13.山本奈央の場合
お風呂からあがって髪を乾かし終えたころ、携帯にメールが届いた。柏橋さんからのメールには謝罪や反省の言葉はなくて――ただ一言「いま、委員長の家の前に居るから、出てきてほしい」とだけ書いてあった。
私は戸惑う。
昼間、調理実習で班が協力して作業しなきゃいけないときに、柏橋さんはひとり、熟睡していた。
さすがに許せなくて、放課後に柏橋さんを注意した。
柏橋さんは平謝りだったけれど、居眠りの理由を尋ねると「映画が面白かったので、夢中で調べ物をしていたら朝になっていた」という答えだったので、私はさらにいらいらを募らせた。
生活態度を改めさせようとしたけど、柏橋さんは「あとはメールして」と言って教室からいなくなってしまった。友達経由でメールアドレスを調べて、もっとちゃんとしてください、というメールを送り、返事が届いたのが、いま。
文面に戸惑っていると今度は電話の着信があった。登録されている番号ではない。
「……もしもし」
「もしもし、委員長? 柏橋です、メール見た?」
「見た、けど」
「いま、友達にきいて委員長の家の前に居るんだ! ちょっと話そうよ!」
「でも」
こんな時間、と言おうとして、私はその言葉を飲み込む。
夜の十時。私はこの時間の外出を許されていないけれど、友達の中には許されている人もいる。
私の家の規則は厳しい。それが小さなコンプレックスになっていることを、私は自覚している。
「ね、ちょっとだけ。……家の人に怒られちゃうかな?」
「……」
返事を返さないでいると、柏橋さんは続ける。
「じゃ、こっそり出てきてよ」
「なっ……」
「できない?」
その言葉が挑発の意味を含んでいるように聴こえた。
「わかった。すこし待ってて」
私はそう言って、電話を切った。
あとから考えると、すこしむきになっていたし、まんまと乗せられたと思う。
湯冷めしないように上着を着て、そっと家から出た。父はまだ帰っていないし、母はお風呂に入っているようだったから、玄関の音も気づかれないだろう。
サンダルで表に出ると、そこには自転車にまたがった柏橋さんがいた。
「ごめんね、こんな時間に」
「……」
「あのね。言っておかなきゃって。あたし、これからも夢中になったこと、やめられないと思う。っていうか、やめたくないんだ」
無茶を言われている。
頭ではそう思ったのに、心はいらいらしなかった。
柏橋さんは、真剣な顔をしていたから。
「あたしも考えるんだ。明日のことを考えたら、いまはもう寝なきゃだめだ、また居眠りしちゃう、とか。だけど、そう思ってるあたしを超えたいって思う。わくわくしてるあたしを大事にしたいし、自分の常識にブレーキをかけなかったときにみれるかもしれないものを、みてみたいんだ」
「……」
心になにかがちくりと刺さった気がした。
柏橋さんの言ったことは私の常識の外だったけれど、柏橋さんはそれをすごく真剣に語っていた。
それを遮っていいのかどうかに迷ってしまった。
私は私の家と、学校の常識しか知らない。
でも、その常識が大事なことだということを、柏橋さんみたいに真剣に語れない。
柏橋さんの真剣さに私は勝てるだろうか。
それを考えたとき、私の口から言葉は出なくなった。
「だからといって、みんなの迷惑になっちゃダメって判ってるんだけどね」
柏橋さんは申し訳なさそうに頭を掻く。
「だから、今日みたいにやらかしちゃったときは、また叱ってほしいなって。ちょっと都合が良すぎるのは自分でわかってるんだけど、でも……夢中になっちゃう自分のことも好きで、うーん」柏橋さんはほんとに悩ましそうな顔をする。「だから、バランス?」
その姿に、私はなんだか、緊張の糸が切れたような感覚になって。
「……わかった」
そう、返事をしていた。気が付いたら、一日抱えたいらいらは氷解していた。
それから十分くらい、柏橋さんの話を聞いていた。徹夜のきっかけになった映画のあらすじと、それにまつわるいろんなうんちく。
熱っぽく語る柏橋さんは、とてもきらきらしていた。
「あ、こんな時間だね」
柏橋さんが携帯を見てそう言ったので、私はどきりとした。
「……戻らなきゃ、黙って家を出てきちゃったの。すこしならいいかなって思ってたんだけど、怒られちゃう」
「あれ、そうだったの? ……ごめん」
「ううん」
すまなそうな柏橋さんに、私は首を振る。
「……あたしもさ、ほんとは門限、十時なんだ」
「えっ!」
「帰ったら怒られちゃうかも」
「……早く帰ったほうがいいよ」
「うん、そうする。……でも、冒険しちゃった。普段は禁止されてる夜の外出してみたら、どきどきしたけど、外はなんてことなくって、あたしが外に出てることを気にする人なんて誰もいなくて、世界が普通に回ってて」
「……」
柏橋さんの言葉を、私はそのまま自分に当てはめて考える。
私も、冒険だった。家からたった四メートルの、初めての小さなルール違反。
「あたしも委員長も門限違反。ちょっとドキドキするよね。これもひとつの自分への挑戦、なんちゃって。ふふ。じゃ、帰るね、また明日!」
「うん。あ、柏橋さん。」
私はペダルに足をかけた柏橋さんを呼び止める。
「『委員長』は、やめて」
私は委員長ではない。クラスの委員長は別にいるし、なにかの委員会にも所属していない。「委員長」というのは、モラリストな私を揶揄するための、いわば蔑称だ。
だから、そんな風には呼ばれたくはない。
いつもみんなにも注意していることだった。
それなのに。
「うん、わかった……『奈央』、またね」
「!!」
名前で呼ばれて、私は自分が考えていた以上に、動揺していた。
「……またね」
それだけなんとか口から絞り出す。
私の返事をきいて、柏橋さんは、そこから走り去っていった。
柏橋さんが見えなくなっても、私はそこに立ち尽くしていた。
胸はいつもより強く鼓動している。
「……帰らなきゃ。そう、門限すぎてるのに親に黙っておしゃべりなんかしているから。……吊り橋効果だよ、きっとそう」
自分にいいきかせながら、私は自分の家のドアノブに手をかける。
試しに心の中で『明』と呼んでみると、心臓はもう一度大きく跳ねた。
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