第4話(最終話)

「お待たせしましたー。きつねうどんですー」

 

やはりあの間延びした声で店員がうどん鉢を持ってきた。ほわほわと立つ湯気が一瞬視界いっぱいに広がったと思うと、次に見えたのは、正方形で分厚い油揚げが真ん中にどんと乗った、うどんだった。

晴子はまずれんげで汁をすくってみた。べっこう色のその汁は、確かに慣れ親しんだ全体的に濃い色をした関東のものとは違う。ほんのり色がついている、かなり透き通ったスープだ。一口飲んでみる。見た目に反して味はしっかりとした存在感があった。飲んだ瞬間に鰹節のあのこうばしい香りが広がる。

  おいしい。これは、なかなか。晴子は素直にそう思った。飛び上がるほど絶品、ではないけれど、例えるならやっぱり「うどん」としか形容できないけれど、こういうのが、体がほんとうはずっとずっと欲しがってた気がする。それくらい、さっぱりして、ほんのり甘くて、丸く尖った部分のない、そんなまさに「うどん」の味だった。

 

この前売上レポートを家で書きながら見ていたバラエティー番組で「なんで関西人てなにかあるたびいちいち“関西は薄味だから”ってアピールするの?」と毒舌タレントが発言し、さらに塩分的には関東風よりも濃いめなんだ、という知識をひけらかし、必死でアピールしていたやはり関西出身のアイドルを落ち込ませていた。でもこれは自慢したくなる。それぐらい、美味しいと思えた。

 

「これが、関西風のお出汁なんですか。やっぱし関東のと違うんですね」

晴子が訪ねると、店員はふにゃっと口元を緩めて笑った。やはり自信があるのだろうか。

  「材料は関東のおうどんとそんなに変わりないんですけど、めんつゆとお出汁の比率が違うんですよね。関東はめんつゆが多めだけど、関西はお出汁を多めに使うんです」

「そうなんですか。すごく美味しくて、飲み干せそうなほどなんで」

「ありがとうございます‼」

 

にっこり笑って店員がお礼を言うと、ガラガラと店の引き戸が開く音がした。サラリーマンらしきスーツの男性が三人ほど入ってきて、テーブル席へ座る。さらにほとんど立て続けでペンキのシミだらけのボンタンにTシャツといういかにも塗装業といった若い男性が二人、晴子とは反対側のカウンター席に座る。こちらは顔見知りなのか店員とも親しげに話していたし、注文も「いつものやつ」で済ませていた。店員があののんびりイケメン一人なのでどうしても時間がかかってしまうが、客は急かすことなくむしろその店員ののんびり加減が伝染したかのように、談笑をしたりスマホをいじりながら各々待っていた。

 

晴子は今度は麺をすすってみた。自慢の出汁がよく染みた、柔らかい麺だった。でもほどよい弾力は残っていて、パスタでいうアルデンテのような感じた。美味しい。油揚げも一口かじってみる。これまた全面に出汁が染み込んでいて、あまじょっぱさが口一杯に広がる。やっぱり、美味しい。

  そこからは、夢中で麺をすすり、汁をれんげですくって飲み、油揚げをかじった。空っぽだったお腹が、どんどんうどんの温かさで満たされていく。やがて体全体が頬も紅潮し、額からは汗も流れてきた。


「あのぅおねえさん。だいじょうぶですか」

  一心不乱でガツガツ食べていると、不意にあのおっとり店員に声をかけられ、ハッと正気に戻る。そういえばこんなに汗をかいていて、メイクは大丈夫なのだろうか。試しに目の前にあるボックスティッシュから一枚拝借し、そっとおでこにあててみる。汗にまみれて落ちたファンデーションの湿ったベージュの染みがくっきり浮かんでいる。やばいと思い、二席向こうの角にあるトイレへと入った。

  鏡に写った自分の顔は、額は汗だくで、眉のメイクもとれかけていて左右の形や長さが明らかに違っていた。これでうどんをがっついていたのでは、あまりにもみっともない。


それでも、晴子は思わず吹き出してしまった。そして、ふふっと声を出して笑った。 カフェの入り口のガラスに写った自分はもっときちんとメイクをしていたのに、うっすら映っているのが余計はかなげに見えて、惨めに思えた。でも今は、汗まみれでメイクもぐちゃぐちゃな顔が鏡にこんなにもはっきり見えているのに、それが妙におかしくて、そして、幸せなことに思えた。

  うどんを食べてこんなに笑えるなら、元気になれるなら、私はきっとだいじょうぶ。今なら、自信を持ってそう断言できた。



  「ありがとうございますぅー。五五〇円ですねぇー」

  うどんを食べ終え、会計を済ませる。店員はどんなに忙がしくても最後まであののんびりゆったりな関西弁だった。

途中、ひとりの年配の女性が怪訝な顔で「ねぇまだ待たせるの?」と聞いてきて、なんだかそのときの顔があのクレーマーママの面影があって晴子は少しびくついたが、当の店員は「ごめんなさいねぇー。今がんばって作ってますよぉーお客様のおうどんー。あとすこーしお待ちくださいねぇー」と独特の間延びとイントネーションを含めた喋りと、そして持って生まれた端正な顔をふにゃっと緩めて笑顔を婦人に向けた。とたんに婦人は顔を赤らめて「あらーじゃあ楽しみねー」とわかりやすく機嫌を良くして微笑んでいた。

 

美味しい食べ物とかイケメンの笑顔とか、そんなものだけで得られる幸せなんてそんなに幸せは一元的なものじゃない、なんてどこかで聞いたことがあるが、それは言い替えれば、例え腹が立っていても絶望的に落ち込んでいても、そういうとても単純で身近なモノで消える怒りや悲しみなら、きっと乗り越えられる。今の晴子はそれを確信していた。

 

お釣りを受け取り、小銭をしまいながら、「ごちそうさまでした、また来ますね」と微笑んで声をかけると、店員はやっぱりあの全体的に伸びやかなのんびりゆったりした声と笑顔で「はーい、お待ちしてますねぇーありがとうごさいましたーおおきにぃー」と送り出してくれた。

「おおきに」てほんとに使う関西人、初めて見たな。てか「ありがとう」と「おおきに」じゃおんなじ意味だから、ありがとうを二回も言ってるじゃない。そう思うとなんだかおかしく思えた。

またこの人に会いたい、そして、この人が作ったうどんが食べたい。そして幸せな気分になりたい。そう心から思えた。



  店を出てまたあの公園のベンチに座ると、晴子はスマホを取りだし、通話画面を押す。履歴から「仕事場」を選び、電話をかける。さっき一方的に怒りで捲し立てて出てきてしまったことを詫び、改めてきちんと退職の意思を伝えようと思った。先程とは違い満腹感から来る冷静で落ち着いた状態で考えても、やはり今の自分にはあの書店で働き続けるのは無理だな、と思った。それなら自分自身にもお店のためにも良くない、と思ったのだ。

 

きちんと謝罪と意思表示をしたら、このままハローワークへ行ってみよう。もしものときは、あのうどん屋であののんびり店員の下では働いて、関西人じゃないけど私も「ありがとうございました、おおきに」て言ってみてもいいかな。

 

満ち足りたお腹と心で、発信音を聞きながら、晴子はまた微笑んだ。


(完)

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しあわせのうどん @shigekuranaku

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