第3話
「いらっしゃいませー。」
からっとした明るさがにじむ程よい高低がある男性の声が店内に響く。他に聞こえる声はBGMとして流してあるであろうラジオからの音声くらいで、床は水色のタイル張り。カウンター席が十五席ほどで、テーブル席は四人がけのものがみっつというこじんまりとしたもので、客は見事に晴子だけだった。とりあえずいちばん端のカウンター席に座る。店員が水の入ったコップを目の前に置いてくれた。
ぱっと顔を上げると、バンダナ巻きで頭にタオルをすっぽりと巻いた、鼻筋の通ったなかなか端正で背の高い上品な顔立ちの若い男性がにこっと笑っていた。 そして厨房にはこの男性だけしかいない。ひとり経営か。まぁこんな暇そうならひとりで充分かもな、雇ったところで給料分の稼ぎがあるかどうか。晴子はキンキンに冷えた水を飲みながら、そんな現実的なことを考えた。
「決まったら教えてくださいねー」
店員のほわほわとした声から発せられるその言葉に、妙な違和感があった。もっと言えば、響き。イントネーション。なんだか微妙になまってるような。上げ下げの部分が普段聞いているものと違う。西日本、特に、関西方面の訛りだろうか。テレビで芸人がよく使うあのしゃべり方よりは、いくぶんのんびりとはしているが。
壁にあるメニューに目をやる。素うどん・きつね・月見・鍋焼き……オーソドックスなものは一通り揃っているようだ。
晴子は昔から「たぬき」が好きだった。揚げ玉が最初はさくさくと香ばしく、後半は出汁を吸ってうどんの麺と絡み合うほどに柔らかくなる。その食感の変化が楽しかった。せっかくなら久々にたぬきを食べてみたいな、とぼんやり思った。しかし、壁のメニューに「たぬき」の文字はない。トントントンと小気味良いリズムで包丁を動かし、薬味のネギを切る店員に、声をかけてみる。
「あの、たぬきって」
「はい?」
目尻の長い切れ目で、しかし柔らかい視線と声で、店員は返事をする。
「たぬき、欲しいんですけど。こちらは、やっておられないんですか?」
「はぁ、あの、うち、うどん屋でしてね」
「えぇ、表に書いてありますね」
「だからその、“たぬき”さんはね、やってないんですよ」
「え?」
晴子が思わず眉をひそめて怪訝な顔をすると、男前な店員のほうは綺麗に整えられた眉を八の時にしていかにも困ったようにしていた。
「うちは一応関西のやり方でそのままやってるんですわ。で、関西で“たぬき”いうのはおあげさんが入ったおそばなんです。揚げ玉入れるんは関東流なんです。せやから、こっちでいう“たぬきうどん”てのは当店やってないんですよぉ。ごめんなさいねぇ」
「そうだったんですか。知らなかった……」
そんなの関東のこの地域に出店してるならこっちに合わせろよ、と普段なら思いそうなのに、今日は自然と受け入れてる自分がいた。店員の低く落ち着いた声から発せれる、柔らかくてのんびりした独特の間と抑揚を持った関西弁が、心のささくれをそっと包んで消していってくれてるからかもしれない。
関東と関西のうどんの違いなんて、せいぜい出汁の濃いか薄いかだけだと思っていた。そこまで自分は関西のこともうどんのことも、もっと言えば、よその土地やそこにある世界観のことも食べ物にまつわるエトセトラやトリビアも、まったく興味がなかった。あの本屋での仕事だけで、精一杯だった。極端に言えば家と職場の往復。ほんとうに狭い世界で生きていたのだ。
「ほんで、あの、どないしましょ?」
これまでの数年間があまりにも仕事一筋でなんてもったいなかったんだろうと後悔と自責の念に駆られて黙りこんだ晴子の顔を覗きこみ、心配そうにしている店員。近くで見ると小顔でますます驚く。背も高いし、うどん屋よりモデルのほうがしっくりくるかもしれない、なんて一瞬思いかけたが、慌ててメニューをもう一度見直す。
「じゃ、じゃあきつねで」
「はいかしこまりました!きつねさんですね。お待ちくださいねー」
にっこり笑って店員はまた厨房へと戻っていく。カウンターを隔ててすぐが厨房でもあるので、店員の動きがここからでもよく見える。ラジオから流れるアイドルの新曲に合わせて鼻唄を歌いながら、慣れた手つきでうどんを湯がき始めた。途中お湯が跳ねたのか「あちぃ」と声に出していて、晴子は思わず吹き出した。
いつだかお世話になった先輩が、大阪出張の際にやはり本場の味を求めてうどん屋に寄ったと話していた。しかしそこは駅に程近く観光客も行きやすいためかかなり混み合っていて、一時間近く待たされたそうだ。やっと店内に入れて食券を買い、カウンターにそっと出したところ、その店の女将であろう年配の女性店員に「そんな手前に置かんとこっちに向けてきちっと出してくれんと‼わからんやろ‼」と見事にため口で叱られてしまったという。
「あっちの人はアメリカ人並みに自己主張ははっきりしてるって聞いてたけど、まさかあそこまでとは。さすが大阪おばちゃんパワーだよね」と、やがてエリアマネージャーにまで出世したその先輩は、眼鏡の奥で目を細めて笑って話していた。そんな接客なのでなかには怒り出す観光客もいるわ、別の店員は外国人客にあれこれ質問しまくるわ、常連客は店員に負けず劣らず大声で話しかけるわ、BGMでかけていたラジオは雑音だらけだわ、とにかくしっちゃかめっちゃかな店内の雰囲気だったという。
「それで肝心の、本場の関西風うどんの味はどうだったんですか?」と晴子が聞くと、そんな店内の雰囲気から早く出たいという気分と、元々待ち時間だけでかなり押していたこともあり、ほとんどかきこんで食べたためろくに味を覚えてないという。やっぱし俺はああいうザワザワしたところダメだなぁーという先輩は、確かに大衆居酒屋よりイタリアンレストランが似合うような人で、いつだか何人かの同僚と共に連れていってもらったお店もすごくおしゃれで落ち着いていた。
でも、晴子の頭の片隅には「関西風のうどんがどんな味なのか」がほんの小さなウエイトではあったが残っていて、それを自らの目と舌で確認できる機会が思いがけず来たのだ。幸い、ここの店主はわざわざ関東と関西の「たぬき」の概念の違いを教えてくれたほど優しくておっとりしてるし、未だに自分以外の客は入ってきてない。これはゆっくり味わえるチャンスだ。気づけばわくわくと楽しみにうどんの完成を待っている自分がいた。
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