月曜日の狂騒 - Alicia Fairfield (4)
* * *
――カメラから視線を逸らし、一つだけ問う。
「複製は?」
「オリジナルのみ。今日は仕事のつもりじゃなかったから、予備メモリもないしさ」
アリシアはカメラを大事そうに両手で支え、悔しそうに唸る。
「会社に送信できればよかったんだけど、ここからじゃ、一旦公衆網に乗せないといけないから――」
「その瞬間に潰される、か」
塔の監視は、何も目に見える場所にのみ及んでいるわけではない。当たり前にそこにあり、しかし誰もそれを形としては意識しない、通信網。それもまた、塔が握っているものの一つだ。
「そゆこと。くっそー、せめて予備メモリさえあればな……」
ミラーシェードの下で瞼を伏せて、シスルは、胸の中で小さく謝罪の言葉を吐いた。それは、絶対に、言葉に出してはいけなかったから。沈黙を守ったまま、その時を待つ。
いち、にい、さん、と三拍を数えたところで、
「アリシア・フェアフィールド」
招かれざる者の声は、四方から響いた。
アリシアは、はっとしてカメラをポケットの中に押し込む。だが、その所作も全て、辺りを取り囲む黒服たちの目に焼き付けられていたに違いない。
そう、シスルとアリシアは、既に、各々の武器を手にした黒服たちに包囲されていた。
「それを渡せ、アリシア・フェアフィールド」
カメラの入ったポケットを上から押さえたまま、アリシアは硬直していた。その肩が小さく震えているのが、シスルにもわかった。殺意を持つ者と対峙して、恐れるなというのも無理な話だ。
それでも。それでもアリシアは、紫苑の瞳で黒服たちを薙ぐように睨む。
「嫌よ! アンタたちが正しいってんなら、もっと堂々としなさいよ! こそこそ人のこと追い回してるひまがあったら、何もかもを明らかにしたらどうなのよ!」
黒服たちは、何も答えない。今にも噛み付きそうな顔をしたアリシアを、生気のない、しかし確かな殺気を篭めた瞳で見据えているだけで。
一触即発。そんな中、アリシアの肩を、普段よりも少しだけ強く掴む。
「――アリシア、カメラを出せ」
「シスル! アンタまで、何を……」
シスルは、ゆるゆると首を振る。
写真を見た瞬間――それは、道から通行人が消え、黒服が自分たちを取り囲み始めていたことに気づくのと同時だった――、シスルは己のすべきことを定めた。まことに卑怯な話だ。卑怯な話だが、そうすると決めたからには、貫き通そうと誓う。
「アンタが私に望んだことは、アンタ自身を守ることだ。そのカメラを守ることじゃない」
「……っ!」
アリシアは、今度こそ完全に固まった。
「アンタの命を守って、後腐れなくこの件を終わらせるには、それしかない。それは、アンタだってわかってるだろ!」
アリシア・フェアフィールドは、決して馬鹿ではない。確かに後先考えずに駆け出してしまうことはあるが、極めて頭の回転が早い、ということは見ていればわかる。そもそも、救いようのない馬鹿であれば、とっくに塔に消されているはずだ。
ただ、彼女には譲れないものがある。その、譲れないものが、大きすぎるのだ。
だから、彼女は立ちすくむ。己が生きるためにすべきことと、己の手の中にある譲れないものの間で、揺れ動いているのがシスルにもわかった。だから、その背を押すように、もう一度その名を呼ぶ。
「アリシア!」
「わかってる、わかってるわよ!」
アリシアは、シスルに背を向けたまま、カメラに手をかけ……それを、黒服たちの足元に叩き付けた。カメラのレンズが割れ、中身が一部あらわになる。その様子を、黒服たちは表情一つ変えずに見据えていた。
「あたしは何も見ていない! 証拠も残ってない! それで満足でしょ!」
黒服は何も言わなかった。ただ、そのうちの一人――先ほど対峙した女が、壊れたカメラと、その破片を全て己の懐の中に納め、お互いに目配せをする。次の瞬間、黒服たちは町のあちこちに散っていった。
そして、取り残されたのはシスルとアリシアの二人だけ。
うな垂れ、震えるアリシアをミラーシェード越しに見据え、軽く唇を噛む。
「……アリシア」
己の決断が間違っていたとは思わない。謝罪の言葉を吐くつもりもない。けれど、この決断が、結果的にアリシアの心を傷つけたと思うといても立ってもいられなくて。思わず手を伸ばしかけた、その時だった。
「悔しい……」
ぽつり、と。言って、シスルを振り返るアリシア。その紫苑の双眸には、透明な涙が盛り上がっていた。
「悔しいよ……!」
アリシアは、顔を隠すこともなく、ぼろぼろと紫苑の瞳から大粒の涙を零しはじめる。流石に慌ててアリシアの肩を抱くが、アリシアはそんなシスルの様子に気づきもせずに、大声で泣き喚き続ける。通りに戻ってきた人々が、アリシアとシスルの様子を見て「痴話喧嘩か?」などと無責任なことを囁き合っているのが耳に入る。
「こんなとこで立ち止まってたら、アイツには届かないってのに……! 馬鹿みたい、馬鹿だよ、あたし……!」
アイツ、が誰のことなのか、もはや聞くまでもなかった。
シスルは、なおも盛大に泣き続けるアリシアから、空に向かって聳える塔に視線を移す。煌びやかなテレヴィジョンの光を振りまく白磁の塔。選ばれし者のみが住まうことを許される、人工の楽園。そこに、きっと、アリシアの言う「アイツ」がいるのだろう。
アリシアと同じ、紫苑の瞳をした男が。
誰の手も届かない場所から、酷薄な笑みを浮かべて大地を見下ろす男が。
「早く、アイツに、追いつかなきゃいけないのに……!」
――シスルは、アリシアの父親を知らない。
けれど、推測することはできる。その材料は、いくらでも転がっているのだから……。
その時、ぱんっ、といい音が響いて、シスルはぎょっとして視線を戻す。見れば、アリシアが己の頬を叩いていた。そして、先ほどまでのうろたえ方など嘘のように、きっぱりはっきりと言い切った。
「よし、すっきりした!」
ぱんぱん、と更に数回頬を叩いて、アリシアはシスルに視線をやる。紫苑の瞳の周りはすっかり赤くなってしまっていたけれど、もう、泣いてはいなかった。長い人差し指をびしりとシスルのミラーシェードにつきつけ、宣言する。
「シスル! 今日のこと、全部内緒だからね!」
「わかったよ」
この切り替えの早さには、呆れを通り越して笑ってしまった。シスルも物事を引きずらない方ではあるが、アリシアのそれは、一種の才能のようなものだ。
アリシアは、睨むようにシスルを見据え……やがて、肩を落として言った。
「……あと、ごめん。あたし、全然冷静じゃなかったね」
「いいってこと。それもこれも、仕事のうちだ」
シスルはアリシアの頭をくしゃくしゃ撫でる。アリシアはぷうと頬を膨らませていたが、すぐににっと笑ってシスルの腕に己の腕を絡めた。
「じゃ、最後まで仕事完遂してね!」
「結局、新聞社までは行くんだな」
「一応、報告はしとかないとね。あと、カメラ、新しいの調達しなきゃだもん。今度こそ、すぐにコピー取れるようにしとかないとだわー」
全く懲りてない様子のアリシアに、シスルはやれやれと肩を竦めるしかなかった。アリシアが、再び家に転がり込んでくるのも、そう遠くない話だろう……と、呆れながらも。
変わらない諦めの悪さに安堵したのも、また、事実だった。
* * *
「ま、そんなことがあったんですよ」
そんな、軽い言葉でちいさな物語を締める。ミセス・ラングレーはティーカップの縁を指でなぞりながら、灰色の瞳を細めて微笑んだ。
「シスルさんは、本当に、アリシアさんのことが大切なのね」
「そう、見えますかね」
改めてそう言われると、妙に気恥ずかしくて、頬をかく。別に、意識して大切にしているつもりは、ないのだけれど。
それでも、ミセス・ラングレーはにこにことして言った。
「見えるわ。ただの『お仕事』なら、それこそアリシアさんを連れて、新聞社まで逃げるだけでよかったはずだもの。あなたには、きっとそれができたはずよ。そうしなかったのは……アリシアさんを、アリシアさんの生きている世界そのものを、守りたかったからでしょう?」
「……はは、そう、大層なものでもありませんがね」
けれど、ミセス・ラングレーの言葉は、まさしくあの時シスルが考えていたことを言い当てていた。
仮にあの時、黒服たちから力ずくでアリシアを守ったとしても、今度はアリシアだけでなく、アリシアが所属する顧兎新聞社に圧力がかかることは目に見えていた。顧兎新聞社は外周の自治組織の後援を受けているため、塔も手を出しづらい相手ではあるが……アリシアが塔の法を犯したと言ってしまえば、潰しにかかるのはわけない。
だからこそ、こうするしかなかった。アリシアが、塔の脅威ではないというかたちを、黒服たちに見せなければならなかったのだ。
――こんな形で、大切な友人を、失いたくはなかったから。
「全く、らしくないとは思いますよ。アイツと付き合ってると、二度目の寿命も縮む一方ですし」
かつての名と姿を失い、記録上この世に存在しない人間であるシスルにとって、今の人生はまさしく「二度目」といえる。そんなシスルの言葉を聞いて、ミセス・ラングレーはくすくすと笑みを零す。
「それでも、ついつい助けちゃうのね」
「他人って気がしないんですよね。全然、似てもいないのに」
「ふふ、さながら、アリシアさんはかわいい妹さんかしら」
「いや、姦しい姉になりますね。実は、アリシアの方が三つ上なんですよ」
「あらまあ」
ミセス・ラングレーは口に手を当て、おっとりとした驚きを見せる。
「シスルさんの方が年上と思っていたわ」
「よく言われます。見た目が老けてますし、中身もこんなんですからね」
体の全てがつくりものである以上、見た目はいくらでも弄ることができる――それこそ、もとの形に似せて、年齢相応に見せることもできるはずだ――が、シスルにその気がない以上、誤った認識をされるのは仕方のないことであった。
「若いのに、随分と苦労されてるのね」
「客観的に見るとそうなのかな、って最近気づきましたよ」
シスルはおどけて、大げさに肩をすくめてみせる。ミセス・ラングレーも、それ以上のことを問いかけてくるわけでもなく、くすりと笑うだけ。
塔の庇護を受けることのない外周には、わけありの人間も多い。シスルはもちろんその一人であり、おそらくは、ミセス・ラングレーもまた、その一人に数えられるのであろう。
シスルはミセス・ラングレーの持つ背景を何一つ知らない。しかし、それでいいのだ。古本屋の客と主人。時には茶と茶菓子を前に、とりとめもない物語に花を咲かせる、年の離れた友人。心地よい時間を共有できる関係性、それが何よりも大切なものだったから。
――思考の片隅で、金色の尻尾が揺れる。
アリシア。どことなく懐かしい、紫苑の瞳を持つ女。彼女と過ごす時間は、今、この場所に流れるゆったりとした心地よさとは、全く趣が異なる。それどころか平穏をぶち壊す狂騒に満ちていて、しかし――それはそれで、ある意味ではシスルにとって大切な「日常」でもあった。
アリシアと、初めて出会った日のことを思い出す。道に迷って途方に暮れていた自分に手を差し伸べてくれた、金色の少女。その頃のシスルは今の姿ではなかったから、アリシアはきっと、覚えてもいないだろうけれど。
あの日握った手の温かさは、今もまだ覚えている。
覚えて、いるのだ。
久しぶりに昔のことを思い出したな、と妙な感慨に浸っていると、突然ミセス・ラングレーがぽんと手を叩いた。
「ねえシスルさん、まだクッキーもたくさん余っているし、アリシアさんも招待してよいかしら。アリシアさんのお話も聞いてみたくなっちゃったわ」
「ああ、いいですね、きっと喜びますよ。アイツ、甘いものには目がないですし」
確か、今日も休みが取れたと言っていたはずだ。シスルは携帯端末をポケットから取り出し、アリシアの連絡先を探そうとした、その時だった。
「たーすーけーてー!」
部屋の中にいても、はっきりと響き渡る高い女の声。その瞬間、シスルは「げ」と喉の底から嫌な声を上げてしまった。
ミセス・ラングレーも目を丸くして、窓の外を見て……なんとも派手な服を着た、明らかに堅気ではない男たちに追われている、ポニーテールの女の姿に気づいたようだった。
「あらあら、今日も大変そうねえ、アリシアさん」
「今度は何やらかしたんだ、アイツ! すみません、お茶会はまた次の機会に!」
反射的に椅子を蹴って立ち上がってしまったシスルを、ミセス・ラングレーは上品な微笑みで見上げる。その灰色の瞳の奥に、きらきらと輝くいたずらっぽさを覗かせて。
「ふふ、やっぱり、放っておけないのね」
「助けるかどうかは、別ですけどね!」
それでも、きっと助けてしまうんだろうなあ、と自分自身のお人好し加減に呆れながらも、ミセス・ラングレーのくすくす笑いを背に受けて、小さな扉を開け放った。
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