平成の終わり

「平成が、終わるそうですよ」

 枯れた低い声が、静かに染み透った。声をかけられた男は、カウンターに置いたウイスキーグラスを鷲掴みにして俯いたまま動かない。もう、眠っているのかもしれない。

 物憂げなタンゴがゆったりと流れるこの店にとって、時代の変化など遠い海のさざめきのようなものなのだろう。良くも、悪くも。

「マスター、明日も開けるの」

 眠っていたように見えた男が、だしぬけに尋ねた。

「ええ、いつも通りに」

「明後日は」

「ええ、明後日も、明々後日も」

「ふうん」

 相槌とも溜息とも寝息とも取れぬ吐息を最後に、それっきりまた声は途絶える。

 洗い終わったグラスを拭い、使い込まれた棚にきちりと並べてしまってから、マスターと呼ばれた男はカウンターの端の小窓へ歩み寄った。

 ガラス越しに見下ろした通りは人影も消え、誰に何を知らせるでもないネオンにぼんやりと照らされている。向かいのビルの一際目立つ看板には「『令和』まであと 時間」と大書され、そこに嵌った電光掲示板は百の位が消えて、十の位も着々と数を減らしつつある。

「俺、明日も来ますよ……んで、おんなじウイスキー飲んでさ……明後日も……多分、その次も来るんですよ……マスターもそうでさ、俺もそうで……世の中だって大体そんなもん……そう、思うでしょ」

 背中で聞いたその声が返事を求めているわけではないことを、長年の勘が告げる。

 マスターは黙って踵を返した。節の浮いた手は滑らかに動き、新しいグラスを取り出した。氷を置き、酒精を注いでマドラーでひと回ししてカウンターのグラスと入れ替える。そしてふと顎を撫でると、マスターは暗いホールを抜け、古い磨りガラスの嵌った扉を押した。

 見つけづらいと評判の店の玄関を出ると、味気なく錆びた手摺の先、路地裏の幅に切り取られた夜空の低いところで月がぼんやりと光り、新緑に湿った風が顔を撫でた。

 「営業中」のプレートを「準備中」に裏返して、ひとつ深く夜気を吸ってから、マスターはまた静かに玄関の扉を押した。カウンターに戻ると、男が突っ伏したまま新しいグラスを手探りし、その手の僅かに先で氷がカランと澄んだ音を立てた。

「佳き月と、柔らかな風。さすがにもう初春の凛とした空気はありませんが、今宵もそんなに悪くはありませんよ」

 ——翡翠色の香り高いリキュールに、後味のすっきりとした曹達ソーダ……カットレモンを一差しするのが何とも若々しくていいでしょう。如何です? オーダーしていただけるでしょうか。

 当店久々の新メニュー、“Harmony”です——

 そう口に出すのは、もう数日、後のことだろう。

 カウンターの奥へと消えるマスターの顔には、樹齢を重ねた古木に新芽が出るかのように悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

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言ノ葉焚キ【短編集】 黒渦ネスト @whirlednest

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