月曜日の狂騒 - Alicia Fairfield (3)

   *  *  *


 目の届く範囲に黒服の姿が見えないことを確かめ、シスルはアリシアを連れて家を出た。

 シスルの家と顧兎新聞社は外周の同じ地区に位置し、直線距離ではそう遠くはない。だが、黒服の視線を掻い潜って辿りつこうとなると、ルート取りを考えなければならない。

 周囲に意識を張り巡らせながら、アリシアの手を引いて駆ける。二人が足を踏み入れた電気街は、内周のきっちり区画整備と分類の行き届いた店並びとは異なり、極めて雑然としている。一体どこで使われているのかもわからない煤けた機械部品と、最新型の携帯端末がひびの入った窓の向こうに一緒になって転がっているの目の端に捉える。

 その時、アリシアが一瞬何かにつまずくように足を止めた。

「アリシア?」

「……ごめん、行こう」

 アリシアは軽く手を振って、逆にシスルの手を引く。

 そして、シスルはアリシアが見ていたものを知った。

 シスルが視線を向けていた建物とは逆側に位置する店。そこには、やはり時代遅れのブラウン管テレヴィジョンが詰まれていた。時代遅れではあるが、塔からの放送はきちんと受信しているらしく、塔の表面に踊っている画像が、ノイズ交じりに映し出されていた。

 そこに映し出されていたのは、白衣の男。白髪混じりの褪せた金髪を撫でつけた研究員が、満面の笑みを浮かべて物語っていた。

『……発見された、新たなるエネルギー――それは、一見すれば奇跡に見えるかもしれません。しかし、近い未来には、皆さんの手元にも行き渡り、生活の礎となるでしょう』

 塔の研究班により、旧時代の常識を覆す、新たなエネルギーが発見された。

 その発表は、この国に生きる誰もが知っている。それが具体的に「何」であるのか、どのような力を秘めているのか、それはいつも曖昧な言葉で飾り立てられ、結局何一つ民衆に伝えられてはいない。

 まるで、夢のような話だ。影も形も見えていないのだから、夢と断言しても差し支えはないだろう。

 だが、テレヴィジョンの研究員が紡ぐ言葉に嘘はない。それが嘘ではないことを、シスルは知っていた。あの男が語る言葉が、決して、真実の全てではないことも。

 研究員の姿の横に映された、彼の名前を確かめる。ミシェル・ロード。《鳥の塔》環境改善班主任。

『今こそ、旧時代からの負の遺産を捨て去り、この国を旧時代以上の楽園へと羽ばたかせる時なのです!』

 テレヴィジョン越しにこちらを見つめるミシェル・ロードの紫苑の瞳と、シスル自身の目が合ったような気がして、嫌な感覚が背筋に広がる。自分は、この目を、知っている。窓の向こうからこちらを見つめていた、花の色――。

「シスル!」

 アリシアの、どこか苛立ち混じりの声が響き、我に返る。

 確かに、こんなところで立ち止まっている場合ではなかった。積み上げられたテレヴィジョンに背を向けようとした時……首元を駆け抜けた感覚を信じ、アリシアの体を抱いて、横に跳んでいた。

 刹那、甲高い音が響き渡る。それが、テレヴィジョンとシスルの間を隔てていた硝子板を粉々に打ち砕いた音だと気づくまでに、もう一拍必要だった。

「……っ、派手にやってくれる!」

 煌き、刃となって降り注ぐ硝子からアリシアを庇いつつ、視線を走らせる。すると、店と店の間から、音もなく一つの影が現れる。それは、先ほどシスルの部屋を訪れた、背広の女だった。

 女は何も言わず、武器――投擲に適した細身の刃、シスルの知識が正しければ『苦無』とも言うべきもの――を引き抜く。深い、深い、吸い込まれそうな色をした青の瞳は、真っ直ぐにアリシアを見据えている。

 女とアリシアとの導線を断ち切るように間に割り込んだシスルだったが、どうにも解せないことがある。片手は外套の下に隠したナイフの柄に当てつつも、軽い口調で言う。

「物騒だな、お嬢さん。アリシアがアンタらにとってまずいことをした、ってのは察するが、人殺しの武器を向けることはないだろ」

 それでも、女は唇を引き結んだままだ。視線だけは、刺し貫く光を宿してシスルに向けてみせたけれど。シスルは口の端に意識して苦笑を浮かべ、しかし目だけは笑うことなく、ある一点を見据える。

「……アリシア、走れるか」

「うん。だいじょぶ」

 背後のアリシアが放った声は、存外しっかりしていた。流石に、毎度毎度同じような目に遭っているだけはある。懲りていないだけ、ともいうのかもしれないが。

 色々と、思うことはある。あるが、今はただ、己の役目を果たすのみ。

「全く、とんだ疫病神だ、よっ!」

 抜き放ったナイフを、そのままに背広の女に投げつける。女は突然のシスルの攻撃も、十分予測していたのだろう、一歩横にずれるだけでかわし、交差させた腕から刃を打ち出す。

 シスルは、その攻撃を、避けることもしなかった。

 アリシアの前に立ちはだかり、刃のことごとくを己の体そのもので受け止める。刃のいくつかは、防刃加工が施されているはずの外套に突き立つが、生身でないシスルの腕や脇腹を完全に穿つには至らない。

「……ちっ」

 舌打ちと共に、女が更なる刃を腰から引き抜く。

 だが、次の攻撃が放たれる前に、シスルはアリシアの手を取って、建物の間に身を滑らせていた。そのままアリシアの体を担ぎ上げ、正体もわからぬ黒ずんだ液体があちらこちらに溜まる道を、全力で駆け抜ける。

 鈍い痛みと、腕が痺れる感覚。先ほどの女の攻撃で、多少、内部の機構がいかれたかもしれない、と思いながらもひとまず無視。動くのであれば、今のところ問題はないはずだ。そして、今この瞬間問題がなければ、十分だった。

 シスルは己の身体構造を知らない。だが、それは一般的な人間が、骨と血管の配置を一つ一つ理解していないのと何も変わらない……そう、思っている。

 背広の女が追ってきていないことを確認して、アリシアを地面に下ろす。アリシアは安堵の息をつき、それから、シスルの腕から生えたままになっていた刃を見つけて悲鳴を上げた。

「ちょっと、それ、大丈夫?」

「あ? ああ、大したことない。多分な」

「多分……って」

 シスルは、腕から刃を引き抜き、傷口を確かめる。意外と深いところまで潜り込んでいたのか、と刃と傷とを見比べる。あの女、見かけは華奢だが、相当な力で刃を打ち込んできていたようだ。

 ――塔の誇る仕事人が、見かけどおりの実力だとは、シスルも思ってはいないが。

 とりあえず刃を外套の内ポケットに納め、アリシアに視線を戻す。アリシアは、ポケットの中に入れていたらしい小型のデジタルカメラを取り出し、壊れていないかを確かめているようだった。

 他に黒服の姿がないか、辺りを見渡して。誰もいないと断じたところで、シスルはぽつりと言う。

「で、だ。アリシア」

「何?」

「お前、何を見たんだ。今回の連中、まともじゃないぞ。あれは、本気でアンタを殺しにきてた」

 以前も、シスルはアリシアを匿ったことがある。あの時も、塔の代行者たちは血眼になってアリシアを追っていた。それでも……シスルが武器に手をかけるまでは、決して、丸腰のアリシアに対して武器を向けてくることはなかったのだ。

 だが、今回は違う。あの女は、シスルではなくアリシアに武器を向けていた。もし、シスルがもう一拍動くのが遅ければ、アリシアの胸に刃が突き刺さっていたに違いない。

 アリシアは、カメラを握った姿勢のまま、立ち尽くしていた。そこに、表情らしい表情はない。鮮やかに映える紫苑の瞳が、じっと手元のカメラを見つめているだけで。

 だが、しばしの沈黙の後、アリシアは桃色の唇を開いた。

「……知りたい?」

「私にも知る権利はあるんじゃないか? 何も知らないまま、アイツらとやり合いたくはないよ。場合によっちゃ、アンタが提示した報酬じゃ足らないかもしれないしな」

 アリシアの瞳が、微かに揺れた。その明確な意味を読み取ることはできなかった。ただ、どのような形であれ、不安なのだろう、ということだけはわかった。それでも、アリシアはその感情を瞳の奥に閉じ込めたまま、あくまで毅然とシスルに向かってカメラを突き出す。

「それもそうね。なら……これを見て」

 アリシアは、カメラの裏面のディスプレイに、撮った写真を表示させた。

 そこに映し出されたものは――。


   *  *  *


「……ここで語るわけにはいきませんがね」

「あら、残念」

「ミセス・ラングレーを危険にさらしたくはありませんから。私だって、いつ、背広のお嬢さんに脳味噌くり抜かれるのかと冷や冷やしてますよ」

 冗談交じりに言ってみるが、正直なところ、冗談とも言い切れないのが困ったところだった。シスルがそれを知っていたところで、アリシアのように「広める」意図がない以上、無害ではあるのだが……その意図がないことを証明することは、シスルにはできない。

 だから、今、シスルにできることは沈黙を守ることだけだ。

 沈黙を守りながらも……あの日、アリシアが見せてくれたものを、脳裏に思い浮かべる。

 カメラの中に閉じ込められていたのは、あの時自分たちを追いかけてきた背広の女と同じ格好の男女が数名。そして、彼らが囲い込む、一人の少女。

 少女が纏っていた服は、白い、病人が着るような簡素な服だった。しかし、少女の姿を見る限り、病に冒されていたり、怪我をしているようには見えない。そんな少女が、泣き喚き、自分を捕らえようとしている黒衣の男女から逃げ出そうとしている姿が克明に映し出されていた。

 そして、何よりも印象に残っているのは、むき出しになった少女の腕だった。シスルの目には、泥に汚れた肘の辺りに、小さく輝く赤い石が埋め込まれているように見えたのだ。

 その少女がどうなったのか、シスルは知らない。アリシアは、写真を見せただけで、何も言わなかったから。けれど――。

「……本当に、アリシアはいい勘をしてますよ。大概、身を滅ぼす類のものですけどね」

 ミセス・ラングレーは、シスルの放った言葉の意味がわからなかったのだろう、不思議そうに小首を傾げている。シスルは苦笑と共に「何でもありません」と呟いて、紅茶を一口含んだ。

 アリシアは、塔が隠しているものを追い求める。それはもう、偏執的なまでに。だが、ただそれだけであれば、きっと《鳥の塔》は悠々と構えているだけに違いない。たかが三流紙の記者一人に、それらの秘密を暴かれたところで、大した傷にもならないはずだから。

 結局、アリシアの不幸は、勘が鋭すぎる、という一点にある。もしくは、そこに運のよさ、という一点を追加してもよいかもしれない。

 アリシアが見つける綻びは、そのことごとくが塔にとっても致命的なもので。だからこそ、アリシアは常に塔と不毛な鬼ごっこを繰り広げることになる。

 逆に言えば――自分が塔の致命的な部分を掴んでいる、という手ごたえがあるからこそ、塔への執着を止めようとしない、ということでもある。

「まあ、アリシアが極めてまずいものを掴んだ、ってのは私にもわかりました。そのままにしておけば、確実に禍根を残すことも」

 それでも、アリシアに、譲れないものがあるように。

「ですから、私もどうすべきか迷ったのですよ……本当に、柄にもなく、ね」

 シスルにもまた、譲れないものはあるのだ。

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