水曜日の迷夢 - Kuchinashi (1)
影色の衣を纏う青年――シスルは、揺れる炎に照らされた、長い廊下を歩いていく。足を踏み出すたびに、床板はぎぃぎぃと心細げな鳴き声を上げ、否応なく、薄闇の中にシスルの存在を主張する。
狐の面を被った着物姿の少女は、シスルの一歩前をしずしず歩きながらも、シスルの姿が物珍しいのか、こちらをそっと窺っては目を戻す、を繰り返していた。
それは珍しいだろう。無意識に、側頭部と愛用のミラーシェードを繋ぐコードを指先でいじる。いくら限りなく人に似た形をしているとはいえ、脳味噌以外ほぼ全ての部位が機械仕掛けの人間なんて、そうそういるものじゃない。
――仮に、自分の他にいたとしても。
少女の帯のあたり、まだ女性らしさからはほど遠い腰つきに視線をやり、意識して少しだけ口元を歪める。
――まず、こんな場所に用はないはずだ。
やがて、少女は一つの襖の前で足を止めた。
襖に描かれているのは、花。深い緑の葉を茂らせた樹に一輪だけ咲く、純白の花。その花の名前を、シスルは知っている。遠い日に……それこそ、人としての身体を失う前に日々眺めていた、色褪せた図鑑を通して。
何も言わぬまま、少女は襖に手をかけて、そっと開いた。その瞬間、シスルの嗅覚を支配したのは甘い香り。胸が焼け付くほどの香にうんざりしながらも、分厚いグラス越しに部屋の中を覗きこむ。素の状態では視力に難のあるシスルだが、目を覆うミラーシェードに備え付けられた機能のお陰で、この薄闇の中でもはっきりとそこにいる人物の姿を捉えることができる。
そこにいるのは、一人の女だった。
この終末の国ではめったにお目にかかることのない――旧時代であっても珍しいものであったに違いないが――色とりどりの着物を幾重にも重ねている。その表層を覆う赤い布地は仄かに灯された灯りに照らされ、細かに縫われた模様が浮き出して見える。一目で、高価なものであることはわかる。
それでいて、酷く重さがあり、身体の動きを妨げるものであることも、わかる。
複雑な形に結った黒髪を纏める簪もあまりに大きく、それ自体が一つの重しのようにも見えた。
シスルが愛する「機能性」とかけ離れた姿をした女は、シスルには視線を向けないまま、白い指先で口に咥えていた煙管を摘み、煙と共に言葉を吐き出した。
「久しいね、刺草の」
微かに嗄れた気だるい声は、耳慣れない言葉でシスルを呼ぶ。刺草。それが薊の別名であることはシスルも承知していたが、そんな旧い言葉で呼ぶのは、終末の国広しといえどもこの女だけだ。
「そちらから訪ねてくるとは珍しい。まさか、お前さんに限って私との時間を買う気もあるまい、用件は何だい」
指先で、赤く塗られた煙管を揺らす。煙管から立ち上る煙は、どうにも気に入らない香りをしている。微かな苦味を混ぜた、それでいて圧倒的な甘さ。ほぼ唯一とも言える「人」としての部分である脳にまで染み込んでくるかのような匂いを意識から振り払い。
シスルは、淡々と、その言葉を口にした。
「梔子。アンタ宛の言伝を、預かっている」
その瞬間、女――梔子は、重そうな頭を揺らし、初めてシスルに視線を向けた。
闇にも鮮やかに燃える、血の色をした、瞳を。
§ 1
梔子、という名で呼ばれる高級娼婦の噂は、シスルも以前から耳にしていた。
外周の、雑然とした華やかさを誇る歓楽街、その外れに位置する娼館『玄華楼』は、シスルの持つ知識に照らし合わせて考えるならば「遊郭」と呼ぶべきものだった。
かつての国境が意味をなくしたこの時代、外周には旧時代に存在した諸国の文化を色濃く残した、もしくは真似たものが数多く存在する。かつて、このような時代が確かにあったのだと、忘れてはならないと、主張するように。
『玄華楼』は、その、最もわかりやすい例の一つだろう。
紙張りの球体に、炎を閉じこめた明かり――提灯に照らされた『玄華楼』は、外周で見られるどのような建物とも違った建造物であった。シスルも、書物の中の挿画でしか見たことがない、木の柱と板で組み立てられた、極東の建築様式だ。
もちろん、壁や柱に見える木目は全て描かれたもので、本物の木材ではない。植物がまともに育たないこの国で、木造建築など夢のまた夢。建築学の知識を持つわけではないから断ずることはできないが、旧時代の様式を真似ているのは表面だけで、実際には現在一般的に使われている建築技術で建てられたものなのだろう――そんなことを考えてもみる。
それでも、『玄華楼』はある種の芸術品であり、その店構えからも察せられるとおり、客を厳しく選ぶ店であった。
外周を牛耳る組織の幹部や、塔の上層に住まう者がお忍びで訪れると噂される一方、一見の客はまず店の前に立つこともできず、金とつてがなければ一生足を踏み入れることはない、そういう場所だ。
当然、金で女を買う趣味のない……その欲望もなければ、そもそも行為にすら及べないシスルからすれば、最も縁遠い場所である。
故に、『玄華楼』が誇る最高位の娼婦、梔子の話は噂でしか聞いたことがなかった。
曰く、その姿を見るには今までの人生で稼いだだけの金が必要だ。曰く、一夜を共にするためには、それを最低でも七回は繰り返さなければならない。曰く、そこまで辿りついても、梔子自身が望まない限り、その身を好きにすることは許されない。
そして――それだけの犠牲を払って梔子を抱いた男は、ことごとく無惨な死に至る、とも伝えられていた。
まるで、趣味の悪い都市伝説だ。
その伝説の主がどのような女か、興味がないわけではなかった。ただ、生きている世界が交わらない以上、決してお目にかかることはないだろう。そう、思っていた。
他でもない、その梔子から名指しで仕事を依頼されるまでは。
仕事自体は単純なもの。ある男と愛を誓い合ってしまった娼婦の足抜け、その手伝いだ。その仕事自体は簡単に終わり、その後の男と女の行方は知らない。上手くやっていればいいと思いはするが、そう上手くいくはずもあるまい、という考えが首をもたげる。
だから、そのことは忘れることにして、現実と向き合う。
梔子という名の現実は、しかし現実味からはかけ離れた真紅の瞳を瞬かせ、小さな口を笑みにする。
「誰からの言伝だい? 私に関わった男は、みんな死んだと思ってたんだけどねえ」
「エリック・オルグレン、という男を知っているだろう」
シスルがその名を口に出した途端、梔子の表情が変わった。露骨な嫌悪を端正な顔に張り付け、嗄れた声で言う。
「……聞きたくない名前を聞いたよ」
「そのミスター・オルグレンが、あなたにどうしても伝えたいことがある、ということでな。今日の私はしがないメッセンジャーだ。人選はどうかと思うが」
どうかとも思うが……シスルにしか果たせない役目であることも、確かだ。客という立場でなく梔子と接触できる人間など、そうそういるものではない。その点、梔子からの依頼をこなし、信頼を得ているシスルにお鉢が回ってくるのは当然ともいえた。
梔子は、滲む苛立ちを隠しもせず、落ち着きなく指先で畳を引っかいていたが、やがて溜め息をついてシスルを手招いた。
「おいで。大きな声で話すことでもないだろ」
「おや、いいのかな? 客でもない私を招いたりして」
言いながらも、シスルは梔子の横に座る。座り慣れない畳の感触を確かめながら、声を潜めて言う。
「アンタを見てると、それだけでおかしな気を起こしてしまいそうだ」
すると、梔子はふっと息を吐き出した。呆れたようだった。
「お前さんに限ってそりゃありえないね。それに」
つ、と。朱に塗られた爪が、シスルの喉を撫ぜた……かと思うと、そのまま細い指先がそこに絡められた。つくりもののシスルよりも遥かに冷たい指は、ゆるゆると喉を圧迫する。軽く触れているだけに見えて、それでいて人間離れした力で。
「おかしな気を実行に移すより、ここが捻じ切れる方が早いかもしれないよ」
耳元に口を近づけて告げる梔子に、シスルはかろうじて笑みを見せて、掠れた声で答えた。
「そう、だったな」
人間よりも遥かに強靱な体を有するシスルだが、梔子の言葉が嘘でないことは、ほとんど確信していた。まともな人間が相手であれば、そんな言葉は笑い飛ばしたと思うけれど。この女が「まともな人間」でないことは、シスルにも容易に想像できる。
ギブアップの合図として軽く畳を叩くと、梔子の指がするりと喉から解けた。小さく咳をして喉の調子を確かめてから呟く。
「笑えない冗談を言うもんじゃないな」
身を離した梔子は、何事もなかったかのように片手に載せたままだった煙管の灰を捨て、シスルからは視線を逸らして言う。
「とっとと用件を済ませな。客が待ってるんだから」
近い将来、その命を落とすであろう、客が。
何故、梔子に関わった客が死ぬのか、そのわけは知らない。だが……梔子という存在にその理由があることは、察する。
旧い世界の名残のような娼館の奥深く、誰の目にも触れず君臨する娼婦。その身に纏った豪奢な衣装や、ところどころに細かな意匠を施してある部屋のつくりを見る限り、それこそ物語の世界の姫君を思わせたが、それと同時に、自由をことごとく奪われた囚人のようでも、あった。
そんな梔子の姿をミラーシェードの下から観察しつつ、預かった言伝を思い出す。決して長いメッセージではないが、一言一句間違えることのないように、というなかなかの無理難題。書き留めたものがあればいいのだが、何しろ、この場には衣服以外の何一つを持ち込むことが許されていない。愛用のナイフや暗器は全て入り口に預けてしまっている。身の内に……まさしく身体の中に隠しておいたものも、全てだ。手紙を持ち込む余地など、あるはずもない。
それでも、歌を覚えるのと同じ要領で、一定の拍をつけて何度も繰り返して、できる限り忘れないようにしていた、つもりだ。言葉の拍と意味とを頭の中で照らし合わせながら、ゆっくりと、口を開く。
親愛なるあなたへ。
いかがお過ごしでしょうか。風の噂を聞く限りではご健勝のようですが、実際がわからない以上、私から何を言うこともできないのが心苦しいところです。
本題に入りますが、近頃外周において、いくつかの血腥い事件が発生しております。私が調べたところによりますと、あなたが住まう店の周辺においても同様の事件が発生する可能性があるとのことでしたので、警告としてこのメッセージを送らせていただきます。
事件の詳細について調査でき次第、またシスル氏を通してお伝えしたいと思います。
どうか、お気をつけて。
「……『エリック・オルグレン』」
「それだけか?」
「それだけだ」
さらりと、シスルは言い切った。実際、シスル自身不思議ではあった。シスルを雇う金は、この業界の相場に照らし合わせても決して安いものではない。それだけの金を払って預けた伝言がこれだけであることに、疑問を覚えない理由はない。
「事件については、知っているか?」
「ああ。変な薬が蔓延してると思ったら、今度は妙ちきりんな連中が、シマもわきまえずにうろついてる。うちの用心棒も、一人殺られたよ」
組織のお偉さん曰く、スターゲイザー信仰の急進派だというが、どうだかね――と。梔子は言って、甘ったるい香りの草を詰めた煙管に火を入れる。
世界に終末をもたらした魔法使い、もしくは神といわれる《バロック・スターゲイザー》。統治機関たる《鳥の塔》は表面上信仰の自由を認めてはいるが、スターゲイザー信仰に関しては、水面下で厳しい取り締まりを行っている……という事実はいわば「公然の秘密」だった。
ほとんどのスターゲイザー信者にとって、かの魔法使いは破壊や終焉による救済の象徴であり、それらの思想は塔の統治に対して悪影響しか及ぼさないからだ。
とはいえ。今現在外周で起こりつつある事件が、終末の神に感化された者たちの単なる暴走であるとは考えづらかった。実際に手を下したのはスターゲイザー信者であったかもしれないが、それ以上に、何か確固たる悪意のようなものが渦巻いている、そんな気がしていた。
が、一連の事件はシスルが関わるようなことではない。それらは、塔の連中が始末することだ。塔から半ば放置されている外周ではあるが、スターゲイザー信者絡みとあれば、塔も動かざるを得ないと踏んでいる。
だから、今考えるべきはそこではなく、このメッセージ。エリック・オルグレンという男が、わざわざシスルを使ってまで梔子に伝えようとした、たった一分にも満たない伝言だった。
梔子は、紅を引いた唇に指を当て、しばらく考えた末に――言った。
「返事は、別料金かい?」
「いや。ミスター・オルグレン曰く『あの人から返事があれば、受け取ってきてください』とのことだから、そちらから金を取る気はないよ」
「……なるほど、織り込み済みってわけかい。相変わらず、性根の腐った野郎だよ」
ぶつくさと言いながらも、梔子はシスルを真っ向から真紅の瞳で見据えた。その目で見据えられると、シスルのつくりものの心臓が嫌な音を立てる。胸の奥底を抉るような、激しい痛みが走る。その痛みが架空のものであることは、わかっていても。
「なら、返事を頼むよ……刺草の? どうした、変な顔して」
「いや。何でもない」
ミラーシェードの下で、視線を逸らす。その視界の片隅で、梔子は再び煙管に口をつけ、白い煙を吐き出しながら言った。
「しかしお前さん、物真似上手いねえ。奴の喋り方、そっくりだったよ」
「ああ。ちょっとした、特技なんだ」
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