しあわせのうどん

@shigekuranaku

第1話

ふざけるな、と気づいたら声に出していたようだ。すれ違った小柄な白髪の男性が、びくっと肩をすくめて自分を見ていたから。けれどもう今の松村晴子には、すみませんと頭を下げることも慌てて誤魔化すことも、しようと思えるほどの余裕がなかった。

 

舌打ちをしてわざとらしいほどパンプスのかかとをガツガツと鳴らして、近所の百円ショップへと入る。そしてまっすぐに事務用品のコーナーへ行くと、白紙の封筒と、縦書きの便箋を手に取る。ついでに、筆ペンも買っておくことにした。

 

今度こそ、辞めてやる。ここに「退職届」てでっかく書いて、マネージャーに渡してやるんだ。レジに並んでる間、頭の中はそれでいっぱいだった。



   新卒入社からなんだかんだで五年。すっかり慣れたはずの書店員としての仕事に、ここにきてなんとなく「あれ?」と疑問や不満を抱くようになった。年齢を重ねるようになったせいもあるのかもしれないが、やたら体が疲れやすく、いつもなにかしらに悩んでいるようになった。元々自分は特別ポジティブでもないし、年齢も関係してるんだろうなと思い、サプリメントと栄養ドリンクを飲んで仕事に行くようになったが、気休めでしかなかった。

 

やがて、それまでは夢中でがんばれた業務のひとつひとつや、他のスタッフとの人間関係、さらには来店するお客の、悪い面ばかりが色濃くクローズアップされるようになった。


  どうしていつも半年に一度の地区会議には私が行かなきゃならないんだろう?社員なら他にも西宮さんとか桐野さんもいるのに……「松村さんはマネージャーのお気に入りだし、私は長い話を聞いてるとすぐ眠くなっちゃう」とかなんだかんだ言いくるめられていたなぁ……

  

フェアとかキャンペーンのディスプレイ、ほんとはバイトの理佐子ちゃんと美江ちゃんがやってくれるはずだったのに、理佐子ちゃんは学校が忙しくて、美江ちゃんは体調不良とかで二人とも全然出来なくて、結局私がやったんだよなぁ。帰れたの夜の十時半だったし……


そうそう、高木くんはお客様に在庫問い合わせの注文聞いたのにほったらかして、お客様めちゃくちゃ怒って来店されて、でも彼はその直前の昼休みに外出してそのままいなくなっちゃったなぁ。結局私がひたすら頭を下げて、粗品まで渡したっけ……

  

ちょっとでもこちらの言葉遣いや態度が気に入らないとクドクドと説教垂れるあの親父はなんなんだろう?こないだ理佐子ちゃんが泣きそうになるぐらいやられていたので私がかばったら「この店のためを思って言ってやった」て言ってるけど、あなたなんかいないほうがよっぽどこの店のためだよ?若い子いじめて何が楽しいの?暇なの? 

 

あとほぼ毎回グラビア目当てにチャンピオン立ち読みしに来る眼鏡でニキビ面のあのデブ‼ ヨダレや唾かかったやつは買ってくれない?興奮するぐらいそのアイドルの子好きなんでしょ?水着見たいんでしょ?買ってくれたらいくらでもあとはキミの好きなようにしてくれていいからさ。

 

不満はひとつ見つけると数珠繋ぎでどんどんと枝分かれして広がっていった。これまで何千何万とそういった場面に遭遇してやり過ごしてきたはずなのに、スルーできない。それに対していちいち腹をたて、落ち込み、悩む日々が続いていった。

 

朝が来る度に胃が痛み、食欲はなく、それでもなんとか流し込むとそれは下痢となってしまう。眠れない、とまでいかなくても、なかなか寝付けず、真っ暗な部屋で小さくラジオを流しながら何度も寝返りをうつことが多くなった。

 

心が荒むと体調もそれに比例して悪くなっていく。そして体調不良は精神面に暗い影をどんどんと落としていく。体と心がこんなにも密接に繋がってたのかということを文字通り身をもって嫌でも痛感することになった。


  そして、そんななかで、ついに我慢の限界を迎えるきっかけとなる今回のことが起きた。


  よく五・六歳ぐらいの二人の男の子を連れて来ている母親だった。 前々から正直いい印象のないその母親が、「おたくで買ったピアノ絵本の音が出ない。交換するか返金してくれないか」と来店してきた。  絵本の下に鍵盤部分やらボタンがあり、そこを押すと音が出る仕組みの絵本で、人気商品のひとつだ。

 

とはいえ、はいそうですかと簡単に言いなりにはなれない。なんせその母親はレシートを持ってきていない。これではほんとうについ最近うちの店で購入したものなのかわからない。なかには自分の落ち度でダメにした本を上手いことクレームをつけてこちらのせいにして何かしらを得ようとする客もいる。 だからこそ、クレームは冷静に、毅然に、対応しなくてはならない。

 

キンキン声でベラベラと捲し立てているその母親は、「今時これだけ技術が発達してるんだからPOSレジのデータとか監視カメラとかでわからないのか。それをここで見せてみろ。それに私は常連でしょっちゅうここを利用してるんだから、誰か顔を覚えている店員がいてもおかしくないだろう」というようなことを繰り返している。

そのたびに美江ちゃんが泣きそうな顔で頭を下げている。彼女のふたりの子供はすっかり飽きてしまったのか店内でおいかけっこを始めている。典型的な迷惑親子だ。

 

ついには店長が事務所の奥から出てきてこれまたペコペコと頭を下げ出したとき、気づいたら晴子はその店長とすでに半泣きになっている美江ちゃんをさえぎり、一歩前に出た。そして、そのクレーマーママとしっかり目を合わせて、彼女に負けないくらい一気に捲し立てた。

 

「レシートがない時点でクレームには一切応じません。レジや監視カメラのデータは業務上一般の方にお見せできません。これ以上無理を言われる場合は、警察に業務妨害で訴えなくてはいけません」

 

もちろんこれまでクレーマー相手に通報したことなんてなかった。でも本当にしてやってもいいと思っていた。こんなやつ、一回痛い目を見ればいいんだ、と。呆然とするクレーマーママと店長と美江ちゃんを尻目に、走り回るふたりの子供に向かってこうも言い放った。


「おいかけっこしないでね!おまわりさんに言いつけるよ‼」

 

子供の足はピタッと止まり、怯えたような目付きでママを見ていた。周りも静まり返っていた。



  

そのときこそ「勝った。あのクレーマーを追っ払ってやった」という満足感で一杯だった。家に帰ってからもいつもよりご飯が美味しく感じられたし、久々にゆっくり眠れた。

 

だが次の日、出勤すると美江ちゃんをはじめとしたバイトの面々が目を合わせてくれなかった。そしてすぐさま店長へ呼び出された。

  

昨日のあのクレーマー親子に放った「警察」という言葉が大問題になったようだ。あのあとクレーマーママは本社のお客様相談室にも電話をし、「こちらの話もろくに聞いてもらえず、警察に通報するぞと脅された。子供たちもすっかり怯えてしまっている。どんな社員教育をしてるんだ」と、これまた怒鳴り散らしたそうだ。


それだけではない。その場に居合わせた何人からの客からも、レジ横にある「ご意見ボックス」のなかに「確かにあの客は無礼だったけど店員さんも厳しすぎる。警察にすぐつき出すなんて怖くて利用しづらい」という匿名の投書が寄せられたという。そして店長からは「ああいうときは店長である私が話をつけてどうするか判断するものなんだから、あなたが勝手にあんな大事にしたらだめじゃないか」とたしなめられた。

 

  そんなこと言って、自分で上下巻を間違えたのに逆ギレしてきたお客さんが来たとき、あなたは全部私に任せっぱなしだったし、返金したら「えーもったいない」とブツブツ言ってたじゃないか。だから今回も毅然とした対応をしただけなのに。

どうせ私に最後は押し付ける気だったくせに。晴子の頭の中にはもう完全に「みんな私のせいにするんだ」という思考しかなかった。

 

バン!という大きな音が部屋いっぱいに響いて、店長のお説教がピタッと止み、次の瞬間は漫画でよく見かける「シーン」という擬音がほんとうによく聞こえるほど静まり返った。無意識のうちに、握りこぶしで思いっきり机を叩いたようだ。後からじわっと熱くひりひりした痛みが伝わってくる。

 

「わかりました。全部私が悪いから責任とればいいんですね」

「いやそこまでは言ってないよ」


  店長が明らかに怯えた震え声で答える。なんだ、いつも威張り散らしてるくせに、私がちょっと牙を剥けばドギマギするくらいのビビりだったんだ。こんなやつの顔色をうかがってた自分がバカみたいだ。いよいよすべてがどうでもよくなってきた。


「責任とって、仕事辞めます。あとで荷物は片付けて辞表も出しに来ます」

「松村さん、聞いて、あのね、そういうことじゃなくて」

「そういうことですよ。もう嫌なんです。めんどくさいんです」


めんどくさい、と声に出したとき、あぁそうか。私、ぜんぶがめんどくさかったんだと今更ながら気づいた。人間関係も、理不尽なクレームも、世間体も、めんどくさい。店や店長や後輩や自分自身がこれからどうなるとかもう知らない。考えたくない。全部投げ出したい。そしてバッグを掴み、出勤わずか十五分ほどで早退することになった。

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