火曜日の書窓 - Maria Lovelace (3)

 いくらか経って、手元の本を増やしてから書見机に戻ると、予想通りそこにはマリア・ラブレスの姿があった。

 彼女もこちらに気付いて、ふわりと微笑んで見せる。シスルも反射的に、笑みを返した。他に人も見当たらないので、小声でそっと話しかける。

「さっきはどうも」

「こちらこそ」

「ここ、よく来るの?」

「ええ、もう卒業も近いので」

「上級の次は、高等だったっけ。進級試験とかは、もう済んでるのかな」

「いえ、進級の試験はなくて、ふつうの期末試験だけですね。いまはそれも終わって、授業はないんです」

「ほとんど、持ち上がりみたいな感じなの?」

「そうですね。でも、上級を出たらすぐに就職って子もいますし、研究職に引き抜かれるって子もいますね」

「ああ、そっか。そういえば私の知り合いにもいたな」

 シスルは、金髪を揺らす女記者の姿を思い浮かべた。彼女も確か、上級学校を出た後に今の職に就いたはずだった。

 裾の町のまともな学校は、塔が設立した公立学校がひとつだけ。幼年学校から高等学校まで四つの年齢区分があることは、シスルも知っている。とはいえ、そこに通うためにはいくつかの「特別な基準」がある。半分以上の人間が塔の関係者らしい、ということも、裾の町の住人にとってはほとんど常識のようなものだった。

 むろん学校に行った経験がないシスルにとっては、そうやって進路に選択肢がある世界は、いまひとつ想像しづらかった。それこそ、詳しいことは本の中でしか知らない。大人になるまでの、思春期の悩みだとか、親や教師との諍いだとか。

 そして……この少女も、そんなものを求めたのかもしれない。

 シスルは知っている。彼女がもともとは塔と無縁の状態で、第二十五隔壁に住んでいた、本当にただの少女だったことも。

 あるとき《鳥の塔》に引き取られ、三年前に上級学校への編入を許可されたことも。以来、実質的には女子トップの成績を保ちながら、監督生・首席の地位を断り続けていることも。

 塔の上層部と繋がりのある、いわゆる「貴族」の娘に、成績のことがきっかけで目をつけられたことも。その娘と取り巻きに、まるで旧時代の少女漫画のような、典型的なまでのイジメを受けていたことも。それでもそのことを伏せ、淡々と学校生活を続けていることも。

 塔の天才研究者アルベルト・クルティスが、彼女に淡い恋心を寄せていることも。初めてのプレゼントの中身も。

 そして先ほど、彼女に触れたとき、なぜ彼女が辺境の隔壁からわざわざ《鳥の塔》へ招かれたのか――その理由さえも、シスルは知ってしまった。

 因果なものだ、とシスルは心の中で溜め息づく。

「あなたはどうするの? ――あ、ええと」

「マリアです。マリア・ラブレス」

「私はシスル。よろしく」

「こちらこそ。その……私、は、高等には進まないかもしれません」

「え?」

「まだ、決めてないんです。そろそろ手続きとか、しなきゃいけないんですけど。……親との、話し合いも済んでなくて」

 彼女の両親は確か、裾の町に移住してきて塔の管理下で生活しているはずだった。親との話し合いというよりも、それはきっと塔との話し合いのことなのだろう、とシスルは頭の隅でちらりと考えた。

「こんなに本が好きなら、勉強も好きなのかな?」

「え……えと、勉強も、嫌いじゃないです。新しいことを知ったり、これまで解けなかった問題を、解けるようになったり、昔の人の考えてたことを知ったり、って、面白くて」

「なら、上に進めたらいいね」

「ええ、できればそうしたいって、思ってます」

「――難しいんだ」

「でも、ここまで学校に通わせてもらえただけでも、すごく幸せです。学校にいなくても本は読めますから、いいんです」

「……そうか。いろいろ大変だね、学生さんも」

「そんなことないです。働いてる方々に、比べたら。わたしなんて、ぜんぜん何にもできませんし」

「学生さんは勉強するのが仕事だし、女の子は恋をするのが仕事――だから、いいんじゃないかな?」

「こ、恋なんて、そんな……そんな資格ないです、わたし」

「そんなことない。かわいい盛りじゃないか」

「あ、あのっ、そんなに……褒めていただいても、何にも」

「いや、お世辞じゃないよ。というかね……アイツが惚れるのも、分かるなあって思って」

「え……?」

「あ、ごめん。アル――アルベルト・クルティスのこと」

「え、ええっ」

 本当に驚いたようで、マリアの声が突然大きくなる。シスルは慌てて口元に人差し指を当てた。

「声が大きい」

「あっ、す、すみませ……」

 司書の視線に向かって、何度も頭を下げる。そのたび背中で、一本にしっかりと結われた三つ編みが前後した。

「――あ、アルのこと、知ってるんですか」

「ああ、前に一度、依頼を受けたことがあってね。ってことは、そのマリア・ラブレスさんでいいんだね」

「えっと、多分、そうです」

「ごめんね、驚かせちゃって。話には聞いてたし、苗字も同じだったから、もしかして、と思ったんだけど」

「そんな、先に言って下さったらよかったのに」

「私みたいな見た目だと、いきなり『知ってる』なんて言われたら怖いだろう、と思ってね」

「そんなこと……」

「いや、私だったら怖い」

「え、あ、そ、そうですか」

「――ごめんね、読書の邪魔しちゃったな」

 シスルは、これ以上の深入りは避けたほうがいいと判断して、そう話を切り上げた。

 アルベルトの名を出す必要はなかったが、何となく彼女の反応が見てみたくて――己の好奇心を諌めながら、シスルはさりげなく自分の前に積んだ本を一冊選び、手に取った。少女のほうも首を振りはしたが、シスルが自然に本を読み始めたのを見て、自分も本をめくり始めた。

 しかし一分と経たないうちにシスルはあることに思い当たると「そうだ」と言うなり、マリアの顔を――正確には、彼女の顔にかかった眼鏡を、軽く覗きこんだ。マリアは、黒い瞳を大きく見開いて驚きを示す。

「割れてないかな」

「え」

「眼鏡」

 少女は言われて「あっ」と眼鏡を外した。

 ――その瞬間、シスルは思わず、全力で顔を背けた。

「――え、えっと、シスルさん?」

 少女が不安そうにシスルを覗きこもうとするが、シスルは手を軽く振ってそれを制した。

「ごめん、いや、その、なんでもない」

 シスルはほとんど喉まで出かかった叫びを、代わりに胸中で思う存分、ぶちまけた。

(何なんだこの典型的なまでの眼鏡ギャップ美人顔は……!)

 シスルはだらだらと汗が流れるような気分で、しばし深呼吸をする。むろんはね上がった心臓と体組織も、やがてはお構いなく、自律システムによって通常運転を取り戻すことはわかっていたけれど、精神衛生上というかヒトの性というか、ともかく二つの人工肺いっぱいに、大きく呼吸した。

 その間に少女は、シスルの方を多少気にしながらも、目の前の眼鏡をためつすがめつして確かめる。どうやら傷はなかったらしく、マリアは微笑んだ。

 大きな丸い瞳に長い睫、まぶたは一重だが厳しい印象はない。それがほかの顔の配置と相まって、女学生として理想的なまでの若く美しい表情がそこにある。

「大丈夫みたいです、ありがとうございます。シスルさんってよく気のつく方なんですね」

 気の落ち着いてきたシスルは、ふと別のことに気付いた。

「――遠視?」

「え?」

「いや、なんでも」

「ああ、えっと、どちらかと言えば遠視です」

「どちらかと言えば、って」

「ほとんど度は入ってないんです。なくても生活には困りませんし」

「じゃあ――どうして、わざわざ?」

「いろいろ事情があるんです。……女の子ですから。そうでしょう、シスルさん」

「女の子の秘密なら、聞くわけにはいかないね」シスルはそう言って微かに笑い声を立てた。「暴いてしまうと、たいてい怖ーいことになる」

「不思議なひと」

 言ってマリアは、ふたたびその、度の弱いのだという眼鏡をかける。確かによく見てみれば、眼鏡特有の歪みは彼女のレンズの向こうにはほとんど見られなかったし、本を読むにしても紙面との距離はいささか遠かった。

「あの、そういえば……シスルさん」

「うん?」

「アル、……わたしのこと、どんなふうに言ってますか?」

「――えっと」

 アルベルト・クルティスは、自分の思い人について語るタイプではない。以前に彼女の周辺について調査を頼まれた関係で、二人の関係についてや彼女の個人情報を知る運びとはなっているが、彼の口から直接、マリア・ラブレスの話を聞いたことはほとんどなかった。

「恥ずかしがってあんまり話してはくれないけど、あなたのことが好きなんだろうとは、感じるよ」

「――そう、ですか」

(あれ?)

 シスルは思わず首を傾げてしまった。

 もっと、恥じらうような様子を期待……もとい予想していたのに、いまの彼女の表情はむしろ、落ち込むように影のあるものだった。

「どうか、したの?」

「あ、いえ。すみません、いきなり」

「アルベルトは、お好みでないのかな?」

「そ、そんなわけじゃ……」

「でも、なんだかあんまり嬉しそうじゃないね」

「……」

 マリアはそれきり、黙り込んでしまった。

 シスルはマリアの様子が気にかかりはしたが、それ以上は追及しないことにした。

「ごめんね、言いたくなかったらいいんだ。気にしないで」

 彼女の事情を考えると、シスルには彼女を助けることができるとは思えなかったし、彼女の悩みを聞いたところで、それを解決できるとも、到底考えられなかった。

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