ピンクの薔薇の花束を2



 静さんがいつもと違う様子で店を訪れたのは、それから一週間後のことだった。


「いらっしゃいませ」


 私が笑顔で迎えると、いつも通りに笑ってはくれた。だけど、それはどこか弱々しく覇気がなく、いつもならカウンターに座るのに、今日は窓際のテーブル席だった。


「今日は、待ち合わせですか?」

「そうなの。ちゃんと来るかしらね……」


 水のグラスを目の前に置いて尋ねると、肩を竦めて冗談ぽく言ったけど。

 来ますよ、当然じゃないですか、って。その場しのぎの慰めみたいで口に出すのを躊躇ってしまった私を、静さんが見上げて笑った。


「なんで綾ちゃんが泣きそうなのよ」

「えっ? いえ、そんなことないですよ?」

「すごく心配って顔に書いてある」


 私って、そんなに顔にでるのかな?「すみません」と頬を摩りながら悄然としていると、クスクス笑われてしまった。


「あの人、約束は破ったことないのよ。ただ、今日は大事な話があるって言ったから……逃げるかもねって、思っただけ」

「そう、なんですか」


 当然、どんなお話なのか尋ねるわけにはいかないから相槌だけ打ったけれど、もしかして別れ話だろうかと気になって仕方がない。だけど静さんからはそれ以上話は続かず、ホットミルクのオーダーを承って会話は終わってしまった。


 カウンターからテーブル席を見ると、いつもそこに座る人の横顔を見ることになる。ホットミルクを両手で持ち、ガラス窓から通りを眺める静さんの横顔がとても物憂げで……。


「……なんで来ないのあの人は!」


 カウンターの下にしゃがみ込んで、拳で膝を叩いて苛々を発散する。私の声が聞こえたのか、厨房とのカウンター越しに片山さんがひょっこり顔を出した。


「来なくてもいいんじゃない?」

「えっ? なんでそんな」

「だってその方が綺麗さっぱり別れられるでしょ」


 さらりとそんな言葉を吐いた片山さんを、愕然と見上げる私。よほどおかしな顔をしてたのか、片山さんがぷっと吹き出して言った。


「綾ちゃんはあの男と静さん、上手くいった方がいいと思うの?」


 そう問われて、初めて自分の中の矛盾に気が付いた。静さんに幸せに笑ってて欲しい、なんであんな人が彼氏なんだろうって思うのに、別れた方がいいなんて思わないのだ。


「あの人が真面目になればそれが一番……」

「ないね、浮気性は病気だよ」


「病気なら治るじゃないですか」

「不治の病」


 希望的観測を悉く一蹴されて下唇を噛みしめ下から睨みあげると、まるで駄々をこねる子供を見るような目で憐れまれた。


「……感情移入しすぎたらしんどいって言ったのに」

「だって、そんなこと言ったって」


 一人のお客さんと、親しくプライベートのことまで話せたのは静さんが初めてだったのだ。ただの店員とお客さんでしかないことに変わりはないけど、笑顔で幸せそうにこのお店でお茶を楽しんでもらいたいのに。

 それだけなのに、と目が潤みそうになった時、それまで黙って茶葉の補充をしていた一瀬さんが、私達を窘める。


「お客様の噂話を余りするものではありませんよ」

「……すみません」


 噂話、のつもりはなかったんだけどな。

 一層肩を竦ませて小さくなりながら、私は落ち込む気持ちを誤魔化すように、徐にダスターでカウンターを拭いた。


 結局二時間静さんは彼を待っていたけれど、もう日が傾きかけた頃諦めた様子でテーブルから離れた。伝票を持って歩いてくる静さんを見て、私もレジへ向かう。

 何て声をかければいいかわからなくて、気まずい空気しか作れない気の利かない自分が、嫌になってしまう。


「いつもありがとうございます」


 伝票を受け取ってレジに入力しようとすると、静さんの視線が花の陳列の方へ向いていることに気が付いた。


「そのピンクのバラ、すごく大きいのね」

「大輪でしょう? これだけの大きさがあると花瓶に生けても花束にしてもすごい迫力になりますよ」


 迫力はあるのに色は淡くて優しい雰囲気が漂う、今お店で一番おすすめしたいと思ってるバラだった。高価なお花だから余りたくさんは仕入れていなくて他のお花よりも小さめの花入れに入れているのに、思わず目を留めてしまう存在感がある。


「ほんとに綺麗ね。この間見に行った映画にも大きなピンクのバラの花束が出てきて、羨ましいなって思ったの」


 バラに近づいて腰を屈め、指先で花びらに触れた後、静さんは突然顔を上げた。


「ね、これで花束を作ってくれない?」

「勿論、喜んで。どれくらいの大きさにしましょうか? 予算とかありますか? 他の色味もいれます?」


 静さんの表情が、何かを振り切ったかのようにぱっと鮮やかに華やいだ。だから私も張り切って静さんの隣に立って他の花を見渡す。

 だけど彼女は、頭を振ってピンクのバラを指差した。


「この花だけでいいわ、予算も気にしないから、嫌味なくらい大きな花束を作って」

「嫌味なくらい、ですか」


「全部使ってくれてもいいわよ」

「ええっ?!」


 驚いて静さんの顔を思わず振り仰いだ。

 憂いは、もう見えない。だけど、妖艶で悪戯な表情を初めて見せる静さんに、女の私がなぜかどきどきしてしまった。 


 聡さんが来たのは、それから三十分が過ぎてからだった。店にもうお客様はいなくなって、そろそろクローズにするか一瀬さんに聞こうかと思い始めた頃になって、カランコロンとカウベルが鳴る。


「こんばんは、綾ちゃん」


 へらへらと笑って入口付近で立ち止まる聡さんに、カフェ側に居た私は「いらっしゃいませ」の言葉も出ずに歩み寄る。聡さんはわざとらしく店内を見渡してから言った。


「静、帰っちゃったかな? 待ち合わせだったんだけど」

「もう、とっくに帰られました」


 あきらかに素っ気ないはずの私の声にも、懲りることなく彼はレジカウンターの中に入る私に近づいてくる。


「ああ、残念行き違っちゃったかな。じゃあ、もう仕方ないし」

「……」

「もう、閉店でしょ。綾ちゃん、これから食事でもいかない?」


 それを聞いた途端、堪忍袋の緒が切れるというのはこういうことかと思うくらい、自分の中で何かが爆発するのがわかった。


「静さん……ずっと、待ってたんですよ?!」


 お客さんがいないこともあり、つい声を荒げる私に、彼は眉を顰める。だけど完全に頭にきていて、何も見えなくなっていた。レジ横に置いてあった静さんに託された花束を手に取ると、彼にやや乱暴に押し付ける。ピンクの花びらが一枚、彼の足もとにひらりと落ちた。


「な、なんだよこれ」

「頼まれたんです! せめてそれくらい受け取ってあげてください」


 たかがカフェの店員に、なぜこんなことを言われなければいけないのか……不服そうに顔を歪めたのは、なんだかそれだけでは無さそうに見えた。どこか、ばつが悪そうな表情にピンと勘が働く。

 わざとなんだ、やっぱり。


「なんで……なんで約束守らなかったんですか? 大事な話って言われてたのに、なんで聞いてあげないの?」

「……うるさいな。なんなんだ、たかが店員に言われる筋合いないよ」

「す、すみません、でもっ」


 じゅん、と目頭が熱くなる。聞いて欲しい言葉を、伝える機会をはぐらかされる。その惨めさを私は知ってるから……感情移入するなって方が、無理だよ、片山さん。

 あと少しで涙が零れてしまう。きゅっと目頭に力を入れた時、ふいに腕を後ろから掴まれた。


「えっ……」


 引かれるようにして身体が一歩後ずさり、同時に一瀬さんが私の一歩前に立った。


「従業員が大変失礼致しました」

「あ……」


 さっと、血の気が引くのがわかった。一瀬さんが腰を折る後姿を見て、ようやく我に返る。

 やってしまった、と口元を手で覆って、自分の手が震えていることに気が付いた。


「いや、別に頭下げてもらうほどの事じゃないけどさ」

「申し訳ありませんでした。その花束を預かった手前、気が気じゃなかったようで……」

「はは、まあそういうことにしといてもいいけど」

「お会計は頂いておりますので、お受け取り頂いてもよろしいでしょうか」


 一瀬さんの背中でただただ後悔から震えているしかできない私の前で、そんな会話が続く。どうやってお詫びしよう……そればかり考えていて頭は混乱しかけていたけれど。


「……それにしても、なんでピンクのバラなんだか」


 呆れたような声でそう聞こえ、はっと顔を上げた。


「さあ……それは存知上げませんが、何か想い出の花とかでは?」

「いや……」


 思い浮かばない様子の聡さんに、私はなんとかあの時の静さんの様子を伝えたかった。だけど、先ほどやらかしてしまったことを考えれば声に出すこともできず、唇を噛みしめようとした時。


「綾さん、何か聞いてませんか?」


 一瀬さんが、私を振り向いた。見上げると、視線で優しく促され、逡巡する私にもう一度尋ねる。


「静さんから、花束を頼まれた時に、何か話しておられたでしょう?」

「はい……あの」


 一度、ぺこりと頭を下げて聡さんの顔を見る。

 心辺りが、ありますように……祈るように聡さんの表情を見つめた。



「この間見に行った映画にピンクのバラの花束が出てきて羨ましかったって……とても、嬉しそうに笑ってらしたから。貴方と見に行った映画のことだと……私は思ったんですけど」

「映画……」


 呆けたように、私を見下ろす聡さんは何かを考えていたけれど。数秒して、みるみると顔色を変えた。



「静っ」


 突然、そう名前を呼んで踵を返す。今にも店から飛び出そうとする聡さんを、思わず呼び止めてしまった。


「あのっ? 静さん、大丈夫なんでしょうか?」


 振り向いた聡さんは落ち着きない表情で、引き留めたのを一瞬申し訳なく思ったけれど、私だってこのままじゃ何がどうしたのか気になって仕方ない。


「ああ、大丈夫、うん。すぐ、捕まえなきゃ」


 あれだけ余裕綽綽として、他の女の人と遊び歩いてた人なのに。同一人物とは思えないくらい、聡さんはあたふたと答えると。

「ありがとう、綾ちゃん!」と、ピンクのバラを掲げて今度こそ店を出て行った。

 

 名残にはらはらと、ピンクの花びらを残して。




「ピンクのバラ……何の意味だったんだろう?」

「こないだ見に行ったっての、「戦場のバラ」でしょ? 篠原愛記監督の最新作」


 声に振り向くと、いつから見てたのか厨房から片山さんまでカウンターまで出てきていた。


「そう、それ。片山さん、見たんですか?」

「俺は見てないけど、見た奴に聞いた。戦地に向かう恋人に、大輪のピンクのバラを贈るって話。死ぬかもしれない彼に、大切なことを告げるべきか迷って花に託した女性の話」


 ざっくりと話してくれた映画の内容は、あまりハッピーエンドと思えるようなものではなくて、益々静さんたちが心配になってしまったけれど……驚かされたのは、その後だった。


「バラって色とか大きさとかで花言葉が結構細かく分けられてるんだって、知ってた?」

「はい、詳しくは知らないんですけど……」


「大輪のピンクのバラの花言葉、なんだと思う?」


 メジャーな花だし聞いたことくらいあるかな……と思ったけれど、記憶を辿っても『大輪のピンクのバラ』だなんてピンポイントでは聞いた覚えがなかった。

 花言葉といえば……と、つい一瀬さんを見上げる。彼はわずかに瞠目して何かに驚いているようで、片山さんもそれに気付いて、にやにやと笑っていた。


「え、なんですか、二人だけでわかってないで教えてくださいよ!」

「妊娠してんじゃない?」


「はっ?」

「だから、静さん。大輪のピンクのバラは『赤ちゃんがいます』って意味なんだって。花言葉ってそんなんまであるんだな」


 くくっ、となんだかやらしい笑い方をする片山さんを横目に、私は目がテンになったまま固まってしまい、頭の中で何度かそのワードをリピートさせる。


 ……妊娠。にんしん?

 赤ちゃん、が、います。


「え、え―――っ!!」

「はい、そこまで。噂話は控えてくださいとお願いしたはずです」

「自分だって聞いてたくせに」


 驚いて目を白黒させている間に、一瀬さんに話を打ち切られてしまったけれど……他人事のはずなのになんだか妙に興奮して心臓がドキドキと高鳴った。


 あ、だから。コーヒーじゃなくてホットミルクだったのかなあ。


 そう納得して、ふんふんと一人頷いていると「それよりも」と、いつもより少し低い抑揚のない声が聞こえた。


「……綾さん。いくら腹が立っても、食って掛かっていい理由にはなりません」

「あ……」


 ひや、と背筋が寒くなるくらい、怒っているのがよくわかる声だった。同時に、さっきの一瀬さんの背中を思い出して、私は慌てて頭を下げた。


「す、すみませんでした、私っ……」

「いくら静さんと仲がいいからって、静さんも聡さんもお客様です」


「はいっ……」

「それに相手が感情的にならなかったから良かったものの……」


 頭を下げ続ける私に、上から落ちてくる溜息。そうだ、もしも聡さんを完全に怒らせていたら……誰かに話して私のせいでお店の悪評になったかもしれない。悪い噂なんて、あっという間に広がってしまう。

 そんなことに今更気が付いて情けなくて、お辞儀をしたまま下唇を噛みしめる。


「もしも、綾さん一人の時に何かあっ……」

「仕方ないだろ、元々最初っから綾ちゃんに絡んできてたの向こうだし」


 一瀬さんの言葉を遮ったのは、片山さんの声だった。驚いて顔を上げるとぱちりと目が合って、彼がにっこりと口角を上げた。


「そういう話ではなくて……」

「そういう話でしょ。それに、すぐに一生懸命になるとこ、綾ちゃんのいいところだと思うけど」


 またしても、一瀬さんを遮って言い返す片山さん。あんなに、感情的になるなと忠告してくれてた片山さんがそんな風に庇ってくれるとは思わなくて、私はびっくりして頭を振った。


「悪いのは私ですからっ、ほんとに……」


「でも俺、綾ちゃんのそういうとこすごくいいと思ったし。好きだよ」

「えっ?」


 なんだかひっかかるニュアンスに、大した反応もできないまま片山さんを見つめてしまう。

 いや、今の……ふつうに、私の良い部分だと褒めてくれた、だけだよね?

 わかってても自然急上昇する私の頬の熱は。


「人のことなのに一生懸命になって泣いたり怒ったりできる綾ちゃんが、好きだよ」


 ぼんっと音がしそうなくらい、最高温度に達した。同時に酷く心細い感情に襲われて目を逸らした先には、少し目を見開いて驚いている様子の一瀬さんがいる。


 でも、それ以上の感情は見えない、何も。

 この時私はなんで一瀬さんを見て、その表情の向こうに何を見ようとしたんだろう。

 自分でも、よくわからない。


 その日から数日後、静さんと聡さんが二人そろって顔を出してくれて、結婚することになったと報告してくれた。

 静さんが私にこっそり耳打ちをした言葉。


「最後の賭けだったの、あのバラを見て気づいてくれるかどうか。ありがとうね、綾ちゃん」


 私の言葉がヒントになって上手くまとまったって考えるとすごく嬉しいけど、反面ひやりともする。

 だってあの時一瀬さんが促してくれなかったら、私は何も言わずにそのまま見過ごしてしまったわけで……そうしたら二人はもうわかり合うことはなかったかもしれない。

 今までより少し近い距離で寄り添って歩く二人の背中と、静さんの幸せそうな横顔を見て、ふと思う。

 私は、二人が初めてお店に来たときから二人の姿に憧れて、だから聡さんが遊び人だと分かった後でも別れて欲しくなかったのかもしれない。



そんな恋に恋したような私の頬を

ぺちぺちと叩いて起こそうとする人がいる。


「好きだよ」と

只管ストレートな言葉と態度で私の手を引こうとするその人に

どうしたらいいかわからなくなって。


逸らした先の目線には、いつも別の人がいる。

私には難易度高めの、嵐の予感、です。





『ピンクのバラの花束を』  END


次話「一途な向日葵」



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