夏暮れ
雲の僅かな影に逃げ込んだ地面さえも、じりじりと焼け付いていくような錯覚。飲んだばかりの水はあっという間に身体を巡り蒸発して、僕という存在が夏の空気に溶け込んでゆく。
降り注ぐ苛烈な日差しは揺らぐ陽炎となって、道路の隅で轢かれた蛙の亡骸からも水分を奪い、熱風から逃げた猫が路地裏の影からこちらを窺っている。
季節は八月。太陽が隆盛を極め、蝉は僅かな命を燃やし、僕は数刻待ち続け未だこの場にいない人のことを考えた。初めは涼しい場所で待っていたのだけれど、待ち焦がれて飛び出してみればそこには身を焦がすほどの暑さだけが、変わらず僕を待ち構えていた。そんな僕を嘲笑うかのように、路地裏の猫が大きく鳴いた。
影を探す。まだ高い日から逃げられる日陰はそう多くない。
「待ち人来たらず」――いつの日か引いた御神籤に、そんなことが書いてあった。どうせ関係のないことだ。そう思い仕舞い込んだまま忘れ去られたはずの言葉が、どうして今になって思い出されるのだろう。
そもそも初めから来ることなど期待していなかった。けれどそれは嘘だ。今になっても拭いきれないのはきっと、意識の片隅に捨てきれない後悔と未練があったに違いない。けれどそれを言葉にして吐き出すのがとても恥ずかしいことのように思えて、僕は内に秘めたまま口を噤んだ。
目を閉じる。目蓋は強い日差しを遮るにはあまりに薄い。無数に走る毛細血管を流れる血が、閉じた視界を赤く明るく染める。思い描いたはずの景色はいつの間にか薄らぎ揺らいで遠のいた。
何を思い、どんな景色を描いたのか。その世界はどんな色で、僕はどこにいて、そして誰と一緒にいたのか。そんな簡単なことさえも、思い出せなくなる。まるで逃げ水のように、追いかけても追いつくことができない。想起しようとするたびに、自ら記憶を遠ざけてしまうだけだ。
電線の交差する空を仰ぎ見ると、いつの間にかどんよりとした雲が低空を覆っていた。忍び寄るように近づいてきた雨雲はたちまち広がり、僕は浮かんでいるはずの雲から重さを感じ取る。その実体を伴わないはずの重みが、心を重く深くへと沈めていく。溺れた心は息もできず、けれど押さえつけられ浮上することもできない。
数秒前の閃光が、今になってその音を轟かせた。大気は振動し、地鳴りのような音はびりびりと胸の奥に響く。
雨に濡れるのを避け始めたのはいつのころからだっただろう。ある日突然、というわけではない。変化を意識の片隅に押し込めて、それでも変化を止めることはできなかった。水溜まりを鬱陶しく思うのも、飛び越えられなかった過去があるからだ。
湿気を吸ってうねった髪の毛を指に巻き付けながら、そんなことを考える。迷いを持って伸びた髪が、まるで自分のように思えた。
抱えきれないほどに雨を抱いた雲が、ついに堰を切って大きな雨粒を落とし始めた。世界が水底に沈み込んでしまった、そんな気分にすらさせる激しい雨が、蝉の鳴き声と、雨を喜び祝福するような蛙の鳴き声に混ざり合って耳に残る。
水滴は地に落ちあっという間に水溜まりとなる。すぐに水溜まりは広がり繋がって、道を流れる川のようになった。
僕は雨宿りする気にもなれず、ただ雨に打たれながら何かを考え、何も考えていないようでもあった。まとわりつく少しぬるい雨が、ぞわりと心をくすぐる。
自意識は外から見て初めて成り立つ。触ったものから同じ力を受けるから、物体がそこにあることを認知する。自分が発する声が聞こえるからこそ、なにを話しているかが分かる。だけど、見返りを求めない感情は、まだまだ足りないのだと錯覚してどんどん過剰になってゆく。
好きになってもらいたいから。そんな理由で好きになったわけじゃないはずなのに。一方的だったはずの感情はいつの間にか、同じだけの見返りを求めて制御ができなくなる。衝動はすぐに理性を得て打算へと変わるんだ。
未来なんて想像できなければいいのに、懲りずに幾度となく手に入らない空想を思い描き、届かない現実を見て絶望する。
雨の匂い。水の匂い。草木の匂い。つかの間の非日常。
日差しの熱と、雨を冷やす風が混ざり合って、とても奇妙な感覚に陥る。
激しい雨はすぐに止んだ。それはさながら激情のように思えた。
見上げれば厚い雲は切れ間を広げ、その隙間から割り込む日差しを受けて、大気中に漂う水分がきらきらと光る。
夢を見るのは忘却の助け。夢であの人に会えるのはとても嬉しくて、そして寂しい。それは理性が忘れることを望んでいるからだ。夏の逃げ水を追いかける行為自体が水を遠退けるように、夢は記憶を彼方へと運び去ってゆく。
今は過ぎ、明日は今日を経て昨日になる。
やがて記憶となり、夕焼けのように色褪せ、追憶を経て忘却へと至る。
今日は何を覚え、何を忘れたのだろう。心掻き乱す出来事の波紋も、いつか減衰し穏やかな水面へと戻る。
まだ見ぬ明日を思い出すために、僕は今日も忘却の夢を見る。
いずれは忘れたこと、その事実さえも忘れるのだろう。
その世界はどんな色で、僕はどこにいて、そして誰と一緒にいるのだろう。
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