器にしたいから、図書館を焼かなかったんですよ。その、難しい本も、しまってあるだけで捨てたとは言っていないんでしょう? サータム帝国に持っていったのかもしれません」


 フェイフューが「確かに!」と叫んだ。


「ウマルはずるいです……!」

「頭の切れる男です。自分の手は汚さずに内側からアルヤ人を骨抜きにしようとしている」


 本を抱き締めて「この本が連れていかれなくてよかった」と息を吐く。


「帝国に行ってしまったら、もう、戻ってこれませんものね」


 不意に漏らされたその言葉が、ラームテイン自身にかけられたものであるような気がした。


「……帝国に行ったら、好き放題に本が読める――のかもしれませんね」


 自嘲が口をついて出た。


「帝国に行きたいですか?」

「行きたくなんかないですよ。でもせめて楽しみを見出せたらとは常々思っているんです」

「行く予定があるのですか?」


 まさか今この流れで告げるはめになるとは思っていなかった。けれどいつかは告げねばならぬと思ってはいたことだ。覚悟を決めて口を開いた。


「二週間後に」

「え?」

「殿下とこうしていられるのも、あと、半月はないかと存じます」

「そんな……!」


 フェイフューが絨毯の上に本を置いてラームテインの手をつかんだ。そして「どうして言ってくれなかったのですか」と手を揺すった。ラームテインは顔をしかめて「言いたくなかったからですよ」と答えた。


「楽しくない話などしたくありませんでした。ここにいる間くらいは現実を忘れたかった」

「楽しくない話なのですね。ラームは本当は行きたくないのですね」

「誰が好き好んでサータム人のところになんか……! 取り消してもらえるのなら取り消してもらいたいですよ」


 いつの間にか、フェイフューの手を強く握り返していた。


「どうして帝国にまで行ってまた酒姫サーキイの真似事をさせられないといけないんだ」

「断れないのですか」

「僕は酒姫サーキイです、主人が売ると言えば売られる身の上です」

「逃げられないのですか」

「逃げられるくらいならそもそも酒姫サーキイなんかやっていない!」


 三年前を、思い出す。


「戦争なんかなければよかったのに……! 戦争がなければ屋敷も倉庫も焼けなかったのに。商人たちへの借金だってなかった。戦争さえなければ」


 そこで「商人のおうちの生まれなのではなかったのですか」と訊かれた。反射的に「違います」と答えた。


「下級貴族の家でした。小さくてもエスファーナに土地を持っていることが誇りでした。その土地を商人たちに貸して収入を得ていた。けれどよりによってその土地の倉庫が焼けて商人たちに損害賠償を請求されてしまった」


 家族全員が無事だったという事実も追い打ちをかけた。本来なら喜ぶべきであろうことが、食い扶持ぶちの多さに困るという悲劇をもたらした。


「下級貴族にとっては娘を良い家に嫁がせて子供を産ませて家の格を上げることが何よりものことなんです。男の僕は最初に借金の抵当として差し押さえられました。僕が逃げたら妹たちが売られることになる」


 ずっと考えないようにしていた。けして思ってはいけないことだと自分に言い聞かせてきた。

 もはや耐えられなかった。


「売られてしまえばいいのに……! 僕だってあのまま家にいられればエスファーナ大学に行って誰もが認める学者になって家の格を上げられたかもしれないのに! どうして僕だったんだよ!」


 手を握る力が強くなった。子供の力でさして痛くはなかったが、ラームテインは目が覚めた。


「ラームは優しいお兄さんなのですね」


 フェイフューの蒼い瞳が、まっすぐ自分を見ていた。


「……違う」


 三年前に別れた時、一番上の妹が今のフェイフューと同い年だったことを思い出した。恨みすら抱いた妹だったが、それでも、彼女が売られて自分のしてきた仕事をさせられていたらと思うと背筋が寒くなる。まして妹は女の子だ。この国でこんな仕事をしたら嫁に行けない。


 フェイフューの手を振り払った。


「ごめんなさい、申し訳ございませんでした。忘れてください」

「ラーム」

「すみません、頭を冷やします。今日はもう帰ります」

「あの、次はいつ――」

「しばらく家のことに専念します、いつかまた」


 ラームテインは逃げ出した。

 目の前の現実をこれ以上直視したくなかった。





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