3.柊ゆかりの場合

 ぱーん。

 放課後、誰もいなくなった音楽室の片隅。

 気の抜けた音が出て、あたしは思わずトランペットを口から離した。

 くちびるが、熱を帯びてる。


『ゆかり、あんまり調子よくないみたいだね』という言葉すら言われなくなってから、もう二カ月くらいたつ。

 調子が悪いなと感じてから、その原因に気づくまでおよそ一カ月。

 それから一カ月、なんとかしようとしているけれど、どうしてもうまくいかない。


 うまくいかないのは、トランペットのソロの部分。

 部活のブラスバンドで演奏する曲の、決めどころ。

 夏まではずっと調子がよかったのに、定期演奏会が終わってからはぜんぜんだめ。

 音がふらふらしちゃって、定まらない。

 

「高野先輩……」


 もう部活にはいない人の名前をつぶやく。

 この夏で引退した、いまは受験勉強に一生懸命のはずの先輩の名前。

 つぶやいた音は防音壁に吸い込まれて、すぐ消えてしまう。


 トロンボーンの高野先輩は、ぱっとしないひとだった。

 持ち物も制服の着方も生真面目で地味、飾りっ気なんてひとつもなくて。

 どちらかといえばギャルっぽいって言われることが多いあたしとはほとんど接点がなかった。

 部活での必要があって二度三度言葉を交わしたくらいのもの。


 だから、先輩が引退していなくなるまで気づかなかった。

 高野先輩の伴奏で吹いたときのソロが、あんなにも吹きやすかったという事実に。

 それを、自分だけの実力だって勘違いしてた。


 高野先輩はいつも、あたしを支えてくれていた。

 それはあたしとだからっていうことじゃなくて、きっと高野先輩は誰がソロでもそうやって支えてくれたのだと思うけれど。


 高野先輩の支えがないソロは、ひどい出来だった。

 それは決して失敗だとかそういうことじゃないのだけれど、高野先輩に連れて行ってもらった高みには到底、足りない。

 あの体中、ううん、その部屋の空気まで全部自分の一部になったみたいな、神秘的な高みには。


 どうして、もっと早く気づけなかったんだろう。

 嚙みあいすぎていたから、嚙みあっていたことに気づかなかったのかもしれない。

 お礼を言えばよかった。

 自分の実力だと調子に乗った自分が恥ずかしかった。

 一度そのことに気づいてしまうと、高野先輩が――高野先輩の音が、恋しくてしかたなかった。


 原因に気づいてからは、高野先輩の伴奏を思い出しながらなんども吹いた。

 となりに高野先輩がいることをイメージして。

 あのひとの音を思い出して。

 息づかいを合わせて。

 あのひとがあたしに寄り添ってくれたのと同じくらい、寄り添おうと努力して。

 でも、想像だけじゃ足りなかった。


「もう一回、いっしょに吹きたいなぁ……」


 高野先輩に会いに行ったら、不審がられるだろうか。

 突然変な後輩だと思われないだろうか。

 すごく成績がいい人みたいだし、受験勉強のじゃまになっちゃうかな、やっぱり。

 優柔不断な自分にやきもきしながら、あたしはもう一度、マウスピースにくちびるを添える。


 ぱーん、と、気の抜けた音が、防音室に吸い込まれて消えていく。


「……せんぱぁい……」


 あたしは、トランペットより気の抜けた声を吐いた。

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