4.太刀根真琴の場合

「おまたせ」

「ううん、いまきたとこ」


 私はそういって、下駄箱で靴を履きかえるゆかりを観ていた。

 ゆかりの薄く茶に染まった髪を。柔らかそうな頬のラインを。ブレザーの胸元からほんの少しの面積見えてる肌色を。背とおんなじくらい小さな両手を。短めのスカートから伸びる細い脚を観ていた。

 長時間のランニングで発散したはずの私の「もやもや」は、ねばっこく奥のほうから顔を見え隠れさせる。


 私とゆかりは、いつもお互いの部活が終わったあと、一緒に歩いて帰る。

 ゆかりはブラスバンド。いまは文化祭に向けて練習中。

 私は水泳部。プールの使えるシーズンが終わったから、やることはもっぱらランニング。

 歩きながら、ゆかりは私にいろんなことを話す。


「やっぱりね、なんかうまくいかないんだ」

「ソロのこと?」

「うん」


 ゆかりは口をとがらせて言う。さっきまで悩みながらたくさん楽器を吹いたのであろうその唇は、ふだんよりほんのすこし厚ぼったく見えた。


「あの先輩……だっけ。引退だもんね」

「うん……あぁ~、さびしぃなぁ……先輩と一緒に吹きたい」

「あはは」

「なにがおかしいの?」

「ちゃんと喋ったことないって言ってたから。それなのにその先輩と吹きたいって、そういうの、なんか不思議」

「うーん……そうなんだけどね。言葉じゃなくても、相性っていうの? そういうのがあるの」

「……うん」


 相性、という言葉にどきりとして、私はすこし曖昧な返事を返した。


「……いつまでも悩んでいられないって、わかってるんだけどなぁ……」


 ゆかりは口をとがらせる。

 ゆかりは、私を友達だと思ってくれていて、それで私にこの話をしてくれている。

 一方の私は――私もゆかりのことは大事な友達だと思う。

 けれど同時に、私はゆかりを見て「欲情」しているんだと思っている。

 

 たぶん、私は人より性欲が強い。

 保健体育の授業で先生が話してたような気がする。染色体がどうとか、遺伝子がどうとか。……生物の授業だったかな。機能が強いことがあるとか、なんとか。

 実際に私がそういうものなのかはわからないけど、ともかくこの心と体が、人よりちょっとそういうエネルギーに有り余ってるのは、変えようのない現実で。

 否定してもどうにもならないから、付き合っていくしかない体質で。

 あるとき、ゆかりに対して、特にそういう「もやもや」が強く出てしまうことに気づいた。


 だから、私はゆかりに会うときはいつも、体力を使い切ってから会うことにしている。

 そうすれば、自分の中にある「もやもや」はすこし落ち着いてくれるということがわかったから。

 正直に言えば、走り込みは部活のトレーニングというか、ほとんどゆかりに会うための準備みたいなものだ。

 肌着がぐっしょり濡れて、短く切った髪も汗でたっぷり重くなるくらいに走る。

 そうじゃないと、ゆかりと会う私はもっともっと「もやもや」する。

 そこまでしても、まだすこし「もやもや」する。

 困った身体だと思う。


「……その先輩は戻ってこないんだしさ、別のことで解決するしかないんじゃない?」


 私が提案すると、ゆかりはきょとんとした顔で私を見上げる。


「ほら、次はゆかりが、誰かのソロを支えられるようになったり、自分のソロで皆を引っ張ったり。そういう代わりの手段で気持ちを入れ替えられるんじゃないかな」


――私が、そうしてるみたいにね。という言葉は飲み込んだ。

 ゆかりは、私の言葉をすこし考えてから、小さく笑った。


「そっかぁ……そうかも。うん。……がんばろう。ありがとね、真琴」

「どういたしまして」


 私はそう言って、ゆかりの頭にぽんと右手を乗せる――このくらいのご褒美は、もらったってバチは当たらないでしょ。


 右手のひらから、言葉にできようもないなにかをいっぱい吸収して、触れていた右手をそっと離す。


 いとおしいけど、これ以上はきっとダメ。

 我慢できなくなったら、困るもんね。

 私は、ゆかりと友達でいたい。


「ね、そこ寄って行っていい?」


 そう言ったゆかりは私の返事も聞かずに、ショッピングモールに進路を変える。


 いつも思う。我慢しなかったら、どうなっちゃうのかな。

 終わっちゃうんだろうか。なにか続きがあるんだろうか。

 ゆかりは、受け入れてくれるだろうか。それとも、拒絶するだろうか。

 そういうのも「相性」の問題にできるのかな。


 私は、小走りにゆかりを追いかけた。

 今はまだ、走って解消する日々をつづけようと思っている。

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