6.坂岸恵の場合
「ね、あれ、なんか変じゃない、あれ!」
「んー?」
「もー、すごいよ、ちょっと見てってば!」
私がなんどそう言っても、ハルはカンバスの前から動こうとしてくれない。
集中してるってことだから、邪魔する私が悪いんだけど。
「でもでも、一人でしかも制服で体育倉庫に入るなんて、ふつーないことだし」
ちょっと大きめの私のひとりごとにも、ハルは反応しない。
しかたなく、私はひとりで、美術室の窓から体育倉庫の扉を眺めつづける。
文化祭に向けた美術部の展示物の仕上げをするという友達のハルを待って、美術室で時間を潰していた私は、変なものを目にした。
ちょっとユルい感じの生徒が、制服姿のままで体育倉庫に入っていったのだ。
背は百五十センチくらいだろうか。ウェーブのかかった黒髪と、指導の先生に怒られそうなくらい、かなり崩して着てる制服。ショルダーバッグにはなんかいろいろじゃらじゃらぶら下がってた。
同学年で見かけた覚えがないから、きっと先輩かな。
「なにか、起こりそうな予感……!」
たとえば待ち合わせとかで、誰かがあとからそこにやってくるのか?
それとも、すでに中に誰かがいるのか?
私はどきどきしながら、じっと体育倉庫の入り口を眺めていた。
――結局、そのあと、体育倉庫には人が訪れることも無く、入ってきた人は一人で出ていったし、そのあとに誰かが出て行くこともなかった。
事件は迷宮入り。そのうえ、帰るころにはゲリラ豪雨にぶつかって、私は散々な目にあった。
その先輩と、偶然ばったり廊下で出会ってしまったのは、それから数日が経ってからだった。
「あっ……!」
と、口に出してから、しまったと思う。こういうときに制御できずに身体が動いてしまうのは、私がずっと直したいと思っている悪いクセだ。
「ん?」
先輩は、立ちどまって不思議そうに私を観る。ちょっと眠たげな印象の、二重まぶた。襟元のピンから、二年生だということがわかる。
「どうかした?」
「あ、う、その……」
私はあたりを見る。校舎の棟どうしをつなぐ連絡通路の上、人が来る気配はない。
じゃあ、こうなっちゃったら、聞いてみるしかない。
「あの、私、この前先輩のこと見かけたんです。その、一人で体育倉庫に入っていくとこ……制服姿だったので、なんか変だなって思って……」
先輩をちらっとみる。ほんのすこし、微笑んでいるような気がした。
「あのとき……なにしてたんですか?」
一瞬の間。先輩は口元に人差し指を当てて、なにか考えるように斜め上を見て、それから、私のほうに一歩踏み込む。
「ふーん?」
目を細めて、上半身を前に倒して、上目遣いで私を見る。
「……知りたい?」
ささやくような声。耳から入ってきた声に全身を撫でられたような気持ちになって、私は首筋にぴりぴりしたものを感じた。
声が出せなくて、私は頷いて答える。
……や、やばいかな。
そしたら、先輩は、さらに一歩踏み込んできて。
そんなに近寄ったら、ぶつかっちゃうと思う間もなく。
私の右の首筋のあたりに鼻を近づける。
先輩の髪が鼻にかかって、シャンプーの香りがして、やわらかそうなうなじのあたりの肌が見えて、そこには小さなほくろがあって――
「ふぅっ」
「ひゃ!」
首筋に息を吹きかけられて、私はまぬけな声を挙げてた。
うしろに飛びのいて警戒のポーズをとる私を見て、先輩はいたずらっぽく笑う。
「……また今度、ね」
そういって先輩は、私が固まっているあいだに、そこからどこかへ行ってしまった。
私はしばらくその場から動けなかった。
いま起こったことを、頭のなかで三回くらい繰り返してみて、ようやくちゃんと理解する。
「な、なんか、すごかった……」
口から感想になってない感想を言いながら、先輩に息を吹きかけられた右の首筋に手で触れる。
ちょっとしっとりしている気がした。
「……でも、ちょっと癖になりそう、かも」
……やばいかな。
ぼーっとしたままの私が、まだ先輩の名前すら知らないことに気づいたのは、学校を出てからだった。
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