幕間 思い草 

 

 綾ちゃんと初めて会った時から、ちょっと幼そうな表情の作り方とか、可愛いなーと思ってたのは、確か。だけど取り立てて美人でもないし、はっきりいって冗談通じなさそうというか。遊びじゃ済まなそうというか。

 迂闊に手を出していいタイプじゃないのはわかりきってたから、全くそんなつもりはなかったのに。

 どうも彼女は、見ていてつい手助けしたくなる。バイトの初日からマスターはいつも通りまるで気を使わないし、聞けばいいのにおろおろと後ろをついてまわるばかりで、見るに見かねて声をかけた。


「悪い、ちょっとこれ手伝ってくれる?」

「は、はいっ!」


 あからさまにほっとしたような表情は、若干涙目だった。

 泣くくらいなら聞ききゃあいいのに、どんくさい。なんつって、顔には出さないけど。仕事ができるタイプじゃねーなー。将来この子大丈夫か。

 まあ、俺には関係ない。


「わかんないこととか、何したらいいか、とか、ちゃんと口に出して聞けばいいよ。男ばっかで聞きづらいかもしれないけど」


 心中は隠してできるだけ優しく笑うと、「ありがとうございます」と言った彼女の瞳がまたじわりと潤んだ。

 いやいや。働くなら当たり前のことだから。こりゃ使い物にならんかな。

 そう思ったけど、彼女は案外、言われたことは素直になんでも吸収するから覚えるのは早かった。

 彼女の見方が変わるまでほんの数日あれば十分。どんくさく見えるのは、言葉を発するきっかけに躊躇する少し臆病なところがあるからで。

 店の雰囲気に慣れてくれば、徐々に自分からもちゃんと聞けるようになった。

 

 彼女が当初持っていた臆病なところは、受験の失敗などで引きこもっていたというのが一因であったらしく、店でブーケづくりを任せられるようになってからというもの少しずつ自信を取り戻しているのがわかった。

 そうすると、本来の彼女が少しずつ顔を出す。

 彼女はとても、感性が豊かというか……感受性が高い。

 ころころと表情が変わって可愛らしい。仕事中だというのについ目で追ってしまう。彼女が幼馴染に気持ちを寄せているのはすぐにわかった。

 上手くいけば幸せそうに笑うんだろうなと思うと、心から彼女の初恋を応援したいと思えていたけど。

 俺が変にけしかけたせいで、見られたのは、笑顔ではなく泣き顔だった。


 別に俺が泣かせた訳でもないのに、罪悪感のようなものがまとわりつく。

 大体、あんな卑怯な男だとわかっていたら応援したりしなかった。幼馴染みだから、告白だとは思わなかったとか?

 んなわけない。どうであろうと、バレンタインに女に誘われたならちゃんと二人で会ってやるべきだ。

 あんな遣り方で牽制した男に腸が煮えくり返って仕方なかった。わざと見せ付けるような二人の空気に黙って引き下がった綾ちゃんが、いじらしいやらもどかしいやら。

 あんな奴と上手くいかなくて良かったけどさ。一発くらい殴ってやれば良かったんだ。

 それからというもの、彼女が泣いていないか気になって、楽しそうにホールを動き回る姿を見るとほっとして。

 客と仲良くなって感情的になる彼女が心配にもなり、客の彼氏に誘われてる姿を見てはハラハラして、こんなに俺が心配して振り回されてるっていうのに、だ。


「悠くんは、あの人みたいに浮気性じゃないですもん」


 かっちーん。

 って。初めて綾ちゃんに苛ついちゃった。


 浮気性かどうかは知らないけどさ、本性見抜けてないよな。あんな想いさせられたのに未だに慕ってたりするわけ?


「幼馴染ってずるいよな。小さい頃から一緒にいるってだけで妙な信頼関係がある」

「だって、悠くんはほんとに」

「違うって言える? 幼馴染としてしか接してないのに」

「そっ……」


 言ってしまってから、はっと我に返る。目の前には、明らかに傷ついて表情を固めた綾ちゃんの顔。今にも泣きだしそうに見えて、激しい罪悪感が押し寄せた。

 何やってんだ、傷つけたあの「悠くん」とやらに腹を立ててたはずなのに、俺が傷つけてどうするんだ。


「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」

「いいえ、本当のことだし」

「余計なこと言った、ごめん」


 慌てて謝って頭を下げて、彼女は少し頬を引き攣らせたままだったけれど。


「大丈夫ですよ、ほんとのことだし」

「ごめんって」


 じきにほんとに笑顔になって、柔らかく首を振る。

 今傷つけたのは俺なのに、なんだか。そんな表情を見ていたら、何故だかもう

たまらなくなって。


「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」


 気付いたら、そんなことを口にしていた。


「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」


思案顔で俯いたままの彼女に、そっと近づく。


「自分でも、よくわからないですけど。

 悠くんの顔を見ても、もう割とへっちゃらだし」


 笑ってそう言った彼女に落胆したのは、付けいる隙を自分が探しているからだと気付いた。いつの間にか詰められていた距離に、彼女が驚いて瞠目する。固まってただ瞬きをするしかない姿が、可愛らしくて仕方なくて。


「……だったら、いいけど」


 心配する素振りをしながら、彼女に触れる口実ばかりを探していた。例えば泣いてくれたなら、抱きしめることができたのに。


「静さんに感情移入しすぎて

 失恋の傷も癒えてないだろうにって思ったら……心配で」


 心配だけど。

 今度こそ傷ついたら、俺が慰める理由になるかな。

 そんな風にずるいことばかり考えながら、半ば無意識で手を伸ばす。


 怯えた表情でぎゅっと目をつむった彼女を目の前に、ギリギリで我に返った。


 まるで熱に浮かされるみたいな、ゆらゆらと纏わりつくような空気は別に、俺がわざと作ったわけじゃなかったんだ。

 ただ、綾ちゃんがそう思ってくれたから、それに乗っかって誤魔化しただけ。そのせいで、綾ちゃんの中で俺まで警戒対象に入っちゃったみたいだけど。


 あー、あぶねーあぶねー。

 綾ちゃんはダメだって。

 可愛いけどさ。真面目すぎて冗談で済まなくなるタイプだって、最初にそう思ったはずだろ。


 そう思ったはずだ。筈なんだよ、それなのに。



「だめだぁ、俺。この年になって初恋かもって思うくらい浮かれてんだけど」

「は? キモ。頭大丈夫?」


 女友達にそう言ったら、真剣に心配された。いや、不気味なものを見るような眼だったかもしれない。

 ここは近所の居酒屋の、カウンターからはちょっと離れたテーブル。大将が面白いからカウンター辺りの方がいつも人気がある。


「キモいは酷くない? 愛ちゃん」

「だってキモイもん。来るもの拒まず去る者追わずで好き放題のあんたが今更何言ってんの」


 鳥肌たっちゃった。とか言いながら、俺から少し距離を取るように身体を傾げて二の腕を擦る。

 憎まれ口叩くのはいつものことだけど、この子はもしかしたら俺のこと好きなのかも、と過去に思ったことがあるのを撤回したくなった。

 どうやら気のせいだったらしい。

 愛ちゃんは女友達の中の一人で、家が近いこともあってか、割と頻繁に会う。さっぱりした性格が女特有のねっとり感がなくて、結構好みではあるんだけど。

 人を好きになる、ということと、好みとは案外直結しないらしい。

 愛ちゃんが景気よくビールジョッキを呷り、ひと息に空にしてからテーブルに置く。


「おかわり頼もうか?」

「いらない。それよりもう、行こうよ」

「え、もう帰んの?」


 そっちから呼び出したくせに、まだ店に入って30分ほどしか経ってない。だけど、愛ちゃんの言う『行こうよ』が決して帰るという意味ではないことは、ほんとはわかってる。だけどさ。


「そうじゃなくって」

「だからさ。もう、そういうのは行かないってさっき言わなかった?」


 愛ちゃんから連絡もらった時に、ちゃんと前置きしといたはずなんだけど。そんな決意はすぐに揺らぐはずだと思われているらしい。

 愛ちゃんの中で俺はきっと風船くらい軽いんだろな。まあ、否定しない。今までそうだったし。


「何ソレ。別にまだ付き合ってもいないんだし、スタイル変えることないじゃん。ばかばかし」

「いや、そうかもしんないけどさ。禊っていうの?」


 なんとかどうにか綾ちゃんに近づきたいと思う。だけど、あの子見てると今までの自分が情けなくなる。

 綾ちゃんは、なんにでも一生懸命だ。大学受験に失敗して、引きこもってしまった、と恥ずかしそうに話していたけれど。同じように俺も失敗したけど、別にショックを受けるでもなく家庭環境も手伝って流されるように製菓の専門学校に入学した。自分の意思だったかというと、よくわからない。

 

 俺みたいにになんとなく生きていくよりも、彼女みたいに逐一額面通りに受け取って、逐一ショックを受けて悩む方がずっとしんどいに決まってる。そんな綾ちゃんを見てると、俺もちょっとは、心を入れ替えるべきかな、と思っちゃったんだよ。


「だから、まずは色々と整理整頓しようかと思って」

「……あんたそれ。人を小馬鹿にしてるって気付いてる?」


 さっきまではちょっと不機嫌な程度だった愛ちゃんが、急に怖い顔で睨んでくる。別に馬鹿にしてるつもりはないんだけど。


「なんで? なんも変わらないまま綾ちゃんに言い寄る方が馬鹿にしてる気がしねえ?」


 本気でわからなくてそう首を傾げると、愛ちゃんはますます怖い顔で溜息をついた。


「……それが馬鹿にしてるっての。わかんないなら一生そのままでいれば」


 そう言って、ホテルに向かうことは諦めたのかバッグから煙草を取り出して火をつけた。女向けのメンソールの煙草を、細い指に挟んで唇の隙間から煙を吐き出す。しっくりくるその姿を見ながら、テーブルの端にある灰皿を差し出した。


「驚かないんだ。私アンタの前で吸ったことなかったでしょ」

「知ってたよ」

「えっ、なんで?」

「匂い」


 正直にそう言うと、「げ」と嫌そうに顔を顰め、肩に鼻を寄せて匂いを嗅ぐ仕草を見せる。身体からっていうより、キスしたりするとやっぱりわかるんだよな。俺が吸わないから。


「俺が煙草苦手だから、気を使ってくれてたんでしょ。知ってるよ」


 愛ちゃんは少し目を見開くと、すぐにまた顔を顰めて目を逸らす。だけどその頬はちょっと赤い。


「やっぱアンタ嫌い」

「ひでー」

「酷いのはどっちよ。まー……好きな女が出来たらそんなもんなのかもね」


「だから、どういう意味なんだって。教えてよ」

「誰が言うか、馬鹿。死ね」


 そう言って、わざと俺の顔に煙草の煙を吹きかけると。


「こうやって他の女とも話してくつもりなんでしょ。途中で死なないといいね」


 にっ、と愛ちゃんが口の端を上げて笑った。

 その心配はないかな。多分一番怖いと思ってた愛ちゃんと無傷で終われたから。結局愛ちゃんの言葉の意味を、俺はなんとなくでしか理解しないままだった。

 そう、なんとなく。ようは、好きな女が出来たからって他の関係を断ち切ろうとするのが酷いってことだろ。

 でもさ。それは仕方ないことなんじゃないの?

 それまでのいい加減な女関係を断ち切らないまま綾ちゃんに言い寄るのは失礼だと思ったし。綾ちゃんと上手くいってから、なんてのは、他の女の子達に失礼な話だろ?

 間違ってない。この時の俺はこれが誠実な行動なんだと信じて疑わなかった。


 縁なんてものは細い糸のようなもので、鋏を入れようとするのは簡単だ。だけど、一方的に鋏を入れる行為が誠実な筈はない。

 それを教えられて情けなくも恥ずかしい思いをするのは、もう少し先のことだ。

 この時はただ、さっさとけりをつけたい、そればかりだった。そうでなければ、簡単に触れてはいけないような、そんな気がして。

 毎日目の前にいる綾ちゃんのことで頭が一杯だった。


 見つめるほどに気づいたのは、綾ちゃんの視線の先だ。困った時、褒めて欲しい時、相談したい時、失敗した時。

 必ずそこにマスターがいる。綾ちゃんがマスターを慕ってることには気づいていたけど、それは多分上司というか自分を雇ってくれた人に向ける感謝だとか尊敬の類だとそう思うようにしていた。

 だってそうだろ。どう考えたって恋愛初心者の綾ちゃんに、マスターって。一回り以上も年上で、過去に婚約歴まである男選ばなくたってさ。

 マスターも、俺が綾ちゃんに言い寄っても別に気にする素振りも見せなかったけれど。

 俺が漸く、綾ちゃんを向日葵畑に誘うところまでこじつけたっていうのに。


「向日葵。梅雨が長引いたせいで開花が遅れているそうですよ」


 まるで、戸惑う綾ちゃんを助けるような発言をした。マスターが何を考えてるのかさっぱり読めね。

 それは俺が綾ちゃん絡みで意識しすぎて、考えすぎてるだけなんだろうか。暫くの間、返事を保留されたままの状態で、俺としてはすごく面白くないんだけど、まあそれで諦める気もないから。

 返事をしてない後ろめたさからか、少し遠慮がちな綾ちゃんの態度が可哀想になって、何もなかった顔で接していたらやがて安心して元の空気に戻っていった。


 今はそれでいいけどね。

 ちゃんと向日葵が見頃になったらもう一回誘わせてもらうし。


「これ、片山さんのですか?」


 店の外回りの掃き掃除をしていた綾ちゃんが戻ってきて、俺に手の中の物を差し出した。厨房の裏口付近に、落ちていたらしい、それ。

 銀色の円柱の形をした、携帯灰皿。


「携帯灰皿って、こんなお洒落なんですね。知らなかった」


 言いながら、返事も聞かずに俺に差し出した。


「俺のじゃないよ、それ」

「えっ? そうなんですか?」

「うん、俺吸わないし」


 ボールに入ったバターとマスタードをホイッパーでかき混ぜながら答えると、綾ちゃんは手を引っ込めて手のひらで転がしながらそれを見つめる。


「じゃあ、通りすがりの人の落とし物かな? お店の裏口だからてっきり……」

「いやいや。俺じゃないってだけで他に聞く人いるでしょ」

「えっ?」


 こちらを見上げるきょとんとした表情が、ちょっとリスみたいで可愛い。くそ、何やっても可愛いけど。

 煙草イコール俺に繋がったくせに、なんであの人には繋がらないんだ。


「綾ちゃんじゃないんなら」

「私じゃないですよ!」

「じゃあ、マスターしかいないでしょ」


 表情が、くるくる変わるのは本当に面白い。その視線の先に、なんで俺じゃなくてあの不愛想なマスターしかいないんだ。

 綾ちゃんが、「嘘っ」と驚いた声を上げ目を見開いた。


「マスター、煙草吸うんですか? 全然イメージじゃなかった……すごく真面目そうだし」

「へー……綾ちゃんの中では煙草=不真面目=俺なんだ」

「えっ? あ、いえ。そういう意味じゃ……」


 しまった、と思いっきり顔に出して慌てて取り繕うけど、もう遅い。思いっきり拗ねたぞ、俺は。


「マスター、吸うよ。綾ちゃんも帰った後、ラストに良く外で吸ってる」

「そうなんですか。でも、想像すると似合いそうです。『大人の男の人』って感じで……」

「大人だよ、様になってて男の俺から見てもカッコイイ」

「へえ……」

「隣に立つのは、やっぱカッコイイ大人の女が似合うよな」


 そうだよ、向こうはずーっとオトナなの。

 綾ちゃんからは、ちょっと遠いんじゃない?


「そー、ですね」


 へらりといつもと同じ笑顔に見えても明らかに元気のない、風船から空気が抜けて萎んでいくような様子を視界の端に捕らえながら。


「落ち着いた、大人の女の人が似合いそうですよね」

「落ち着いた、っていうか。気の強そうなキャリアウーマンって感じだったな」


 俺の口は、止まらない。別に傷付けたい訳じゃないのに……ほんと、カッコ悪い。


「キャリアウーマン?」

「そう、元婚約者。オープン当初はよく店に来てたよ」

「え」

「この店、ほんとは彼女と二人でやるつもりだったらしいから」


 気付いたら、綾ちゃんは泣きそうなのを通り越して、呆然と口を半開きにしていた。


「婚約、されてたんですか」

「あれ……知らなかったっけ?」


 別にこのセリフは惚けたわけじゃない。本当に、知ってるもんだと思い込んでいた。マスターも秘密にしてるわけじゃないし、オープンしたばかりの頃は本当に毎日来てたから当時のバイトの子もみんな知ってた。

 だけど考えてみれば、綾ちゃんがこの店に来てからこの話題になるようなことはまずなかったし、マスターもわざわざ話したりはしないだろう。

 知らなくて当然だった。


「全然知りませんでした……じゃ、このお店、ご結婚されてご夫婦でされる予定だった、ってことですか」

「あー……多分。なんで破談になったのかまでは俺も知らないけど」


 途端、バツが悪くなって語尾が尻すぼみになる。わざわざ言わなくてもいいことを言ってしまった気がして、綾ちゃんの表情を伺うけれど。


「そうなんですかぁ」


 手のひらにある携帯灰皿を眺めながら呟いた綾ちゃんの感情は、よくわからなかった。




 今日は夕方からの客も少なく、マスターの一声でいつもよりも少し早い閉店となる。綾ちゃんはホールの清掃を終えてとっくに帰ってしまって、俺は明日の仕込みに全く手を付けていなかったから結局いつもと同じ時刻。

 厨房のごみ袋をまとめて裏口から外に出ると、深夜間近だが、街灯や窓の明かりでこの辺りは意外に明るい。雲もなく天気の良い黒い空に、白い月がぽっかり浮かぶ。室外機付近から湿気と熱の籠った余り心地よいとは言えない風が吹いて、煙草の匂いが鼻を掠めた。


「お疲れさまです」

「……っす」


 誰に対しての後ろめたさか、まっすぐマスターの目を見れずにごみ袋に目を落としたまま、鉄の格子のついたボックス型のゴミ置き場に放り込んだ。それでも気になってマスターの手元を見ると、昼間綾ちゃんに見せられた銀色の携帯灰皿がそこにある。


「……それ、やっぱマスターのだったんすね」

「ええ、今朝落としていたみたいで」

「意外だったらしいね。綾ちゃん驚いてた」

「隠してるわけでもないんですけどね。仕事中はラストにしか吸わないので」


 イメージを壊してしまったでしょうか、と言う割には、別に動じた様子もなく指に挟んだ煙草を口に運んだ。


「……綾ちゃん、何か言ってた?」


 煙草よりも何よりも、俺が漏らした余計なことが彼女にどういう影響をもたらしただろうか。それが気になって、つい尋ねるが。


「何か、とは?」

「いや……例えば。ショックだった、とか」

「……私が煙草を吸ってなぜ綾さんがショックを受けるんですか」


 訝し気に眉を寄せられ、真向から聞けない俺は。


「……そりゃそうなんだけどさ。綾ちゃんマスターを神聖視してっから」

「それは……光栄ですけどね」


 結局肝心なところは誤魔化したまま、彼女の様子はわからずじまい。

 マスターが、ふ、と口角を上げた唇の端から紫煙が白く上る。そのまま細く長く煙を吐き出しながら、煙を目で追い上向く横顔。それを見ていて不意に、思い出した。


 愛ちゃんと飲んだ日の帰り道、彼女が歩きながら煙草に火をつけたので、行儀が悪いと窘めたらバツの悪そうな顔をして道の端に寄った。


『そんな嫌そうな顔しないでよ』

『男で煙草吸わない人ってさ、まるで愛煙家を親の仇みたいな目で見るのよね』

『それこそ偏見でしょ』


 別に、他人が吸う分には俺はなんとも思わない。だけど、煙草のイメージアップを計ったのか愛ちゃんが煙草にも花言葉があるのだと胡散臭いことを言い始めた。


『ほんとだってば! 煙草って別名思い草って言ってね』

『へえへえ』


 むっと唇を尖らせていた愛ちゃんが、ふと真面目な顔をした。


『あなたが居れば寂しくない』


 へえ、と相槌を打ったものの、それ以上言葉もなく。視線を絡ませたまままるで時間を止められたような錯覚。

 消すつもりのないらしい煙草の先から白く細い煙が上り、風に揺れて散らばった。


『後はねえ、秘密の恋、孤独な愛、とか。

 結構色気のある花言葉だと思わない?』


 にっ、と再び笑った愛ちゃんはいつもの愛ちゃんだった。


『確かに。愛ちゃんには似合わないよね』

『何おぅ!』


 結構本気の平手が飛んできて危うく顔面に食らうとこだった。今思い出しても、愛ちゃんはもうちょい明るいイメージで、やっぱりその花言葉は似合わない。

 もっと儚げな女か影のありそうな男とか。

 例えばこの、目の前の眼鏡堅物とか。

 確か、オープンした頃はマスターが愛煙家であることを知らなかった。多分ひと月ほどした頃だ。婚約者が店を訪れることはなくなり、裏口で煙草を燻らす姿を見るようになった。


『煙草って別名思い草って言ってね』


 そんな風に聞けば、尚更その姿が意味深に見えてくる。


「……何か?」

「別に」


 視線を感じたマスターに問いかけられて、咄嗟に俯いてごみ淹れの蓋を締め直す。車のタイヤが道路との僅かな段差を超える音がして、そちらを向くと乗用車が一台駐車場に入ってくるのが見えた。

 もう外観の灯りは消してあるから、閉店しているのはわかるはずだ。方向転換でもして道路に戻るだろうと思っていたら、俺の(正確には親父の店の)白いバンの横の駐車した。

 店の正面ではなく側道に面した僅か数台が停められる程度のその駐車場は、裏口からでも良く見える。


「あれ……あの車」


 紺のワーゲン。見たことある、と思ったもののすぐには思い出せなかったが。運転席から降りた女の立ち姿で、すぐに気付いた。


「……ユキ?」


 すぐ隣で、訝し気な低い声がする。ヒールが砂利を踏む音が近づいて、裏口に設置された外灯の下で漸く顔をはっきりと確認ができた。


「お久しぶり、陵」


 マスターを『陵』と呼ぶ。彼女が店に訪れたのは、オープン当初以来だ。スーツがよく似合う、落ち着いた雰囲気の女。勝気そうな目は相変わらずだった。


「片山くんも。まだここで頑張ってくれてたんだ」

「ご無沙汰してます。相変わらずこき使われてますよ」


 二言三言、俺は言葉を交して彼女はすぐにマスターに近づく。二人は暫く無言で見つめ合った後。マスターが手にあった煙草を携帯灰皿に押し込んだ。


「信也くん。後片付けは私がやっておきますから、今日はもう上がって貰って良いですよ」

「……っす。お疲れさまです」


 片づけなんて全部終わってるっつーの。つまりあれだ。早く帰れって意味だ。

 おいおいおい。

 別れた女とどうする気だよ。マスターも案外隅に置けないよな。なんつって、手荷物を取りに戻って、また裏口から出るとすれ違いに中に入っていく二人。その姿に、なんとも胃が重くなった。その重みの正体が、わからない。

 エンジンをかけてハンドルに両腕を預けて溜息をつく。エアコンの風が車内の生温い空気をかき混ぜる間、待つ必要もないのに動けずにいた。

 今更、ユキさんがマスターに会いに来た理由はわからないが。あの頃、店でよく見た二人は仲が良かったし、別れたらしいと知った時もなんとなくだけど、何か事情があったんだろうなと思い詳しくは聞かなかった。

 互いに嫌いになって別れたわけではなさそうな、そんな気がしていたから。俺から見れば元鞘の可能性も十分あるわけで、だったらそれで万々歳のはずだ。

 綾ちゃんもいつまでもマスターを見つめるわけにもいかなくなって、ショックを受けた彼女を俺が優しく慰めればそれでいい。


「……はあ」

 

 腹の重みを追い出したくて深々と溜息をつくと、サイドブレーキを外してアクセルを踏んだ。

 脳裏に浮かぶ綾ちゃんの哀しそうな顔が、俺の胃を重くさせている。

 わかっているけど、わからない。

 俺にとったらラッキーなはずだろ。

 さっさと失恋してしまえと、そんな風に心の底から思っているのに泣き顔は見たくない。


「……難儀だな」


 それは自分に向けてなのか綾ちゃんになのか定かではない呟き。複雑で見当違いな苛立ちがマスターに向かって舌打ちとなり、俺はうちまでの僅かな距離で、いつもよりカーステの音量を上げた。



『思い草』


End

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