五月の蠅
壁に蠅が張り付いている。一匹。
動きは鈍い。まだ気温がそこまで上がっていないからだろう。飛ぶ速度も目で追える程度で、のんびりしている。夏になればもっと機敏にうっとおしくなるだろう。そうすれば蠅叩きを片手に格闘するのだが、今はまだそういう気分にはならずに済んでいる。
蠅はまた壁に張り付いて、前足を擦っている。
前足を擦る姿を見て、私は前の職場に居た上司を思い出した。
ハゲていて前歯が出ていてデカい眼鏡を掛けているそいつは、自分より偉い人を見れば反射的に手もみをしてゴマをするあの姿には反吐が出たものだ。ゴマすりだけは上手いから上司の受けはけして悪くなく、部下には高圧的な態度を取るから平社員たちからは酷く評判が悪かった。特に女性陣からの評判が最悪で、このご時世にセクハラをかましたりするのだから性質が悪い。今となっては最早関係ない話だが。
ぼんやりと蠅を眺めていると、彼は窓から外へと出て行った。それでいい。
二度と帰ってくるんじゃあないぞと声をかけて、私は網戸を閉めた。
夜。まだ空気は涼しい。夜の空気を楽しもうとしている矢先に、遠くからバイクのけたたましいエンジン音が聞こえてくる。
獣の鳴き声のように耳をつんざく音は、徐々にこちらに近づいてきている。五月蠅さがもっとも際立ち、そしてまたエンジン音は遠ざかっていく。これでも今はマシになったほうで、昔はもっと台数が多かったので騒音は凄かったのだ。
法律改正と不景気による影響なのだろうか、暖かくなって出てくる蠅は今は一匹、二匹程度なので良い事だろうと私は思う。
とはいえ、一度道を通る程度で満足するわけでもなく、何回か往復しては騒音をまき散らしていくのはうっとおしいことこの上ない。
奴らが通る先にピアノ線でも張ろうかと思う事も多々あった。でも、そこまでしたら今度は首なしライダーが夜な夜な道路を跋扈する事になるから思いとどまっているけども。
実際は警察に一言連絡すれば騒音もそのうちに居なくなる。彼らだってそこまで気合いが入ってる連中じゃない。警察に追われれば逃げるだけだ。見た目は彼らの風習なりにカッコつけていてもそんなものだ。
暖かくなると虫に限らず様々なものが世の中に這い出てくる。
そして何かがおかしくなってしまう人たちも出てくる。
私はそれを観測している。ついこないだはいわゆる露出狂を観測した。間近で。
今時トレンチコートを着たサングラスのマスクという、わかりやすすぎる格好のアレが夜道を私ひとりで歩いている時に出てきた。息を荒げて、前を開くのは良いけど、あまりにも粗末すぎるアレが出てきて思わず笑ってしまったら、意気消沈して落ち込んでしまったのでなぜか私が慰める羽目になってしまった。でもさ、興奮しても小指サイズとか、そりゃちょっと可愛くて笑っちゃうでしょ。
その後警察を呼んで捕まえた時にその人の名前と会社名を聞いたらびっくりした。まさか前の職場のとてもお偉い人だったとは思わなかった。ストレス発散はこんな道端じゃなくてちゃんとしたお店でやってほしい。そのくらいのお金はもらってるんだから。
私はとても慈悲深いから訴える事はしなかったけど、お金をたっぷりぶんど……じゃなくてもらう程度にした。あと訴える事はしないけど、もしもの時の為にトレンチコート前開けの写真をたくさんスマホに収めておいたから何かがあっても安心。
前の職場は、虫がうっとおしいくらいに多かった。
常時私に張り付いたり、後ろを付け回したり、ゴマを擦って取り入ろうとする寄生虫、さっきのような変態などなど数えればキリがないくらいに。
私は別に普通に仕事をしているだけだというのに、何が誘蛾灯になっているのかと他の人からも不思議がられるくらいに厄介なモノを引き寄せる性質があるらしい。
もっともただの変態や厄物程度で引き下がる私でもないが、あまりにも立て続けに厄が来るのでその会社は辞めざるを得なかった。あとになって聞いた話だとその会社は倒産したらしい。当たり前だ。
今は暇を持て余しているただの無職。
家事以外にやる事が無く、ただ時間を潰すのももったい無いと思ったのはいいんだけど、なんで私は蟻の飼育セットなんか買ってしまったのだろう。
蟻は私を差し置いて粛々と働いている。
ごみを捨てたり、餌を探したり、幼虫や蛹の世話をしたり、女王は卵を産んでは仲間を増やしている。蟻がこんなにも働いているのに私は何をしているのだろう。
でも観察しているうちに気づいた。
蟻の社会でもきびきび働いているのは二割くらいで、六割はそれなりに動く感じ。残りの二割は全く働いていない。蟻の社会でもそうなんだから人間社会でも全員が全員バリバリ働くのは不可能なんだなと納得する。ひきこもりやニートが発生するのもむべなるかな。
蟻を眺めながらビールを飲む。無心に働く者を向こう側に見て飲むアルコールの旨さは格別だ。真昼間から飲むのと同じくらいに。そして飲んだ後に来る謎の罪悪感も同じくらいに凄い。
自分はいったい何をやっているのだろうと後悔する暇を与えないように、私は布団に飛び込む。アルコールの酔いが手伝ってすぐに意識は闇へと溶けていく。
そうして目覚めればいつもの二日酔いだ。ガンガンに痛む頭を抱えながら飲む水もまた格別。顔を洗えばちょっとはスッキリする。
初夏の朝はまだ涼しい空気が足元を漂っている。もう少し太陽が昇れば、たぶん昼寝をするには少し暑すぎるくらいになるんだけども。
朝食の準備をしていると、また蠅が壁に張り付いているのを見た。
昨日よりも元気に、そしてよりうっとおしく動き回っている。
その姿を見て、私は押入れの中にしまっていた蠅叩きを取り出したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます