一途な向日葵 前編2

「あ、あの、人が見てるから」

「わかってるよだからなんもしねーけどさ」


 ……なんか、口調が。

 急に荒くなった、気が……。


 私そんなに怒らせちゃったのかな、とおろおろと片山さんを見上げる。その後ろを、何事かと私達の方をチラ見しながら何人かが通りすぎて行った。相変わらず片手は繋がられたままで、片山さんの親指がするすると手のひらを掻く。

 不機嫌に眉根を寄せたまま、片山さんは少し目線を横に逃がして何かに迷ってるみたいだった。


「……片山さん?」

「綾ちゃんがマスターを信頼してるのは、傍から見ててもよーくわかるんだけどね?」

「は、はい」


 何か言葉が続くのかと思ったら、少し無言の間があった。


「あ、あの?」

「……ごめん。やっぱいいや」

「えっ? 何ですか気になりますよ!」

「いい。……意識されたら腹立つし」

「えぇぇ……なんなんですかもう」


 はぐらかされて、それで話は終わったのかと思うのに、まだ距離は縮まったままだった。建物の固い壁に背中を預けたまま、背の高い片山さんを下から見上げていると、困っているのは私のはずなのに、なんだか私が困らせているような気もしてきて申し訳なくなってくる。

 だって、片山さん、まだ目を逸らしたままだし。

 相変わらず、不機嫌そうに。


「意識するのはこっち。もうストレートに言うけど、俺は綾ちゃんとデートがしたい」


 直球が、来ました。


「え……っと」


 壁と片山さんに挟まれて、片手は繋がれたままで、逃げ場所がどこにもない。顔に集まる熱を感じながら、俯いて視線を逃がしたのは今度は私の方だった。空いた手が手持無沙汰に忙しなく、横髪を耳にかけて肩にかかった鞄の柄を握る。


「嫌?」

「嫌、っていうか。あの」


 ふざけてるのか真剣なのか、いつも片山さんはころころと雰囲気を変えるから真に受けていいのかわからない。ぎゅっと握ったままの鞄の柄を、何度も肩にかけ直した。手を握られたままの片手が、汗ばんできているのを感じて恥ずかしい。


「……綾ちゃんから見て、やっぱり俺は軽そうに見えるんだ? だから嫌なの?」


 そう言った声が少し寂しそうに聞こえて、慌てて視線を戻した。


「違います、そうじゃなくってっ!」

「じゃあいいよね、行こう?」


 約束ね、と。私の手を持ち上げて口許に寄せる。


「ひゃっ……」


 指先に、あたたかくて柔らかいものが触れて私は慌てて手を引いた。思いのほか簡単に手は抜けた。


「あ、あのっ」

「うん?」


 手は離れたけど、すぐ目の前に片山さんの顔があるこの状況には変わりない。ぐるぐると頭が混乱して、涙が出そうで。


「も、帰らなきゃ。電車が」


 目の前もぐるぐるして、キスされた指先も顔も熱くて。片山さんの顔が、もうまともに見れなくて、横を駆け足ですりぬけて。

 逃げ出して、しまった。


「あ、綾ちゃん!」


 片山さんの声を聞きながら路地を抜け出し、まっすぐ駅の改札まで走る。定期を出すのに手間取って、つい後ろを振り向いたら。


「……っ」


 片山さんが少し後ろの方で、私に向かって手を振っていた。すごく、優しい笑顔で。多分私が走り去った後も、ちゃんと改札抜けるまで見守っててくれたのだと思うと、また胸がどきどきし始める。

 慌てて前を向いて駅のホームまで駆け上がったけれど。電車に乗ってる間もその鼓動は収まらなくてずっとそわそわしてしいた。

 さすがに私でもわかる。片山さんは、本気かからかってるのか兎も角として、私に好意を向けてくれている。

 家のある駅に着いてからも落ち着かなくて、いつもの倍以上のスピードで帰り道を歩いて玄関に飛び込んで。


「あ、おかえり。今日は遅かったね」


 早歩きで帰ったのに遅いと言われて、それだけ片山さんとゆっくり歩いて話をしていたのだと気づいた。


「お姉ちゃあん!」

「えっ? 何?」


 ちょうど二階から降りて来たとこだったのか階段の目の前で出迎えてくれたお姉ちゃんに泣きつくと。


「どうしたの、変な人でもいたの?」と、心配そうに眉を顰めてくれた。


 ある意味変だ。この頃の片山さんは私には手に負えないくらい変だ。大体デートってどういうものだろう。誘われたからって、簡単に受けていいものなの?

 高校の時の同級生たちはどんな話をしていたっけ。彼氏とデート、それ以外に友達同士でもあったっけ?

 恋バナで盛り上がってて、私も一応聞いてはいたけど、その時の私は悠くんに夢中で、だけどデートなんて深く考えたことなかった。だって、デートなんて思わずに買い物に連れてってもらったりついてったり、お姉ちゃんも一緒だったり。

 それが当たり前だったから。


「びっくりするじゃない、変質者でも出たのかと思った」


 お姉ちゃんの部屋で、片山さんとのことや混乱する頭の中を全部ぶちまけてしまったら、拍子抜けされた。


「変質者じゃないけど……変だもん、もう」

「片山さんってマスターじゃなくて厨房の人よね? ちらっとくらいしか見たことないけど……」


 人差し指を立てて顎に当て、考える仕草をするお姉ちゃんは、ちょっと大人っぽくて可愛い。そういえば、お姉ちゃんは悠くんとはどうなったんだろうと、少し思考が余所を向きかけたのを、お姉ちゃんの一言が呼び戻した。


「いいじゃない? デートくらい一度行って見たら」


 あまりにもさらりと言うから、びっくりして言葉が出ないまま瞬きをする。


「同じ場所で働いてる人なら、向こうも慎重になるだろうし……」


 言いながら、お姉ちゃんはミニテーブルの上に乗ったアイスコーヒーのグラスを手に取った。テーブルにはもう一つ、カフェオレの入った私のグラスも乗っていて、私も思い出したように手を伸ばす。話している間に氷が解けて、少し薄くなってしまった。


「でも、デートって好きな人とするものでしょ?」

「厳密に言っちゃうとそうだけど、綾はその人嫌いなの?」

「嫌い、じゃない。けど……」

「マスターと、っていうよりは……現実的かなと思うし」

「っ、げほっ」


 なぜだか引き合いに出されたマスターに咽て激しく咳き込んでしまい、慌ててグラスをテーブルに戻す。漫画みたいなベタな反応が可笑しかったのか、お姉ちゃんはくすくす笑いながら私の背中をさする。息と喉を整えてから少し涙目で睨むと、小さく肩を竦めた。


「だって。いつもお店の話するときに一番多いのはマスターの話なんだもの」

「そ……そんなこと、ないもん」

「あるわよ」

「……ある?」

「うん」


 絶対ない……ことはないと思う。だってマスターだし、一緒にホールにいることが多いし。ただ、それだけなんだけど。

 そういえば、片山さんも私がマスターの方ばかり見る、って。まずはそれで機嫌が悪かったんだっけ?


「だから、もし綾から恋の悩み相談とか受けるならマスターの方だと思ってたんだけどな。だったら少し、ハードル高そうだなって心配してた」

「マ、マスターとそんなんなるわけないでしょ。マスターからしたら私なんてお子様にしか……」

「うん、それもあるし」


 自分で『お子様』って言ったのに、全く否定してくれないお姉ちゃんに結構ダメージは大きかった。

 どうせ私は子供っぽいですよ。

 ……多分、世間一般の同年齢の子達よりも、私はこういったことに疎いのだと思う。もっとちゃんと、真剣にみんなの恋バナを聞いて置けばよかったと、今更ながら後悔した。


「っていうか、論点ずれてる。片山さんかマスターか、じゃなくって。そんな簡単にデートしていいものなのかなって……」

「いいじゃない、それでもしかしたらドキドキしたりして、恋が芽生えることだってあるよ? きっと」

「……ドキドキしたら恋なの? そんな単純?」

「わからないからって立ち止まってたらわからないままじゃない? あんまり怖がらないで、案ずるより産むがやすしっていうわよ?」


 つまりそれは。まずは、デートしてみろってこと、でしょうか。お姉ちゃんに相談しても、結局悩みはすっきりとはしないまま、お風呂を済ませて、お布団に入ってまた頭を悩ませる。

 一瀬さんから見ると私なんか子供だってそれはよくわかってるけど、片山さんだって私よりも五つ上だ。それに、かっこいい。あんな風に見つめられたり、指にキスされたりしたら……どきどきして当たり前だと思う。

 肌掛け布団を口許まで引き上げたら、指先が目に入ってまたどきどきがぶり返して、暫く眠れなかった。


 翌日、朝から片山さんと顔を合わせるのに、すごく緊張したけれど。


「おはよ、綾ちゃん」

「おはようございます」


 彼はいつも通り愛想のよい笑顔で、ケーキの番重をカウンターの上に置く。そして、いつものように、目の前に停めた車を駐車場の一番端に停め直しに行く。


「……あれ?」


 間抜けな私は、その時に漸く気が付いた。彼は毎朝、車でケーキの番重を積んで出勤してくる。おうちのケーキ屋さんは歩けない距離じゃないけど、手で持って歩くには遠いし車の方が安定するから。当然、昨日も車だったはずだ。片山さんはあれから、一度店に戻ったのだろうか。


「ああ、はい。一度戻って来られてから車で帰られましたよ」


 一瀬さんにそれとなく聞いてみたら、そう教えてくれた。

 だったらなんで車で送ってくれなかったんだろう。車なら駅まで三分くらいだし、昨日は降られはしなかったけど、雨の心配もあったのに。もしかして、私と話をするためだけに?

 そう捻くれた見方をして、むっと眉を顰めたら。


「信也くんなりに、気を使ったんじゃないでしょうか」


 考え込む私にマスターがコーヒー豆の袋の整理をしながら言った。


「……車という空間は、ある意味密室ですから。怖がらせないように、とか」

「え」

「結構、気遣い屋さんですよ、彼は」


 一瀬さんの言葉が、ストンと胸に落ちて同時に身体の力が抜けた気がした。


「そう、ですよね」


 その通りだ、片山さんはちょっとちゃらちゃらしてるけど、優しい人だし私がここに勤め始めた時にずっと気にかけてくれていた。あの頃には、間違いなく何の下心もなく。


「そうです。私よりずっと周囲をよく見てると思いますよ」


 淡々とした声で、簡潔だけど諭すような言葉。私は急に変わった片山さんの態度に混乱するばっかりで、大事なものを見失ってた気がする。


「……はい。わかります」


 理解は、できる。でも、なぜか少し、胸が痛くて……涙が出そうになった。


 逃げたり怖がったり、恥ずかしがったりするばっかりで、片山さんの言葉をちゃんと受け止めてなかった。そう気づかされても、簡単に態度を変えられるわけもない。片山さんとお昼二人きりになっても、私から話をぶり返す勇気もなかった。

 そんな私を悟られていたのか、片山さんからも何かを切り出されることもなく一週間が過ぎた。

 あれはやっぱり、気まぐれとかただからかわれたとか、それだけだったのかも。ほっとしたような気持を抱えながらもいつも通り、片山さんが用意してくれたランチプレートを目の前にする。


「わ、美味しそう」

「今日はキッシュと夏野菜の揚げ浸し。それとポタージュね」


 並んだプレートは二つ。いつもの斜め向かいに片山さんも腰掛ける。にこにこ笑顔で見つめられながら食べるお昼も、さすがにちょっと慣れてきた。プレートを食べ終えて、少しぬるくなって飲みやすくなったポタージュをゆっくりとしたペースでいただいていると。


「綾ちゃん、これ」


 見て、と差し出して来たのは、色鮮やかな広告だった。


「わ、綺麗。ひまわり畑ですよね」


 広大な敷地一面にひまわりを植えて、大きな迷路が作られていて、一度行って見たいと思っていた場所だった。


「絶対、好きだと思った」


 多分、見るからに目を輝かせていたんだと思う。片山さんが少し得意げな顔を見せた。


「昨日、やっと梅雨明けしたでしょ。次の休みに一緒に行こ」


 次の休みは、もうすぐそこ。

 三日後だった。


「えっと……」

「いや?」


 悩む前に、考える前に頭が混乱する。

『考えるより 産むがやすしっていうわよ?』

『信也くんは、結構気遣い屋さんですよ』

 お姉ちゃんや一瀬さんの言葉が頭の中でリピートされて、「はい」って答えなくちゃいけないような気にもなってくる。


「行こうよ、ひまわり畑」


 作業台に置かれた広告には一面のひまわり畑。黄色に触れる私の手に、片山さんの手が重なった。

 そのとき、後ろでコンコンとノックをする音がして。




「信也くん。デザートプレート二つ、紅茶シフォンで」


 一瀬さんの声が、聞こえた。びくんっ!と背筋が伸びて慌てて振り向いた。

 見られたくない、咄嗟にそう思ってしまったからきっと私はかなり慌てた顔をしていたと思う。それなのに、厨房とホールとの境目のカウンターで顔を覗かせる一瀬さんは至っていつも通りの無表情で、淡々と動じることなく片山さんを窘めた。


「デートのお誘いは仕事の後にしてください」

「へぇへぇ」


 慌ててるのは、私だけ。しかも、助けてもくれない……んですか。

 そのことが、自分でも驚くくらい、ショックだった。


「……綾さん?」


私と目が合ってはじめて一瀬さんの無表情が崩れる。代わりに浮かんだ困惑顔に、また一層、胸が痛んだ。

 私は一体、どんな顔で一瀬さんを見ているんだろう。


 ただただ、目頭が熱い。困惑する一瀬さんの顔を見て、唇を噛んだ。一瞬の目線のやりとりを、片山さんに気づかれたのかはわからない。


「……了解。デザートプレート二つね」


 溜息混じりの片山さんの声が酷く不機嫌だった。一瞬だけ握られた手の圧力が強くなる。それでも目を離せない私に、一瀬さんが少し目を伏せて言った。


「向日葵。梅雨が長引いたせいで開花が遅れているそうですよ」

「は? そうなの?」

「ええ。期間中でも少し後の方に行った方が良いでしょうね。咲いてない向日葵見ても仕方ないでしょう」


 見るからに動揺している私のせいで気まずく澱んでいた空気が、ようやく少し流れ始める。


「そりゃそうか……じゃあ、八月入ってからのがいいかな」


 残念そうな声と一緒に片山さんが立ち上がる。漸く握られた手が解放されて、やっと肩の力が抜けた。


「片山さん、ごちそうさまでした」


 作業台に向かう片山さんにそう言うと、背中を向けたままひらひらと片手を振った。カウンターに戻ってすぐ、一瀬さんがぽつりと私に言った。


「見頃になるまでに、お返事したらいいでしょう。嫌なら嫌と言えばいい」


 私の方をちらりとも見ずにそう言って、カップとソーサーをセッティングする。


「はい……すみません」


 助けてもらったのか、突き放されたのかわからない。だけど、一つだけわかってしまったことがある。


 向日葵畑がいつ咲くのかよりも、一瀬さんにどう思われるか……そのことばかり気になって仕方ない私がいることに気が付いてしまった。



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