イキシアの花言葉2
ガラス窓の外を見ながらブラックコーヒーを飲む苑ちゃんは、なんだかとても大人っぽい。ひらりと苑ちゃんの手が揺れて、窓の外の大通りを見ると早足で姉が歩いてくるのが見えた。
……んん?
お姉ちゃん、なんか怒ってる?
姉が珍しく、私がよくするみたいに唇をつんと尖らせて拗ねたような表情をしていたような気がした。カラコロとカウベルが鳴ってすぐ、姉は私に小さく片手をあげて「紅茶ちょうだい、あったかいの」とだけ言って、まっすぐ苑ちゃんのいるテーブルに向かい正面に座る。
一瀬さんが入れてくれた紅茶のカップをトレーに乗せて運んで行った時、姉が控えめではあるけれどテーブルを叩く仕草をして驚いた。
「なんで言ってくれなかったのよ」
「あはは、うん。ごめんね?」
どうやら、苑ちゃんが怒らせたらしい?私が首を傾げておろおろしながらも姉の前に紅茶を置くと、私をちらりと一瞥した。
「……苑ちゃん、大学辞めるんだって」
「え……ええっ?! なんで?!」
「専門学校に行くんだって、フラワーデザインの」
「そうなんだ! 苑ちゃんすごい!」
「いやいや、行くだけだからまだすごくないでしょ」
「すごいよ、だって」
苑ちゃんの家は両親ともに教師をやってて、親の手前苑ちゃんも教育学部に行くしかないって確か高三のときに悩んでたはずだ。
「親説得するのと学費貯めるのに一年かかっちゃった」
そう言って苑ちゃんはぺろりと舌を出して肩を竦めた。その様子を見て、姉はむすっとしたままだ。
「……私にちっとも相談してくれないで。退学届出してから白状するなんて」
「別に遠くに行くわけじゃないんだからいいじゃん」
「良くない、大学で会えなくなるし、苑ちゃんが行く学校全然方向違うもん」
ぶつぶつと文句を連ねる様子に、やっと納得がいく。
なんだあ、お姉ちゃん拗ねてるだけなんだ。
きっと、何も話してくれずに苑ちゃんが行動したことが寂しかったんだろう。拗ねたお姉ちゃんを宥めるのは苑ちゃんに任せて、私はクスクス笑いながらその場を離れてカウンターに戻った。
「何かありましたか?」
話の内容までは聞こえなくても、何か揉めている雰囲気は感じたのだろう、一瀬さんが私に尋ねる。
「姉が拗ねてるだけです。親友の苑ちゃんが、自分に黙って大学辞めたからって」
「なるほど」
ひとつ頷いて、一瀬さんは洗い終えた食器を白い布で丁寧に拭き上げていく。
「あ、私やります」
「そうですか?」
手を差し出すと白い布が渡されて、私は洗いあがりの食器を入れている籠に手を伸ばした。私が拭いて、一瀬さんに手渡すとそれを食器棚に並べてくれる。食器棚の高いところは私では届かないところもあるから、なんとなくできてきた仕事の流れだ。
紋様が綺麗に描かれたソーサーを拭きながら、私は客席にいる二人にまた視線を向ける。
「お姉ちゃんって、私から見たらすごく大人っぽいのに。なんか、苑ちゃんといる時って甘えん坊に見えます」
「ああ……本当ですね。こうしてみると、雰囲気が綾さんとお姉さん、よく似て見えます」
「……あの。それってどういう……」
それって私が見るからに甘えん坊ってことでしょうか。その通りだけどまさか一瀬さんにそんな風に言われるとは思わなくて、ちょっと唇を尖らせて拗ねた顔で拭いたお皿を一瀬さんに差し出した。
すると、一瀬さんがふっと苦笑いを零してお皿を受け取る。
「……そっくりですよ、その表情」
言いながら視線を姉がいる方へと向けた。見ると、姉も私と同じように唇を尖がらせたまま上目使いで苑ちゃんを睨んでいた。
「あんなに思いっきり、拗ねてないですもん」
そう言って、きりっと表情を引き締めて見せる。すると、一瀬さんはいきなりくるっと背中を向けて、「ぶふっ」と吹き出し肩を震わせた。
「ちょっ……ひどいですそんなに笑うなんて」
「なになに、えらく楽しそう」
恥ずかしくなって、顔が熱くなったところに片山さんも厨房から顔を出す。私はまだ肩を震わせる一瀬さんを指差して言った。
「マスターが笑うんです、私が甘えん坊だって!」
「え、それ今更笑うとこ?」
「片山さんまでひどい!」
確かにそうだけど、ずっと甘えてたけど!これでもちゃんとお姉ちゃんや悠くんから卒業しようと頑張ってるのに!
そう思いながら、結局口元が自然と尖がる私は、きっと間違いなく子供っぽい。だけど、そんな私を見て片山さんはもちろん、一瀬さんまで楽しそうに笑ってくれたから、なんだか少し嬉しかった。
最初は怖いだけだった一瀬さんが、この頃ちらちらと笑った顔を見せてくれることが多くなった。だから、私は今のこのお店の空気が、とても好きだ。
少しずつお客さんが増えてきているのも、そういうのが案外お客さんにも伝わってるのじゃないかなって思う。最近よく来る若いカップルさんも、カウンターで私や一瀬さんと話しをしてくれて、楽しいと言ってくれる。
カフェのメニューやブーケは勿論、こんな風にお店の空気に惹かれてお客さんが来てくれるっていうのも、いいなって思えた。
「わあ、綺麗! いい香り!」
姉の少し興奮したような高いトーンの声が響いて、はっきりと耳に届いた。見ると手を口にあてて肩を竦ませながらも、ブーケを片手に嬉しそうに笑っている。
「あ……あれ、お姉ちゃんにだったんだ」
拗ねている姉のご機嫌をとる為のブーケだったのかと気づいて、ちくりと棘が胸を刺す。姉への贈り物に、イキシアを選んだ苑ちゃんの気持ちが、せつなくて少し怖くて。
私が悠くんにパンジーを贈ることを最後に恋心を昇華させたみたいに、苑ちゃんは親友でもある恋敵にイキシアを贈ることで、決着をつけようとしてるのかもしれない。
だって、苑ちゃんが姉を見る目はとても恋敵に向けるような鋭さはなく、いつもどおりとても優しい。
それは……恋よりも友情を取ったと、そういう意味なのだろうかと。お姉ちゃんの手の中で、叶わない「秘めた恋」が薫り高く、窓越しに光を受けていた。
「あ、悠くん」
不意に姉が窓ガラスの向こうに手を振った。そのことですっかり二人の空気に魅入っていた私は、はっと我に返る。入口に目を向けると、姉に気付いた悠くんが手を振りながら入ってきた。
「あっ……」
悠くんの姿を認めた途端、今まで柔らかだった苑ちゃんの表情がふっと消える。私はグラスに水を汲みながら、胸が痛むのを感じて唇を噛んだ。
「大丈夫? 綾ちゃん」
「えっ?」
「いや……俺が行こうか?」
片山さんが心配げにそう尋ねる意味が、一瞬わからなくて首を傾げたが、すぐに思い至った。悠くんに失恋したばかりの私を慮ってくれたのだ。そしてそのことが少し、自分でも意外なことに気付かせてくれた。
「大丈夫です、私は」
「そう? でも今……」
泣きそうに見えたから、と語尾は顔を近づけて耳元で小さく囁いた。泣きそうになっていたことを、知られないようにそっと話してくれる片山さんの優しさに思わず頬が緩んだ。
「大丈夫です、ほんとに」
せつなかったのは、私の失恋に対してではなく、苑ちゃんの気持ちを想ったからで……自分自身の痛みではなかったことに気が付いた。
それはきっと、このカフェの存在のおかげに違いないけれど。毎日この店に通って、優しい空気に触れて自分に出来ることを見つけて……姉や悠くんに依存していた心が少しずつ自然に、離れることが出来ているんだ。
「ありがとうございます。何気に優しいですよね片山さんって」
銀のトレーに水の入ったグラスを乗せて、ふふ、と笑ってみせると、片山さんはちょっと頬を染めて。
「俺は女の子にはいつも優しいの」
と、照れ隠し丸出しの発言をした。
「はい、そうでした。いつも優しいですよね」
初めて片山さんを揶揄できる立場に立ったとちょっぴり優越感を抱きながら、水のグラスを持っていこうと踵を返す。すると、悠くんが二人に手を振ってテーブルを離れるところだった。
「あれ? 悠くん、帰っちゃうの?」
少し大きめに声が届くように尋ねると、悠くんはこちらを向いて私にも手を振ってくれた。
「姿が見えたから寄っただけ。ごめんね邪魔して」
そう言って、足早にお店を出て行った。
「なんだ。一緒にご飯でも食べに行くのかと思った」
グラスの乗ったトレーをカウンターに戻しながら、私は少しほっとしたことは否めない。あの三人の構図が少し前の私達三人に見えて、私と同じ立ち位置になる苑ちゃんの気持ちを想うと少し胸が痛かった。
もう一度、悠くんの去った二人のテーブルに目を向ける。私はそこで、まるで映画のワンシーンのような一瞬に目を奪われた。
「……」
声が出ない。苑ちゃんからはさっきの悠くんがいた時のような、棘さえ感じるような無表情は消えていた
手元の花の香りに恍惚として目を閉じる姉の横顔に、そっと伸びていく細い指先。
苑ちゃんの横顔はまるで何かを慈しむように和らいでいる。
その横顔が、誰かのものに重なる錯覚に、私は目を瞬いた。
「綾さん? どうかしましたか」
一瀬さんのその声も、確かに聞こえているのになんだか遠くて、すぐには反応できなかった。
指先が頬に触れて、気づいた姉が顔を上げる。何かを拭うように親指が動いて、すぐに離れていった。
「綾さん?」
「あっ、はい! すみません、なんでもないです」
もう一度尋ねられて慌てて一瀬さんに向けて頭を振った。そしてすぐに視線を戻すと、苑ちゃんが親指を見せて二人で笑い合っていて、その仕草で多分睫毛か何かを取ってあげていただけだと気づく。
私が惹きこまれたさっきの空気は、綺麗に霧散していた。
「気のせい……?」
横顔が、姉を見る悠くんの横顔と重なった、あの一瞬。もしかしたら、苑ちゃんが好きなのは悠くんじゃ、なくて。なんて。
勝手な想像だ、だけど……もしそうなら。
苑ちゃんがイキシアの花言葉どおりに内側に秘めて隠した気持ちは、私が思うよりもずっと、苦しい。
「……そうだ、綾ちゃん」
一度は返事をしたものの、未だ呆けたように二人を見つめる私に今度は片山さんが声をかけてくれた。
「パンケーキ食べる?」
「え……えっ?」
「プレートの種類増やそうかなって提案してたんだよ。パンケーキなんかもうどこも定番だろ。味見係の綾ちゃん、頼むな」
「ええっ! 試作の度に私が味見するんですか? 絶対太りそう!」
味見係が私の仕事みたいな片山さんの言葉に、思わず抗議の声を上げる。甘いものは、大好きだ。だけどそんなことしてたら、ひと月後には今の服が入らなくなってる気がする。
そんな私の言葉は無視して片山さんは「いいからいいから」と、厨房に戻っていった。多分すぐに、甘いケーキの香りが漂ってくるはずだ。
「それじゃあ、紅茶でもいれましょうか」
私達のやりとりを見て、一瀬さんが紅茶の茶葉の缶を選び始めた。よっぽど、泣きそうな顔でもしていたのかな。優しい二人に私はすっかり甘やかされてる気がする。
三人全員分のカップを選んでカウンターに並べながら、私はもう一度窓辺の二人に目を向けた。笑い合う二人の姿を見て思わず零れたひとりごと。
「……好きって難しい」
苑ちゃんの恋の相手が誰なのか、どちらにしても秘めると決めたのなら告げられることはないのだろうと思う。
好きな人が、想いを返してくれるとは限らない。
誰かの恋が実ったら、誰かの恋が終わる、それはごくありふれた、どこにでもあるせつなさで。
どこにでもある、胸の痛み。
姉の手から離れたイキシアの花が、テーブルで陽光を浴びる。
秘めた気持ちは、光に照らされることはないのだろうに。
「イキシアの花言葉」 End
次話「ピンクのバラの花束を」
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