第4話 図書館での逢瀬

 この図書館の建物は、もともとは古い宗教の寺院だったのだそうだ。

 白亜の回廊を行くと、庭へ大きく張り出した屋根の下が憩いの広場になっていた。地べたに直接絨毯が敷かれており、その上にいくつか脚の短い卓が置かれている。老若男女が集っているが、比較的多く見受けられるのは学僧だ。

 フェイフューは卓の一つの傍らに腰を下ろすと、ラームテインに向かって「何か飲みますか」と問うてきた。飲食物を売る屋台があるのだ。

 ラームテインは逆に「とってまいります」と告げた。この世で唯一のアルヤ王子に小間使いをさせるわけにはいかない。

 言われた側のフェイフューは、一瞬、不思議そうな顔をした。ややしてうつむき控えめな声で「ではお茶をお願いします」と言った。

 茶器を四人分持って戻り、卓の上に並べる。護衛の兵士たちが頑なに拒んだため二人分は無駄になったが、何はともあれ落ち着いて会話ができる状態にはなった。

「すみません」

 フェイフューが申し訳なさそうに言うので、あわせて持ってきた茶菓子も包みから広げつつ、ラームテインは「どうかなさいましたか」と問い掛けた。謝られるようなことをされた覚えがなかった。強いて言えば自分の読書の時間が奪われたか、とは思うが、王子のおぼし召しより優先すべきことではない。アルヤ王国の王子と話す機会こそエスファーナを離れたら二度と得られないものだ。

「お茶の準備をさせてしまいました」

 思わず「なんだ」と漏らしてしまった。それこそ、ラームテインにとっては日常茶飯事だった。毎晩ニマーに酒を注いでいるのに王子のために茶を注げぬわけがなかった。

「太陽の御子である殿下にご入り用とあれば民はどのようなことでも致します」

 フェイフューは首を横に振った。

「そのようなことを言ってはいけません」

「殿下?」

「ぼくはもう王子ではないのです。アルヤの王家はなくなってしまいました」

 ラームテインは胸が痛むのを覚えた。

「みなさんぼくを『殿下』と呼んでくれますがぼくはあだ名のようなものだと思っています。ぼくはえらくも何ともないのです。父上が亡くなられた時にえらくなくなりました。サータム帝国がある限りぼくはただのこどもです」

 王の子といえど九歳のこどもだ。そのこどもにこんなことを言わせておきながら否定できない自分が悲しい。

 かと言って詫びることもない。三年前は自分もこどもであり被害者だった。本当にそう感じるべきは王国軍の幹部たちや貴族院議員たちだ。

「ゴエイの方々がついてきてくれていますが、これは彼らの本来の仕事ではありません。非番の方々が厚意で守ってくれています。みんな蒼軍のひとびとなのです、コノエの白軍ではないのです。給料もナーヒドが自分の給料から出しています」

 蒼将軍ナーヒド――三年前フェイフューを引き取った男だ。ラームテインはこの将軍とその従弟であるという白将軍テイムルも被害者であるように感じていた。三年前、彼らの父親たちがもっとうまく立ち回っていれば、彼らは将軍としての人生を不名誉な形で始めずに済んだ。

「ぼくはナーヒドにやしなわれているだけのヒマなこどもです」

 「ですから」と、フェイフューが微笑んだ。

「ラームもあまり固くならないでください! 本当に、何にもえらくないのです。気楽におしゃべりしてくれるとうれしいです」

 苦笑しつつも「はい」と頷いた。

「ですが、殿下。僕はこうして給仕――給仕、分かるかな……」

「わかります、うちにも世話をしてくれるひとびとがいます」

「そうですね、そういう感じです。僕は、ふだんから、こういう仕事をしておりますので。なので、自然としてしまうんです」

 フェイフューが「あら」と瞬いた。

「エスファーナ大学の学生さんかと思っていました」

 ラームテインは笑うこともできない。

「そう――であったら、よかったのですが……」

 そう、なりたかった。

 すべては三年前に終わった夢だ。

「今は、ただの、酒姫サーキイですよ」

 失敗したことに気づいたのは、口にしてからだった。

「サーキイ?」

 繰り返されて、冷や汗が出るのを感じた。

「サーキイとは何ですか?」

「……えーっと、」

 迂闊だった。余計なことを言った。

 純粋培養なのだ。あるいは、蒼将軍ナーヒドが潔癖な男なのだ。

 どうやって説明したらいいのだろう。

「その……、主人に酒を注ぐ仕事です。夜の……、」

 伽を含めて、とか、

「夜の?」

「あの、基本的には、高貴な方の身の回りのお世話をさせていただくお仕事なんですけど……」

 食事や着替えの手伝いから性的な欲求の解消まで、とか、

「まあ、その……、普通の召し使いとはちょっと違うんですよ、ちょっと違って、えーっと、まあ、いろいろと……、まあ、はい」

 説明できるわけがなかった。

「夜専用の小姓だと思っていただければ」

「はあ」

 フェイフューが首を傾げた。

「よくわからないですけれど」

 分かってほしくないと思う程度の良心はある。

「むずかしいお仕事なのですねえ」

「ええ……、」

 しかし、それにしても、

「あまり長く続ける仕事ではないかもしれませんね」

 こどもには言えないような仕事なのか、と思うと、三年も勤め上げてしまった自分が悲しい。




「あいつとうとう帝国に行かされるんだってさ」

「うわー。いつかどこかに転売されるとは思っていたけど、よりによってサータム人のところ?」

「最悪だな。僕だったら舌を噛み切って死ぬね」

「あいつなら案外図太く生き残りそうな気もする。だって僕らと違ってどんなことでもやるからね。多少は見習うべきかな? 繊細な僕らには無理か」

「ニマー様の顔に泥を塗るようなことだけはしなければいいけど」

 廊下で立ち話をしている酒姫サーキイたちに、ラームテインはあえて微笑みかけた。ラームテインの笑顔を見た途端彼らは蒼い顔をして端に退いた。

「下品なことを口にするのは玉にきずですね」

 擦れ違いざまに言う。三人がまた小声で何かを囁き始める。ラームテインは今度こそ無視してその場を立ち去った。

 どいつもこいつも囲われて抱かれて養われて甘えているうちに腑抜けになったようだ。高貴なアルヤ猫にたとえられる花の酒姫サーキイがみっともない。

 屋敷の門をくぐる。今日も太陽は輝いている。このままでは日焼けをするだろう。女性がマグナエをつけるのはきっと白い肌を保つために違いない。早く屋内に避難しようと、早足で歩き始めた。

 皮肉なものだ。生きるための手段でしかない、早く辞めたい、と思っていた酒姫サーキイの何たるかを、自分が語っている。

 あの同僚たちの言うとおりだ、彼らには自分の真似などできまい。ニマーが認めた我が家で最高の酒姫サーキイは自分だ、だからこそ、今後のニマーの政治的な展望のために自分が選ばれたのだ。自分はデヘカーン家の代表者としてサータムへ行くのだ。

 頭ではそう考えていても、溜息は漏れた。

 王立図書館に入る。やはり、学僧を初めとする青年たちが目につく。エスファーナ大学で学んでいる者たちだろう。

 エスファーナ大学はエスファーナの東側にある広大な研究施設だ。学問の自由を守るため、歴代の王たちに学内での自治を認められている。聞けば国同士がどこと争おうが敵国出身の学者や学生をも保護してきたとのことだ。宗教学、哲学、占星学、医学、数学、化学――どんな学問でもいい、何らかの専門分野の知識に秀でていれば、出自にかかわらず追究できると聞いた。

 そんな世界に誇れる傑出した頭脳たちも手引書を求めて訪れる施設こそ、王立図書館なのだ。

 しかし、王立図書館は何も専門家だけに開かれているわけではない。あくびをしている翁も、マグナエで顔を隠した女性も、書棚の間を自由に行き交う。猫までが日陰で足を伸ばして寝ている。

 一介の酒姫サーキイである自分も、また、かつて一国の王子であった少年も、ここは受け入れてくれる。

こんにちはサラーム

 哲学の区画を歩いていると、後ろから小声で話し掛けられた。

 ラームテインは今度こそ穏やかな笑みを浮かべて振り向いた。視界の下の方に金の髪が見えた。

御機嫌ようサラーム、殿下」

 目線を合わせるために腰を屈めた。フェイフューが嬉しそうに笑った。

「昨日の本、持ってきてくれましたか」

「ええ、こちらに」

「わあ、よかった! 今度はぼくが持っていきます」

 人差し指を立てて「しっ」と言うと、フェイフューは慌てた顔で自分の口を押さえた。

「お外に出ましょう」

「今日も大丈夫なのですか?」

「ええ、主人が戻るのはいつも夕方ですので」

 王立図書館の哲学の区画でフェイフューと会うようになってから、今日で何度目になるだろう。いつの間にか片手では余るようになっていた。フェイフューの方がラームテインに会いたがっていて別れの時間が近づくたびに次はいつ来るのかと訊ねてくるのだ。ラームテインも、雇われの身で確たる約束はできない、と前置きをしてはいるものの、約束をたがえたことは一度もない。二日に一度は逢瀬を重ねていた。

 王家がついえても瞳が蒼いことには相違ない。一般的な学校に通うことのできないフェイフューには、蒼将軍ナーヒドの計らいで家庭教師が何人かついている、という。

 しかしフェイフューはラームテインに読んだ本の解説や感想をねだった。いわく、ラームテインの方がずっと分かりやすい言葉に噛み砕いて話すから、とのことだが、ラームテインとしてはそれがフェイフューをこどもと侮っている証拠だと言われてしまいやしないか冷や汗をかいている。

 ラームテインもフェイフューと話すことは楽しい。誰かにものを教えるということがこんなにも楽しいことだとは思っていなかった。フェイフューがよく吸収してくれるからもあるに違いない。フェイフューが聞いてくれる――頷いて、理解してくれる。これほどありがたいこともない。

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