火曜日の書窓 - Maria Lovelace (1)

 お気に入りの場所に行くには、ちょっとした装備が必要だ。

 まずは、頭部を覆う黒いニットの帽子。(これはウィッグでもいいのだが、なかなか整備が面倒なので、大概は帽子にしてしまう。)そして念のため瞳を隠す茶のカラーコンタクトと、視覚補正機能が搭載された、普段より小型のサングラス。それから、付け睫に付け眉毛。これだけ搭載すると、他人の世話にならずとも……つまり面倒な手順を踏むことなく、普通の人間の振りをすることが可能になる。

 鏡の前でそんな支度をして、次は作り付けのクローゼットに向かう。黒い引き戸を開けば、そこには部屋の中と同じくモノクロの世界が続いている。仕事着が黒一色であることも原因だが、そもそも彩度のある服は何を着ても違和感があるので、結局クローゼットは白から黒へのグラデーション(それも黒の方にだいぶ傾いている)に染まってしまう。

 今日は迷った挙句、適当に買った――正確にはアリシアに買わされた――灰色と白のボーダーになったセーターと、黒のジーンズを身につける。普段は変わり映えのしない黒い仕事着ばかり着ているシスルの、これが精一杯のお洒落だった。

 上からたった一着だけ持っているウォーム・グレイのコートを羽織り、郵便屋のアネモネから去年貰った黒の帆布鞄を肩にかけると、シスルは慣れ親しんだ部屋に束の間の別れを告げる。

 目指すは物語の宝庫──サマンサ記念図書館だ。


 塔が管理する中央図書館には、入館者と閲覧書籍の記録システムが付いているため、シスルのように込み入った事情がある者には利用しづらい。だが、私設の図書館ならそんな問題もないし、何より電子メディア化されないような古いフィクションもたくさん置いてある。蔵書量は中央には劣るが、私設図書館そのものの数は少なくないし、べつに研究をするわけでもないシスルの、多くはない空き時間を充てるには、それで十分だった。

 サマンサ記念図書館は、見た目には旧時代の素朴な学校のようで、赤い瓦屋根に板張りの造りをしている。元々、何かの施設を改修したのだとも聞く。ただ普通の建物と異なるのは、窓が少なく小さいうえ、かなり高いところにしかないという点だ。本の状態を保つためには、ひろびろと外光を採り入れるわけにはいかないのだと、以前に職員から聞いた。シスルは建物でも一番大きく開いた部分、入り口の硝子戸を引いて中に入る。

 顔見知りの受付嬢にサングラスを軽く下げて挨拶し、貸出を受けていた本を返却した。シスルは仕事柄、借りた本を確実に返却するのが難しいため、たいていは借りたその日に読みきって、返却だけ友人に頼む。今回は本当にたまたま、自分の手で返せる次第となったのだ。その辺はもう受付にも何となく通じているらしく、特に嫌な顔をされることもない。

「五冊返却ですね、承りました」

「どうも」

「期限遵守に、ご協力ありがとうございます」

 シスルは軽く口角を上げて応える。ここは個人コレクションの博物館のようなもので、来館者はいつもまばらだ。顔と風貌を記憶されるまで、そう長くはかからなかった。そもそも、電子メディア全盛のこの時代に、わざわざデッド・メディアを探しにやってくる人間自体、珍しいのだ。紙とインキの織り成すオブジェにとりつかれた、いわゆる物好きのための場所である。

 シスルは新着図書の棚を横目に見ながら、ゆったりと書見机に向かった。いつもの席に、空になった鞄を畳んで置く。そこで、おや、とシスルは首を傾げた。二つ隣りの席に、学生鞄が置かれていたのだ。

 鞄の刺繍を見れば、それが上級学校生のものだと分かる。上級学校からここまでは、決して近い距離ではないはずだ。何よりあそこなら、学校付属の図書館が立派にあるはずだった。なのに、なぜこんな辺鄙な私設図書館まで……。

 状況の因果関係にすぐ興味を持つのは、シスルの癖、それもほとんど悪癖だと自覚していた。いや、正確には因果関係が気になるのではない。そこからどんな世界を広げられるかに、興味をもち続けているのだ。シスルにとって日常の謎は、いつだって物語への入口だった。

 シスルが見るともなしに見ると、鞄の角にはL.M.のイニシアルが縫い取られていた。

(確か、これは女子用鞄の形だったな。ということは、わざわざこんなところまで足を伸ばす女学生がいるってことか)

 シスルは書架に向かいながら、頭のなかで名前を転がす。

(メアリ、ミレーヌ、モリー、ミモザ、ミラージュ、マルタ、マーガレット、マリエーヌ、マルグリット……)

 浮かぶのは物語のなかの少女たち。赤い絹張りの本を押し花の栞とともに抱えて、物語に浸る文学少女。

 シスルの頭のなかで彼女たちは生き生きと話し、花と戯れ、午後のティータイムを姉や妹、友人や家族と楽しんで、夜空の窓に恋を眺め、清潔なシーツの上で幸せな夢に包まれる。いつかドラマチックな恋をして、暖かな家庭を築く日を夢見る少女たち。たっぷりの愛情を受けた花が、やがてまた新たな花を芽吹かせるように、惜しみない愛情を受け継いでいく、そんな春の微睡みのような理想郷……

 頭のなかのお花畑に、思想の自由思想の自由、などと言い訳しながら、シスルは本棚の間を浮かれ気分で微笑み歩く。見た目には強面のシスルだが、趣味は読書、それもいまどき珍しいほど本に憑かれている。旧時代の名作はたいてい目を通しているし、見向きもされない傷んだ古書だって、シスルにとってはきらきら光る宝石だ。

 読書というこの数少ない趣味を「現実逃避」と言われると、どうしても違和感がある。確かにシスルの稼業は、綺麗な手でいられる仕事ではない。それでも、その反動として物語に走っているのか、と言われると、どうしても頷けなかった。シスルはもっとずっと、心の芯のあたりで物語を欲しているような気がしていた。この体になる前も、この体になったあとも。――世の中にはただ髪の毛がないというだけでハゲ呼ばわりをする不届き者もいるが、シスルは別にハゲたわけではないし、そんな年でもない。物語にちょっと寄り道して夢見る権利は、まだまだあるはずだ。

 誰に向かってか頭のなかで反論しながら、シスルは『旧時代名作文学』の棚を目指す。列をひょこりと覗いてみれば、そこには珍しく先客があった。高窓からの逆光と眼鏡の反射で顔はよく見えないが、線の細い女子学生だ。制服の襟に走る線が、彼女を上級学校の学生だと示している。

(……もしかして、この子か)

 シスルは先刻の鞄を思い出す。広くはない図書館だ、こんな風に出会ってもおかしくはない。

 生憎、このサングラスだと明度調節が細かくできないし、殺気の欠片もないこの場で、わざわざ相手の見た目を観察するというのも、レディに失礼だ。

 怖がらせるだろうか、とやや身構えたが、抱えた本の一冊をめくるのに没頭しているようで、他のものに見向きもしない。シスルはそっと棚と棚の間の通路に身を滑らせ、少女と並んで本との出会いを探し始めた。

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