第2話
百円ショップで辞表を書くための縦書き便箋と白無地の封筒、筆ペン、そして今後行わなければならない就活で必要になる履歴書も、一応いっしょに買っておいた。
百円ショップの入り口を意気揚々と出て、近所のカフェでコーヒーを頼み、早速記入しようとした。しかし、封筒の「退職届」の字のバランスがしっくりこなかったのをきっかけに、肝心の文面がろくに進まなくなった。そして、高揚感が手付かずのコーヒーのようにゆっくりと冷めていく。そして、それと同時にものすごい早さで、不安が泉のようにどばどばと溢れてくる。
私はなんてことをしてしまったのだろう。あんな大勢の前で、上司の前で、あんな悪態をついてしまった。お客さんの前でも、あんな振る舞いをしてしまった。辞めるなんて啖呵切ったけど、この先のことなんか何にも考えてない。また別の仕事を探さないと。でも何をすればいい?あぁもうどうしよう……
一度沸きあがった不安はヘドロのようにべっとり心と脳内にまとわりつき、妙に落ち着かなくなった。もうここにはいられない。いちゃいけない。いたたまれない気持ちでいっぱいになり、冷めたコーヒーを一口飲むと、逃げるように店内を出た。一瞬目を向けた、ガラス窓の向こうに映る、本やスマホを片手にコーヒーを嗜んでいたり、向かい合って談笑している店内の客が、なんだか妙に眩しく見えて、そして反射してうっすら映る、ナチュラルメイクを施した顔の自分が、あまりにもおどおどと不安げで頼りなげに見えて、ますます惨めな気分になった。
ひとまず近場の公園のベンチに座り込み、うつむく。下を向くとただでさえ下降気味な気分がますます落ち込んでいく。これから私はどうやって生きていけばいいんだろう。頭を下げて、またあの店で働く?いやでもやっぱりあそこにはもう行きたくない。きっかけはなんであれ、いつ我満が途切れて感情が爆発してもおかしくない状態ではあった。むしろ覚悟していたときよりずっと長くなんだかんだで勤めあげていた。限界を越えるのがついに来ただけだ。あのまま我慢していたら、自分が自分でなくなるような、そんな焦りと恐怖があったのだ。
でも二十八歳になった今、また再就職が見つかる保証なんかない。以前より景気は少し回復したとは聞いているが、未だに新卒ですら正社員入社は困難だと聞いている。これといって大した資格もないアラサーの自分に、果たして就職先なんて見つかるのだろうか。せめて人並みの、三度の食事と雨風がしのげる家――今の1DKのアパートでの生活が維持できる生活はしていきたい。それもまた、「自分が自分であること」を守るためには、絶対不可欠だった。
元々行動の前にはあれこれ考えに考えこんで、そこから決定して準備していく性格ではある。しかしここにきて人生の岐路に立たされ、頭の中はグルグルグルグルと悪い方向と先の見えない不安でいっぱいになった。涙は不思議と一滴も出なかった。頭がフル回転している間は、まだ涙腺には影響はないのかもしれない。
しかし、あるところはこんなときでも恐ろしく素直に反応した。お腹の虫が、ぐるぅぅとわかりやすく間抜けな音を立てて鳴ったのだ。
「おなか、すいたな……」
そういえば、最後にまともに食事をしたのは、いつだったろう。ストレスからくる食欲減退や腹痛もあり、最近食事と言える食事をしていない気がする。元々大食いでもないし、サービス業の仕事柄、食事を取れる時間が不規則になりがちで、職場には電子レンジやガスコンロといった温める機材がなかったため、じっくり座って落ち着いて食べるよりパパッと手軽に食べられて冷えていても美味しいコンビニおにぎりやパンで済ますことが多かった。
一度空腹に気づけばますます意識するようになり、なにかたべたい、できたら、あたたかくて美味しいものを、ゆっくりとたべたいと思うようになった。
人間、いざ食欲が沸くと、それを満たすために感覚が研ぎ澄まさせるのか、ふとほのかに柔らかなそしてどこかなつかしい香りがした。実家で出る料理が、こんな感じだったような気がする。これは、絶対美味しいものがある。そしてそれは、わりと近いところにある。それを確信すると、晴子は立ち上がって、その香りがするほうへゆっくり近づいていった。
香りは、思っていたよりずっとずっと近い場所にあった。公園から出て左に曲がると三つ隣が「うどん かづきや」という真新しくつやつやとした紺色の看板が掲げてある店舗だった。ということは、あの香りはうどんのだし汁だろう。引き戸の入り口には「商い中」とあるので、営業中ではあるようだ。
腕時計を見ると十一時を過ぎており昼のピークに突入する時間帯なのに、人の出入りがないのが少々不安だった。わりと新規の店だからまだ浸透していないのかのしれない。それでも、あの妙に惹かれる香りのうどんを、ぜひ食してみたい。その本能のほうが勝って晴子は引き戸を思いきって開けた。
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