火曜日の書窓 - Maria Lovelace (4)
やがて閉館時間が近づき、二人はどちらからともなく机を片づけはじめた。
「――アルのことは」
そのとき突然、マリアの声が小さく響いた。
「わたしも、大事な人だと思ってます。彼の気持ちも、とっても嬉しい。でも、わたしは絶対に、彼と一緒にはなれないですから。それに、たぶん私は、そうなりたいとも思ってないんです。だから彼には、わたし以外の人を見つけて幸せになってほしいって、思ってるんです」
シスルは、時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
しまった、と思った。深入りしたくないと思うには、遅すぎたのだ。
シスルは、退けないところにまで触れてしまっていた。もう、とっくに。
もっと、わがままになったっていいと思うよ?――そんな風に言えたら、どんなにかいいだろう。でも、彼女が絶対に《わがまま》になれないであろうことを……それが不可能だということを知っているシスルには、それだけは、絶対に口にできなかった。
そしてそう言うことができなければ、ほかにかけられる言葉など、どこにも存在しなかった。
「――ごめんなさい、ただ、それだけです。アルと、仲良くしてあげてくださいね」
どうか、せめて、少しでも幸せな最後になれば。ただ、そう願うことしかできなかった。シスルにさえ――彼らの幸せな未来を、思い描くことができなかったから。
「アイツが、仲良くさせてくれればな」
だから、発した言葉はそんな軽口にしかならない。
「でもきっと、アルはシスルさんにお世話になるんじゃないかなって思います。甘えたがりだから」
「頭ばっかり大きくて困るよ」
「――きっと、彼は大人になれません」
「え?」
「だから、お願いします」
微笑んだきり、彼女はそれ以上の詮索をさりげなく拒んだ。
シスルは、彼女が発した言葉の意味を考える。
大人になれない――と、言われた、アルベルト・クルティスを、《鳥の塔》で世界の改善を目指して研究を続ける天才少年を、脳裏に思い返す。確かに標準よりもずいぶん背は低いが、と、そういう問題ではなくて……おそらく、彼女は「天才であるがゆえに」と、そう言いたいのだろう。それは、確かにシスルも感じたことがある。あまりにも突出した頭脳の代償は、必ずどこかに現れる。彼の場合は、一体どこにしわ寄せが行くのか……それはきっと、今後の彼の運命次第でも、あるのだろう。
それを変えてあげることが、彼女には、できないのだろうか。
シスルが無言で曖昧にうなずくと、マリアは顔をふとそむけるように、鞄に視線を固定した。思った以上に、この子は複雑な少女らしい。まるで何もかもを見通しているようでありながら、諦念に満ち、それでいて前向きに自分を見つめる……
しかし、それは――私の物語ではない。と、シスルは、自分の思いを仕舞い込んだ。
それは、彼女の物語だ。彼女、ひとりだけの。
カウンターで貸出し手続きを受けた。マリアは六冊、シスルは四冊の本を借り受ける。
「シスルさん」
前庭に出て敷地を出る直前に、マリアが振り向いた。
「何かな」
「――ひみつ、ですからね」
マリアは静かに微笑みながら、夕暮れの暗い唇に、人差し指をそっと当てた。
つくりものの心臓が、どきりと跳ねる。
「……何のことかな?」
精一杯、余裕の笑みを形づくる。だがシスルのサングラスの下の瞳は、か弱そうに見える少女のなかに、恐ろしいまでの意志の強さを見て顫えていた。
「なんでもありませんよ。――また、いつか会えるといいですね。それじゃあ、失礼します」
そして去っていく背中に、さりげなく別の人影が付き添っていく。彼女を守っているのか、それとも監視しているのか――あるいは、その両方なのかもしれない。
眼鏡の向こう、彼女の瞳には強い覚悟があった。
世捨て人の、そうでなければ殉死者の覚悟、とでも形容すればいいのだろうか。自分の生を自ら区切り、いつまでも続けたい幸福な時間をきっぱりと断ち切って、来るべき時を迎えようとするかのような、刹那的で、でもとても強い覚悟。
手のひらの中のあたたかな記憶だけをよすがに、たった一人、逆風の中に立つ一人の少女。その強くも、胸を引き裂かれそうなほど痛切なイメージが、シスルの拳に力を加える。
シスルは、いつもより近くに臨める、曇天の空に突き立った白い《鳥の塔》を見上げた。指先に、数時間前の、冷たく滑らかな小さい《石》の感触を思い出す。
あの象牙の塔に今も捕らわれているのであろう実験体、新たな人類の《種子》――彼女たち《歌姫》の、どこまでも因果な運命を思って。
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