一途な向日葵 前編1
しとしとと雨が降り続く灰色の空の下、紫陽花の鮮やかな発色が心を少し晴れやかにしてくれる。窓の外から見える花壇には、春先のパンジーが終わって以来まだ何も植えられておらず、水を含んだ黒い土から雑草が生え始めていた。
「マスター、次はここ、何か植えるんですか?」
ダスターでテーブル席を拭きながら、カウンターに向かって尋ねる。
「そうですね……秋になったらまた。パンジーか」
「チューリップもいいですよ」
スペースは結構あるから、両方植えるのもいいかもしれない。どちらも種類豊富な花だから、きっと賑やかな花壇になる。
まだ植えてもいないのに、来年の花壇を想像して今からとても楽しみだった。
「綾さん、休憩どうぞ」
「はい、お先にすみません」
一瀬さんに促されて厨房へと入っていく。ランチの時間が過ぎて客足が落ち着いた頃に、片山さんが作ってくれる賄いを交代で食べるのだけど……私は今、この時間がとても苦手だ。
「片山さん、お昼いただきます」
片山さんとどうしても、二人きりになってしまうから。忙しく何か作ってくれていたらまだ良いけれど、お客が落ち着いた時間なんだから当然、オーダーもない。
「はいどうぞ」
作業台に丸椅子を寄せて座ると、白いお皿にサンドイッチが乗せられて二つ並べて置かれた。
「俺も食べよっと」
そして、角を挟んで隣に座る、この距離間と角度が、苦手。向かい合わせに座るなら、作業台を挟むから距離ができる。真横に座られるなら、視線を合わせずにいられるしじっと見られても気付かないふりでいられる。
でもこの位置関係では、距離は近い上に視界の隅に常に片山さんがいるのだ。
「おいしい?」
「はい。片山さんのご飯はいつもオシャレで美味しいです」
「綾ちゃん、美味しそうに食べてくれるからほんと作りがいある」
今日のお昼はアボカドサラダとサーモンの彩り可愛いサンドイッチ。ほんとにすごく、美味しいんだけど……正直、居心地が悪い。
片山さんがサンドイッチを片手にじっと私の方を見てるのが視界の左端に映っていて、つい視線をそちらへ動かすとばっちり目が合ってしまった。
「早く食べないとお客さん来たら食べれなくなっちゃいますよ?」
「食べてるよ、ちゃんと」
私がつい、唇を尖がらせて文句を言っても片山さんは全く動じないし、半分私の方へ向けた身体の角度も変わらない。それどころか、尖がった私の口許を見て「ついてるよ」と手を伸ばしてくるから、「だっ、大丈夫です!」と、慌てて自分の指で拭った。
そんな風におろおろする私を見て、片山さんはクスクス笑うのだ。とにかく何かと私を見るし構おうとする、この空気がすっごく……緊張する。
こんな状況が此処しばらくずっと続いていた。
『人のことなのに一生懸命になって泣いたり怒ったりできる綾ちゃんが、好きだよ』
そんな風に言ってくれた、あの日から。あれはただ単に、私の性格をフォローして庇ってくれただけだと思う、のだけど。
サンドイッチの最後の一口をもぐもぐと食べ終えまたちらりと見上げると妙に甘ったるい目線とぶつかって、遂に私は敗北宣言をした。
「……すみませんでした」
「ん?」
私の突然の謝罪に、片山さんは意味が分からないという体で首を傾げる。そんなとぼけなくていいので、本当にもう許して欲しい。
「わかってます、あの時、聡さんと一緒に並べて信用しないなんて言ったから、まだ怒ってるんですよね?」
だから、こんな風にからかうんだ。確かにあの時は、カチンときて失礼な言い方をしてしまったかもしれない。だけどそれは、無防備だと言われて図星を刺された気がしたからで……つまりあれは私の八つ当たりだ。
折角片山さんが忠告してくれたのを、素直に聞けないのは良くない。
「これからはちゃんとお客さんにも警戒しますし、片山さんのことだってちゃんと信用してます。だからもう許してくださいよぅ」
正直本当に、嫌がらせのように甘い空気を日々作られるのは心臓にも胃にも悪い。だから、両手を組み合わせれ祈るようにして、半泣きでもう一度片山さんに謝ったのだけど。
ぽかん、と数秒呆けていた片山さんが、やがてがっくりと脱力した。
「いや、別にそんなこと怒ってないけどね」
「嘘ですよ、からかってばっかり」
ほんとお願いだからやめてください、と念を込めてじっと睨んでいると、片山さんがうなだれたまま眼だけを上向けて苦笑いをした。
「綾ちゃんこそ、わざとやってる?」
「え……」
「わざと、わかってないふりしてる?」
まっすぐに見つめ返されて、どくんと胸が高鳴った。別に、わからないふりをしてるわけじゃない。
ただ、あの言葉を本当は、もっと深く考えるべきなんじゃないかって……そう思うのが、怖いだけで。
返事もできず黙り込んでしまったけど、片山さんは私の表情で何かを読み取ったらしい。
「まあ、いいけどね。丸きり信頼されるよりは、そうやって意識される方がマシ」
「別に意識なんかしてません」
「そう?」
片山さんは、どこまでも自信に溢れた目をしていた。
「なんですかその顔」
「可愛いなぁと思って」
「だから……」
からかわないでくださいってば、と、抗議しようと思ったのに。
「好きだよ」
って、もう何度か聞いた言葉で遮られて、何度聞いても狼狽えてしまう私は子供過ぎるのかもしれないけど。
「そういう、ちょっと臆病なとこ」
なんていつも後から付け足すから、真意がいつもわからなくなって困惑する。
「も、いいです。マスター待ってますから戻ります」
怒ったフリで逃げてしまうしか、私にはスキルがない。そんな私を理解してるみたいに、片山さんはいつも表情を崩さない。
食器を片付けて厨房を出るまでの間ずっと見られているみたいな気がして、ほんの僅かな時間なのに苦しくなるくらいに居心地が悪い。
「綾ちゃん」
「えっ」
それじゃあ、と声をかけてカウンターに戻ろうとしたら呼び止められてびくびくしながら後ろを振り向いた。
「今日、終わったら一緒に帰ろうよ」
「えっ、でも。駅と片山さんのおうちと、反対方向じゃ」
「いいでしょ、送るよ」
「いえ、あの……」
狼狽えながらも断り文句を探しているうちに、彼は重ねて言葉をつなぐ。
「いいでしょ、俺も綾ちゃんとちゃんと話す時間がほしいだけ」
そう言われると、自分が余りにも幼い理由で逃げているだけのように感じてまた、言葉を失った。カウンターに戻った私が、余程憔悴した顔をしていたのだろうか。一瀬さんが少し首を傾げて言った。
「どうかしましたか?」
「いえっ、大丈夫です! マスター、お食事行ってください!」
慌てて笑顔でそう言ったけれど、わざとらしく取り繕ったように見えてしまったのかもしれない。無言で珈琲を淹れてくれるのを見て、『あ、私の分だ』と、すぐにわかった。
案の定、暫くカウンターで立ってグラスを磨いたりしていると「どうぞ」と一言添えて作業台にカップを置いてくれた。
「……ありがとうございます」
一瀬さんの感情の読み取りにくい表情を、最初はすごく怖いと思ったけれど、最近は随分慣れた。読み取りにくいけれど、ちゃんと表情は、ある。そして人の表情も、本当に良く見ている。それが今はわかるから、酷く安心できる。
厨房へと入っていく背中を目で追いながら、私は珈琲の香りを深く吸い込み唇をつけた。ここで働くまで、珈琲がこんなに美味しいとは思わなかった。どちらかというと少し苦手で、砂糖やミルクを多めにいれて甘くしないと飲めなかったのに、今ならブラックでだって美味しく飲める。
それだけじゃない。少しイライラした時や焦った時、落ち込んだ時、一瀬さんが度々淹れてくれる珈琲がなんだか安定剤代わりになっているような気がするくらい。
香りを深く吸い込むと、どんなに波立って心も次第に凪いでゆく。
そんな風に、感じるようになっていた。
「顔はあんなに無表情なのにな」
仏頂面で口を真一文字に結んだ怖い顔で淹れているのに。そう思ったら、なんだか少し可笑しくて「ぷぷ」と笑いながら、また一口珈琲を味わった。
◇
「それじゃ、お疲れ様です」
閉店時刻を迎えて、少しの後片付けを手伝った後はいつもどおり一瀬さんに促されて、鞄を手に取った。
一応……無視するわけにもいかないし。
厨房の方にも「お先に失礼します!」と声をかけて、返事も聞かずに早足で店を出た直後だった。
「待って待って! 綾ちゃん」
と、やっぱり呼び止められてしまった。
「片山さん、厨房のお片付け、いいんですか?」
「今日は合間にちゃんと終わらせた」
「明日の仕込みとか……」
「終わらせたってば」
なんとか逃げ道を探そうとする私に、片山さんは苦笑した。
「別にいきなり取って食わないって」
いくらなんでも、いきなり襲われるとかそんな心配をしてるわけじゃないんだけど……。
店の出口を出てすぐの軒下で、二人で立ち止まっていると店の中からもきっと丸見えだろう。振り向いてガラス越しに店内に目を向けようとしたら、片山さんにいきなり頭を掴まれて方向転換させられた。
「わっ、な、何するんですか」
「はい、いちいちマスター見ないの」
「えっ」
図星を刺されて、どきんと鼓動が跳ねる。方向転換させられた先には片山さんの顔があって、その向こう側には雨で濡れた街が外灯で照らされてきらきらしていた。
「綾ちゃん、何かあるとすぐマスターの方見るもんな。親鳥探してるひな鳥みたい」
「ひ、ひな……?」
「そろそろ巣立ちしません?」
私、そんなに一瀬さんの方見てるのかな。
でも、一瀬さんは此処のマスターでオーナーなんだから、仕事してたらまずは一瀬さんに頼ることが多いのは当たり前だ。たまに対処に困る時や、ブーケのことで相談したいときには当然一番にお伺いするわけだし。
「ほら、行こう」
「あっ……はい」
片山さんに背中を押された瞬間、やっぱり店を振り返りそうになって踏みとどまる。
仕事関係なく、一瀬さんに頼ろうとしてるのかな、私。
だとしたら、本当にひな鳥みたいなものだ。
心許ない、何かに一歩踏み出すときのような不安にやっぱり後ろを向きたくなって、空を見上げて誤魔化した。
「雨、上がってよかったですね」
「そう? 降ってたら相合傘出来たのに」
「えっ、それぞれ差したらいいじゃないですか」
「綾ちゃん冷たい」
えええ。
だってお互いちゃんと傘あるんだし、冷たいと言われても。
困った顔で隣を見上げると、またあの目で片山さんが見下ろしてくる。くすぐったくなるような、怖いような。とくとくと心臓が忙しなくなって、その感覚は決して嫌いなものではないんだけど、見つめられてもどう反応したらいいのかわからない。
「二人で傘差したら雨の音で遮られて話もできないでしょ」
だけど、また私を困惑させるような甘い言葉を言うのかと思ったら、至って普通のことでちょっと安心した。
「それもそうですね」
「相合傘もしたいけどね」
「はいはい」
外灯や店の灯りを反射して、色とりどりの光を放つ石畳道を進んで行くとそれほど長くかからずに駅につく。
まだ人通りも多い時間で、ほんとに送ってもらうほどのことでもないのだけど。話上手な片山さんに乗せられたというべきだろうか。最初の緊張やら戸惑いやらはいつのまにかなくなって、話に夢中で歩調も緩くなる。
「綾ちゃんは映画はあまり見ないの?」
「最近はあまり。レンタルしてくることはよくありますけど」
「じゃあ遊びに行くならどこ行きたい?」
「あ、植物園がこないだリニューアルされてそこに今度行く予定なんですけど」
「え、誰と?」
「お姉ちゃんとです!」
「ふうん……」
ずっと笑顔だった片山さんが、少し面白く無さそうな顔をした。
「『悠くん』は一緒じゃないんだ?」
「えっ、どうかな、聞いてないですけど……」
話をしたときは私とお姉ちゃんだけだったけど、いざ行くと悠くんも一緒だったりもよくあることだ。
片山さんの不機嫌の理由は、わからないことはないけれど。それが、ほんとなのかただからかってるのかがわからない。
以前は頼りにできる先輩で、男の人だなんて特に改めて思ったことはなかったけど……こういう会話になると、つい考えてしまう。
早く、駅に着かないかな、なんて。
「じゃあ、さ」
「はい?」
突然互いの手が触れあって、片山さんの手は少し、ひんやりとしていた。
「デートに行くなら、どこに行きたい?」
ああ、まただ。また、逃げ出したくなるような空気が漂って、私は手をひっこめようとしたけれどその指先を捕まえられた。
「あ、あの、手……」
「どこがいい?」
「行ったことないから、わかんないです。それより手……」
駅はもうすぐそこなのに、こんな際々でまた片山さんは恋愛モードに入ってしまって、私はまた狼狽させられる。
「じゃあ、行先俺が決めていい? 今度の定休日空いてる?」
「空いてます……じゃなくてなんで行く流れになってるんですかっ」
「あ、流されなかったね……残念」
あはは、と片山さんが笑って恋愛モードがまた解ける。ちょっとずつちょっとずつ、小出しにされてる気がするのは気のせいだろうか。
少し空気は緩んだけれど、その隙にしっかりと指を絡めて手を繋がれてしまった。
たかが、手だ。片山さんの手に一切触れたことがないかと言ったらそんなことはないし、そんな狼狽えることでもない。
「植物園、ねえ。やっぱり綾ちゃん花が好きだね」
「あ、そ、ですね。植物園以外にも、バラ園とか藤が有名なお寺とか」
やっぱりその程度のことでいちいち過剰反応してるのは、私の方だけみたいで。片山さんは、さらりと話を戻してしまう。
「もしかして、九尺ふじ? 聞いたことあるね」
「あ、知ってます? 嬉しい。ちょっと遠いのであんまり簡単には行けないですけどね。花の苗とかの市もやってて……あ、球根探したいなあ」
ふと、お店の前の空っぽの花壇を思い出してそう言った。春の花に向けて、秋に何か植えようって一瀬さんが言ってた。
球根か苗か……どんなのがいいか一瀬さんにもう一度相談してみよう。
「じゃあ、梅雨が明けたらそういうの、見に行こうか」
「あ、いいですね。マスターも一緒に、来年の花壇の花決めたいし」
「……綾ちゃんは一体どこで純粋培養されて育ったのかな?」
デートの話だったのに、頭の中で花壇のことを思い出していたら私の中ではすっかり一瀬さんも絡めての仕事の話に切り替わっていて。
そのことが、片山さんを不機嫌にさせてしまったらしい。
「それともわざとだったら、恋愛経験少なそうに見えて案外余裕ってことかな? だったらあんまり遠慮することもなかったかな」
「えっ? わっ」
駅の入り口はもう目の前で改札も見えているのに、いきなり方向転換して隣の私に向かってぐいぐい歩いてくるから。
「えっ、え、あのっ」
あっという間に建物の壁に背中を向けて、追い詰められてしまった。目の前には、むすっと不機嫌を隠しもしない片山さんが立っている。
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