第3話 本を読む猫と金色の王子様の邂逅

 エスファーナの、東西で言えばほぼ中央、南北で言えばやや北に位置する町の一角に、アルヤ国最大の図書館がある。小規模な図書館はエスファーナじゅうにあったが、王家の財産が資本の図書館はこの王立図書館だけだ。

 半世紀ほど前、時のアルヤ王国国王の命によってつくられた図書館だ。時の宰相の進言によるものらしい。かの宰相は王に書物のもつ普遍的な価値を説き、書物と呼ばれていたものなら古今東西の名著から奇書までどんなものでも保存させた。それがいつしか蒼宮殿の書庫に収まらなくなり、結果として東大陸全体で数えても屈指の図書館の蔵書になった。

 サータム帝国軍は図書館を破壊しなかった。彼らもまた焚書が蛮行であると知っていたとみえる。王家の財産は帝国から来た総督に没収されたが、その総督もこの図書館の運営費は削らないそうだ。

 ラームテインは、図書館特有のほこり臭い空気を、胸に大きく吸い込んだ。

 小さい頃から大好きだった図書館だ。ニマーに引き取られてからもよくニマーの目を盗んで通ったものだった。

 ここにこうして来られるのも、あとひと月足らずになった。

 帝国行きを前にして、ラームテインは日中のエスファーナ散策を願い出た。ニマーは気前よく許可した。さすがに生まれ育ったエスファーナを離れ遠い異国の地へ行くラームテインを哀れに思っているらしかった。

 二度と戻れまい。

 逃げるつもりはない。自分が逃げても誰も得をしないことはよく分かっていた。ただ、記憶のよすがになるものが欲しい。懐かしい場所を胸に焼きつけておきたい。できるならこどもの頃には知らなかったエスファーナも味わっておきたい。砂漠に咲く一輪の薔薇、百万都市エスファーナ――世界のどこに行っても誇れる自分の故郷だ。思い出が欲しい。

 書棚を眺める。

 一見無造作に積まれているかのようだが、時折立ち止まって表題を読むと丁寧に分類されているのが分かる。書かれた地域ごとではない、あくまで内容の種類別だった。アルヤ語、古代アルヤ語、大華たいか語、西大陸の古典語の書物まで一緒に並べられている。世界に名だたるエスファーナの一端がここにも表れている。

 不意にざわめきが聞こえてきた。広間で騒いでいる者があるらしい。

 ラームテインは顔をしかめた。ここは図書館だ。礼節を知らぬ者に立ち入ってほしくなかった。

 けれど正面を切ってそうと言えるほどラームテインは偉くない。気づかなかったふりをして書棚に向き直る。

 一人のんびりと歩く。目的地は一番奥、古代大華帝国の思想の棚だ。大華語はさほど得意ではないが、サータム帝国に行ったらさらに遠退く国の言語だった。分かる範囲でもいい、少しでもいいから読んでおきたい。

 しかし――途中で一度歩みを止める。

 書物が少しずつ減ってきている気がする。書棚に隙間が目立つようになる。

 辺りを見回す。

 どの棚も空間が目立っていた。入り口付近はこうではなかったはずだ。何が起こったのだろう。

 それでも、ここにある本はすべてまだ読んでいない。他の棚に比べたら母数は少ないかもしれないが、ラームテインにとっては充分過ぎる冊数だ。

 うち一冊に手を伸ばした、その時だった。

 床の絨毯を踏む音が聞こえてきた。

 誰かが近づいてきている。それも複数人だ。話し声もする。

 広間の騒ぎのもとがこちらへ向かっているのか。

 眉をひそめながら振り向いた。

 気がついてよかったと思った。

 近づいてきたのは、全部で三人だった。武装した背の高い男が二人とまだ幼い少年が一人だ。先頭を行くのは少年で、武官と思われる二人が少年に付き従う形で続いている。

 ラームテインは焦った。なぜ、この時に、この場所で――目眩がしてきた。

 少年は、輝かんばかりの金髪に、同じくこの国では輝く色だと称される蒼い瞳をしていた。

 この目で見たのは初めてだが、間違えようもない。噂で聞いたとおりだ。想像以上に噂そのままだった。

 三年前、時の蒼将軍が自らの命と引き換えに助命を乞うた王子だ。王家の唯一の生き残りだ。

「あっ」

 ラームテインを見た王子が、目の前で立ち止まった。

「その本、持っていってしまいますか?」

 ラームテインは反射的にひざまずいた。

 蒼い瞳をしている。

 蒼は神聖な色だ。アルヤ人を統べる唯一絶対の色だ。

 だが、

「本」

 王子もまた、膝を折った。

「本が汚れてしまいます」

 言われてから我に返った。本を持ったままの手を床についていた。

 顔を上げた。

 蒼い瞳と目が合った。王子は膝立ちになっているようだった。目線がとても近い。

 聞き及んでいる限りでは、確か九歳になったはずだ。色合いは伝説のままだし、それなりに整った顔立ちをしてはいるが、ラームテインより二回りは小さなこどもである。

 王子が顔を覗き込んできた。

「その本」

 次の時、ラームテインの目の前に、同じ仕様の書籍が一冊突き出された。思わず上体を逸らした。

「この本の続きなのですけれど。この本はもう読まれましたか?」

 表紙を見つめて、ラームテインはようやく我に返った。

 本について問われている。

 自分の手元の本を見た。表紙に大きく、下、と書かれていた。

 王子の手元の本を見た。表紙に大きく、上、と書かれていた。

「気づいておりませんでした」

 ラームテインの答えに、王子は満足したらしい。掲げ持っていた本を下ろすと、人懐こそうな笑みを見せてきた。

「では、ぼくが持ってきたこちらの本をわたしますので、そちらの本をぼくに貸してください」

 いくら王子といえど相手は九歳のこどもだ。本は大華語である上に、古代思想についての著作だ。

「読んで分かるのですか」

 言ってしまってから手で口を押さえた。王子に対して無礼なことを言っていると思ったのだ。

 けれど、王子は元気良く「はい」と答えた。

「大華語の家庭教師がおります、教えてもらいながら読んでいるので大丈夫ですよ」

「も……、申し訳ございませ――」

「どうしてあやまるのです?」

 「そちらこそ」と問われた。ラームテインは「おそれながら」と首を垂れた。

「中央市場育ちで、各国の商人にことばを教わってまいりました」

 王子が「すごい」と喜んだ。

「中央市場の方は何ヵ国語も読み書きできるのですか」

「諸外国からの通商の者と商いをする者は、だいたい、アルヤ語の他に二、三言語はできます。大華語、サータム語、ひとによってはラクータのことばやチュルカ語を解す者も」

「あなたは?」

「サータム語であれば不自由なく……、あと大華語とチュルカ語が少し」

「わあ」

 王子の小さな手が伸びてきた。

「すごいすごい! もっとお話を聞かせてください」

「えっ」

「外のことをもっともっと知りたいのです、ぜひあなたの話を聞かせてください!」

 ラームテインの手に触れつつ、王子が後ろに立つ武官たちを振り向いた。

「ね、いいでしょう?」

 武官たちは戸惑ったのか一度顔を見合わせたが、ややして「殿下がお望みならば」と答えた。王子が「よかったです」と破顔した。

「おしゃべりしましょう! ぜひ友達になってください」

 「ぼくの名前はフェイフューです」と王子が名乗った。ラームテインは「存じ上げております」と答えた。

「あなたは?」

「ラームテインと申します」

「ラームテイン。ラームと呼んでもいいですか?」

「構いません。が、殿下……、」

 後ろの武官たちの様子も窺いつつ、おそるおそる、

「その。こういうところでそんなに大きな声を出されるのは……、あまり、よろしく、ないか……と……」

 王子――フェイフューが一瞬硬直した。次の時、素直に「ごめんなさい」と項垂うなだれた。上目遣いでこちらを見てくる様子は叱られて身をすくませる九歳のこどもであった。ラームテインは初めて安堵して大きく息を吐いた。

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