第2話 アルヤの貴族は猫を飼う
暮れゆく街並みに明かりが燈り始めた。
市場の賑わいに思いを馳せつつ、ラームテインは長椅子から上体を起こした。
この都市に住まう人々は、肌を焼くような昼間の日を避け、夕方から活動を始める。ラームテインもかつてはこの時間から表に出て市場を駆けるただの子供であった。
思えば遠くまで来たものだと、ラームテインは思う。道のりとしての距離は十四歳のラームテインの足なら大したものではない。けれどもはやあの暮らしに戻ることのできる身ではなくなってしまった。
そろそろ仕事の時間だ。
「ラーム。私の可愛いラームや。どこにいるのかね」
立ち上がって答える。
「こちらにございます、ご主人様。ラームはご主人様のお部屋におります」
廊下から足音が近づく。やがて出入り口の幕を払い除け肥えた中年の男が姿を現す。この家の当主でありラームテインの所有者でもあるニマーだ。
ラームテインを見止めると、ニマーは笑顔を浮かべた。
ラームテインは一瞬眉をひそめた。
ニマーの機嫌がいつもより良い気がする。
ニマーはかつてアルヤ王国の議会に名を連ねていた貴族院議員であった。そしてアルヤ王国において議員は官僚と同義でもある。アルヤ王国が隣国サータム帝国に敗れた三年前からはサータム帝国より派遣されるサータム人官僚たちの衣食住を世話する務めを負っていた。当然気分の良い仕事ではない。帰宅するなりラームテインに鬱憤をぶつけることもしばしばであった。
だが、今日はそうしない。それどころか、ラームテインの両手を握り締め、「お前は今日も美しい」と歌うように囁く。
「宮殿で何か良いことでもございましたか」
問い掛けると、ニマーはすぐには答えず、「お前も座りなさい」と言いながら高級絨毯に腰を下ろした。薄気味悪く感じつつも従った。
厚い布を広げて、酒杯と
「聞いてくれるかラームよ」
「はい、どのようなことでも」
「実はな」
ラームテインは顔をしかめた。
「帝国のさる高貴なお方がお前を召し抱えたいとおおせになった」
気がふれたか、と吐き捨てそうになったのをこらえた。どうにか笑みを作り直して頷く。けれど動悸がする。
召し抱える――すでにニマーの小姓として三年も務め上げた自分を、ニマー以外の誰かが召し抱えると言ったか。それも、今、帝国と言わなかったか。それはつまりサータム帝国のことではないのか。
ニマーは「めでたい、実にめでたい」と繰り返しながらラームテインの注いだ酒を
「お前を宮殿に連れて上がった時に何度かお会いしている方だ。かねてよりお前のことを気に掛けておいでだったとおっしゃっていた」
ラームテインは「はあ」と曖昧な返事をした。急かしてもっと詳細な情報を吐かせたい。けれど自分はそのようなことのできる立場ではない。気持ちばかりが焦る。
ニマーの指先がラームテインの褐色のまっすぐな髪に触れた。
「私とてお前を手離すのは惜しい。お前は美しいだけでなく賢い。我が家の宝だ、我が家の一番の財産だ。しかし、相手は、大事な、大事なお方なのだ。特別なお方だからこそ、私の大事なお前をお預けするのだ」
「ラームはもうご主人様のお傍にいられないのでしょうか」
わざとしおらしく睫毛を伏せ声を震わせた。ラームテインがそういう態度をとればニマーはすぐに引っ掛かる。「おお、おお、可哀想なラーム」と哀れっぽい声を上げてラームテインの頬を撫でた。
「私と離れるのがつらいのかね」
「はい、ご主人様。ラームは三年もの間ご主人様によくしていただいた身にございますれば、成人してもなおこのままご主人様とともに宮殿でお仕事をさせていただけるものと信じておりました」
「おお……! そのような心掛け嬉しく思うぞ」
ニマーが「だがそうであればなおのこと」と言う。
「お前を今のアルヤ国に埋もれさせてしまうのも私の本意ではないのだ」
ニマーの瞳が輝く。
「いいかね、ラーム、よく聞くのだ」
ラームテインは笑みを消してニマーを見つめた。
「この国は長くはもたない。太陽という象徴を失って統率を欠いている」
この男はけして愚鈍な男ではない。むしろ敗戦より今日までの三年間サータム人たちの手足としてその働きぶりを認められている男だ。サータム人たちの動向を読み宮殿の中でうまく立ち回っている。
「若い将軍たちはサータム人どもの言いなりだ。議会も裁判所も帝国に押さえられてろくに機能していない。民衆は頭がすげ変わっても気づいているのかいないのかという有り様、サータム人どもに反抗したという話はついぞ聞かない」
しかしニマーは悲観した様子ではない。
「サータム皇帝の支配を受け入れつつある。このままではアルヤ王国の再興はならない」
なるほどと、頷いた。
「帝国には立派な軍艦がある。西大陸との交易も拡大している。人口も増え続けている。これからはサータム帝国の時代だ」
ニマー自身が、仕える先を変えることにしたのだ。
「お前のことを考えるならば帝国へやった方が良いのだ。帝国で立身出世をすれば世界で活躍できる人材になれるかもしれない」
ラームテインを売ってサータム人の何とやらの機嫌を取ることにしたのだ。ラームテインと引き換えにサータム帝国での地位か何かを得ようとしているのだ。
「ラームは……、サータム帝国へ行くことになるのでしょうか」
明言はしなかった。代わりに「恐ろしいことは何もないぞ」と告げた。
「美少年の価値は万国共通のものだ。お前が粗雑な扱いを受けることはない」
そして、「ましてサータム人どもはアルヤ美人がお好きだ」と言われた。鳥肌が立った。
「サータム帝国では出自にかかわらず優秀な者は皆官職にありつけると聞く。お前も頑張れば私などより出世させてもらえるはずだ」
それがたとえ本当だったとしても、そうと認められるまでまた今と同じような暮らしを続けて一から積み上げるはめになるのだ。
意識が遠退きかけたラームテインの手を取り、ニマーが「惜しいが、本当に惜しいが」と繰り返す。
「分かってくれラームテイン。お前はサータム語もできる。私が精魂を傾けて学ばせたかいあり教養があって立ち振る舞いも穏やかだ。何より、誰よりも美しい。お前は私の――いや、アルヤ人みんなの宝なのだぞ。帝国で勝ち残るためには、お前はお前自身のそういうところを最大限利用した方がいい。分かるね。分かってくれるね」
ラームテインに拒否権はない。何と言われようとも、ラームテインはしょせんニマーの所有物だ。ニマーが自分をサータム人に売ると言うなら引き渡される日を待つほかない。
ラームテインは頷いた。
「ご主人様がそうおっしゃってくださるのならば」
心にもない言葉が出た。これこそが三年間の成果だ。ニマーが教養と呼んでいるもののすべてだ。
涙は出ない。そんなものはとうに涸れ果てた。
自分の運命はエスファーナがサータム人たちの手に落ちた時にはこうと決まっていたに違いない。無駄な抵抗をして傷つくことはない。黙って受け入れ流されていけばいい。
ニマーの言うとおりだ。アルヤ人の美少年はサータム帝国では高値でやり取りされるという。愚かなサータム人どもが自分の美貌に振り回されるさまを眺めて暮らすのもきっと悪くない。
「いつのことになりますか」
訊ねると、ニマーは「三ヶ月後だ」と答えた。
「それまで我が家で心穏やかに過ごすといい。私もお前との最後の日々を心ゆくまで楽しみたい」
ニマーの厚い唇がラームテインの紅い唇に触れた。それから、ラームテインのまだ華奢な首筋を這っていった。太い指先がラームテインの襟元をまさぐる。
ラームテインはまぶたを下ろした。
きっと、悪くないはずだ。
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