ピンクの薔薇の花束を1



 季節は春。通りの向こう側にある桜の木から、風に吹かれたピンクの花びらが舞い散る中、初々しい新入生らしい姿が緩やかな坂を上っていく。私は未だフリーターのままだけど、そんな季節を案外穏やかに見送ることができ、葉桜に変わったところで急激に気温が上がった。

 ツツジの花が色とりどりにあちこちで咲き始める季節、特にカルミアという花が私は好きだった。小さな蕾が密集して、すべて開くと白いパラソルが開いたようになる。


 ……可愛いパラソル。こんな白い日傘が欲しいな。


 そう思いながら、今日も軽やかにカフェまでの傾斜を歩いた。




「おはようございまあす。あ、マスター手伝います」

「おはようございます。こちらは大丈夫ですから、カフェの方の準備をお願いします」


 店に着くと、一瀬さんが花屋スペースの掃き掃除をしてくれていて、近寄った私に目線でテーブル席の方を示した。私は「はあい」と返事をしてから、荷物をカウンター下の手荷物置き場に押し込みショートエプロンを腰に巻く。

 この頃は、以前より少し早めに店に来るようにしている。でないと、一瀬さんが花屋の方の片付けを全部ひとりでしちゃうから。掃き掃除なんかはやらせてくれるけど、お花の処分はやっぱり私にはさせないように考えてくれている気がする。

  今日も多分、さっきまでお花を刻んでいたんだろう。だって、私がしていたみたいに、まだ傷みの少ない花を落として作業台に置いてくれているのが見えたから。


「……仕事だから、そんなに気にしないで欲しいのに」


 以前よりはずっとお客さんも増えてブーケや切り花も売れ始めたから、処分する数は減ったと思う。それでも、一瀬さんは自分で処分しようとして、私の手は煩わせまいとする。どうしても処分する切り花が出るのは、仕方ないことだと思うのに。

 私は作業台に置かれた花を手に取って、一瀬さんに振り返った。


「マスター、これで今日はドライフラワー作ってもいいですか?」


 いつもは生花のまま飾るのに、と思ったのだろう。一瀬さんは不思議そうに首を傾げた。


「ドライフラワーですか? 構いませんが……」

「シリカゲルに入れたら、綺麗な色のまま乾燥させることができるんです。それをガラスの器に入れて飾ったら頻繁に入れ替えなくても済むし……」


 上手に作る練習にもなるかな、と思って。ドライフラワーをいれたフラワーボックスとか、例のセットで選べるようにできたらいいかな、と、少し前から考えている。綺麗に仕上がったら、一度相談してみよう。


 ランチの時間が終了した頃だった。一瀬さんは買い出しに出ていて、ホールを一人で任されていた時。


「こんにちは、綾ちゃん」


 そんな声と共に入ってきたのは、この頃常連のカップルさん。私に声をかけてくれたのは女性の方で、私に向かってヒラヒラと手を振ってくれている。


「いらっしゃいませ、静さん、と彼氏さん」


 カウンターに並んで座る二人は、美男美女ですっごく絵になる二人だといつも見とれてしまうけど。


「綾ちゃん、俺エスプレッソね」


 彼女さんの前でお構いなしに、たかが店員の私を名前で呼ぶ彼氏さんが、私は好きじゃない。


「……かしこまりました。静さんは?」

「いつものホットオーレで」

「はいっ」


 静さんとは、一人で来店されたときに何度かお話して、すごく仲良くしてもらった。だからつい態度に差が出てしまい、笑顔は静さん一人にだけ向ける。

 今のとこ、一瀬さんにも注意はされてないけど……いつか怒られるんじゃないかってくらい、あからさまだ。接客だから、では我慢できないくらい、この人が嫌い。

 静さんがお手洗いで席を立った時だった。私が洗いあがったカップを拭いていて、嫌な予感がしてその場を離れる理由を探そうとしていたけど、それよりも先に話しかけられてしまった。


「綾ちゃんは、いつがお休みなの?」

「毎日フル出勤です」


「へえ、そっか。じゃあ定休日、いつだっけ?」

「……水曜です」


 これは答えないわけにはいかなくて、渋々といった調子をわざと見せて言うけれど。


「じゃあ、水曜なら遊びに行けるんだ」

「行けません」

「冷たいなあ。でも夜だったら尚更誘ってもきてくれないでしょ?」


 にこにこと笑って勝手に話をつなげる、この人にはまるで通じない。仏頂面で目も合わせないでいると、お手洗いから静さんが戻ってきていた。


「もう、聡……また綾ちゃんに迷惑かけてたの?」

「違うよ、ちょっとからかってただけ」


 困ったように眉尻を下げる静さんが、私に「ごめんね」と両手を合わせた。私は笑って顔を横にふるけれど……。


 からかってただけ?!

 よく言う!


と、飄々と言ってのける男を睨んだ。静さんが居ない時、しょっちゅう私に話しかけて食事だなんだと誘うくせに。それだけじゃない、他にもいろんな女の人とここへ来る。

 少し前には、休日の朝早い時間帯にショートカットの女性とやってきた。珍しい時間帯だな、と思っていると片山さんが言ったのだ。


『あー……ありゃ、朝帰りかな』


 女性の細い腰を抱いて密着して入ってきた様子を思い出すと、腹が立って今すぐここでぶちまけてやりたいと思ってしまう。

 言わないのは、静さんが悲しむのがわかってるからだ。静さんと歩く時、この人はそんなにベタベタくっついて歩いたりはしない。他の女の人とそんな風に歩いてると知ったら、きっと傷つくに決まってる。


 カラコロとカウベルが鳴って、お客様かと思ったら一瀬さんがビニールの袋をぶら下げて帰ってきた。カウンターに座る二人を見て、薄く微笑むと


「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」


 と挨拶を交わしながらカウンターまで辿り着き、私は野菜の入ったビニールを受け取ろうと手を差し出す。


「買い出しお疲れ様です」

「いいえ。ホールお任せしてすみません」


 ビニール袋が手渡される瞬間、不意に顔が近づいて一瞬どくんと心臓が鳴った。


「何もありませんでしたか?」


 小声でそう尋ねられても、妙に狼狽えてしまった私はただ瞬きをして「えっと、何も?」と大した返事もできなかった。何か、っていうのが何をさしているのかもよく理解できなくて。

  それでも一瀬さんは納得したのか、一度頷くと「何もないならいいです。すみませんが、それを厨房の冷蔵庫に」と私に背を向け、カウンターを挟んで静さんたちと談笑をはじめた。


 厨房に入って、私はよほど仏頂面で冷蔵庫の前にしゃがんでいたのだろうか。片山さんが泡だて器で何かを混ぜ合わせている音が止んだ。


「そこまで嫌悪感をむき出しにするの、珍しいね」

「……出てます?」


 トマトときゅうりを野菜室に入れ終えて振り向くと、片山さんが作業台に腰を預けて私を見下ろし苦笑いで肩を揺らしていた。


「出てる出てる。すっげー怖い」

「……だって嫌いなんですもん。静さんが可哀そう」


「彼女の方もわかってんでしょ? なんで別れないんだろうな……確かにいい男だけど」

「幼馴染で、昔からずっと好きだったんだって」


 先日、静さんが一人で来店された時に余りにも暇で、二人で随分話し込んでしまった時がある。静さんは、私に謝ってくれたのだ。


『いつも聡が絡んでごめんなさいね』と笑った顔はとても寂しそうで私の方が泣きたくなった。この人は全部わかってて付き合っているのだとその時に知ったのだ。


「ああ……だからか」

「何がですか?」

「綾ちゃんが、随分感情移入してるなって」


 そう言われて、初めて気が付いた。私は叶わなかったけど、静さんと同じように幼馴染を好きだった。その共通点があるからこそ、余計に静さんに肩入れしてしまうのかもしれない。

 だけど……ひとつ一緒にしてほしくない所がある。


「悠くんは、あの人みたいに浮気性じゃないですもん」


 一緒にしないでくださいよ、と、つい睨んでしまったら、片山さんは肩を竦めた。


「幼馴染ってずるいよな。小さい頃から一緒にいるってだけで妙な信頼関係がある」


 そう言った表情は少し面白くなさそうで。何か棘を感じる言い方にもいつもと違うものを感じて、私は思わずたじろいでしまった。


「だって、悠くんはほんとに」

「違うって言える? 幼馴染としてしか接してないのに」

「そっ……」


 その言葉は、ずしりと私の胸に響く。確かに、私は幼馴染の枠から出られないままだった。

 私の表情が固まったことに片山さんが気付いたのか、ふっと我に返ったように目を見開いた。慌てて作業台から腰を離し取り繕うように言葉を繋ぐ。


「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」

「いいえ、本当のことだし」

「余計なこと言った、ごめん」


 いつも揶揄するような言い方をしてもどこか優しい片山さんが、明らかに苛立ちを滲ませたことに私も少し驚いた。けれど、こうして私よりずっと背の高い人が素直に項垂れるのを見ると、怒る気もほんの少し傷ついたこともすぐに薄れてしまった。


「大丈夫ですよ、ほんとに、ほんとのことだし」

「ごめんって」


 笑って首を振って大丈夫だと言ったのに、片山さんは眉を下げ切なげに目を細めていた。


「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」

「えっ……」


 そんな表情で近づかれたら、私の失恋でそんなに心配をかけてしまってるのかな、となんだか私の方が申し訳なくなってしまうけど。私は俯いて、片山さんの問いかけを一度頭で反芻する。

 悠くんのことは今も好きだけど、それは本当に恋だったのかなと今になるとよくわからない。


「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」


 静さんと話すようになってふと考えたことがある。苦しくても想い続けたり傍に居続けるなんて、私にはとてもできなかったし考えもしなかった。

 静さんの恋に比べて自分の気持ちはとても幼く、本当に恋だったのかとさえ思ってしまう。


「自分でも、よくわからないですけど。悠くんの顔を見ても、もう割とへっちゃらだし」


 いつかまた、誰か好きになったら……その時に、今はわからないことも理解できるようになる、そんな気がする。だから今は案外前向きなのだと笑顔で顔を上げたら、思ったよりも近い距離に片山さんが立っていた。


「……だったら、いいけど」


 急になれない雰囲気に飲みこまれて、後ずさりもできなかった。厨房の明りが片山さんの真後ろにあり、表情に陰りを作る。

 何もされているわけじゃないのにひどく威圧を感じるのは、目の前の人が急に「男の人」に見えたから。


「静さんに感情移入しすぎて、失恋の傷も癒えてないだろうにって思ったら……」


 心配でさ。と小さく付け足した片山さんを見上げて、私は言葉を探すこともできず身動き一つできなかった。片山さんの手が近づいてきて、ああ、大きな手だなって頭の中で考えながら視線で追った。

 さ……触られる? と、気付いた時には心臓がどくどくと早鐘を打って私は思わずぎゅっと目をつむる。

 その瞬間、少し痛いくらいのデコピンを受け、くらりと揺れて私の体は一歩下がった。


「まあ、なんにでも一生懸命になっちゃうとこ、すごくいいんだけどねえ」


 額を抑えながら目を開けると、ちょっと意地悪そうに笑った片山さんが私を見下ろしてくる。慣れない、と思った空気は綺麗に消えていて、それでもまだどきどきして言葉が出なかった。


「……っ」

「ん? どうしたの?」

「ひ、ひどっ! 今、からかっ……」


 なんか絶対、わざと変な空気作った! と抗議したいけど、勘違いだったりしたら尚更恥ずかしい。悔しいのに、抗議する言葉も探せずにいると。


「だって綾ちゃん、なんか無防備なんだもんなー。だめだよ、あの男に言いくるめられて外で会ったりしたら」


 とケラケラ笑いながら、悪びれもせずに片山さんはそう言った。


「しませんよ、絶対! あんなあからさまなお誘い受けたりしませんもん!」


 ムキになって言い返したら少し声のトーンが上がってしまい、慌てて口を押えてホールの方の様子を伺う。耳を澄ますと和やかな話し声がして、向こうまでは私の声は聞こえていなかった様子にホッとした。


「それはさ、向こうが『あからさま』でいてくれるからでしょ。いい雰囲気作ろうとすればいくらでもできるよ、ああいう男って」


 それが、正に今さっきの一瞬のことを示しているのはすぐにわかった。だからって、あんなやり方でわざと証明することないと思う。


「わかりました。片山さんとあの男の人のことは絶対信用しないことにします」

「えっ、俺も同列に並べちゃうの?」

「だって同じってことでしょ、よーくわかりました!」


 舌を出して、ぷいっとそっぽを向いて離れると、片山さんの情けない声が聞こえた。


「えっ、ちょっ、ごめんって」

「しりませーん」


 と背中を向けたままカウンターに戻ると、ちょうど静さんが立ちあがったところだった。


「あっ、おかえりですか?」

「ええ、今から映画を見に行く予定なの。篠原監督の、ほら」

「あっ、戦場のバラ? テレビでもすごく宣伝してますよね!」


 いいなあ、とうらやましく見つめると、静さんは嬉しそうに笑って聡さんの腕を引く。


「早く行こう? 始まっちゃう!」

「はいはい。……俺、恋愛モノって全く興味なんだけどなあ」


 彼はすこぶる面倒くさそうに言いながら、丁度の金額をカウンターの上に置いた。そんな様子にも、静さんは嬉しそうに頬を綻ばせる。


「ありがとうございました」


 必要以上にくっつくこともなく、ただ隣で彼の袖にそっと触れる……それだけなのに。あの人が連れてる他の女性の誰よりも、幸せそうに笑ってる。

 温度差を感じてただただ、苦しい、そんな二人の背中を見送った。



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