第3章 9

階段を上りきるころには、息が上がっていた。膝には乳酸が溜まるような感覚があり、ガラスに反射したわたしの頬は、ほんのりと赤く上気していた。 運動不足が祟っただけの話だが、そんなことはどうでもいい。

屋上への扉に鍵がついているのを見て、わたしは少し不安に思う。この鍵はかかっているのだろうか。しかし、手をかけて開けてみると、存外すんなりと扉は動いた。教室の扉のほうがよっぽど重く感じる。不用心なものだ。もっとも、中学校に侵入するのに屋上まで這い上って侵入する不審者というのもなかなかいなさそうだけれど。あるいは、昨日の戸締り担当の先生が確認を忘れたか。まあ、いずれにしろ屋上に入ることができたには変わりない。わたしは制服が汚れるのも構わず仰向けに横たわる。背中に当たるひんやりとしたコンクリートの感触が妙に心地よかった。

 空はどんよりと曇っていて、いつ雨が降り出してもおかしくないようだった。登校してくる時よりも、雲が低く近く感じるのは、単にわたしが高い位置に来たからというだけではなさそうだ。もし雨が降り出したら、屋根のないここにはいられない。その時のことを考えて億劫に感じたけれど、その時はその時だと考える。

 そういえば、この一週間で晴れた日があったろうか。ないような気がする。いや、そういえば月曜日は晴れていた。嫌味なくらいの快晴だったと記憶している。そういえば、あの日からわたしは避けられたのだと思い出す。まだ数日しか経っていないのに、もうずっと昔のことのような気がする。

 つむじ風が周囲をさらう。少し肌寒い。わたしは身を委ねる。髪の毛がなびく。制服が乱れるのも気にならない。スカートも捲れて下着がむき出しになるけれど、そんなことはどうでもよかった。

 この風にさらわれて、どこか知らない場所にでも飛んでいきたいなって思った。わたしの知らない人しかいない世界。わたしの知らない人――単にわたしが知らない人という意味だけでなく、人もわたしのことをしらないという意味も含んでいる。そんな場所に行って、自由気ままに生きたい。そんな場所でいろんなことをしたい。

 そこまで考えて、わたしはわたしの思いに驚く。わたしがこういうとき、良い気持になりたいときに想像するのは、死の妄想のはずだ。妄想の中で一回死んで、心をリセットして、気持ちを落ち着かせるのだ。でもいまわたしは、生きたいなんて考えた。風に乗って、知らない場所で生きたいなんていう、妄想――というよりは希望を思い浮かべた。普段は、ずいぶんと暗い妄想をするものだなと自分でも思っていたけれど、こういう暗い気持ちのときにはむしろ、明るい希望を思い浮かべたいものらしい。そう思って、なんだかわからないながらも虚しくなる。

 仮に、わたしが死んだとしたら、悲しむ人はいるのかしらん。母は悲しむだろう。彼は、悲しんでくれるだろうか。みんなが言うように、わたしに対しての気持ちが遊びなら、さして悲しまないような気もする。元カレは、どうだろう。わたしと別れてから新しい女の子ができたという話は聞かない。狭い学校だ。あれだけの人気者に彼女ができたらそんな噂はわたしのところまでやってくるに違いないし、そんな噂を聞かないところを見ると今もフリーなのだろう。元カレは、少しくらい悲しんでくれそうかな、なんて思う。ほかに悲しんでくれそうな人は思い当たらなかった。ニュースなんかで放送されれば、いじめが原因で死んだ女子中学生というレッテルを張られて、同情、憐憫、哀れみ……なんていう視線を浴びるのだろう。それも三分と保たないに違いないけれど。あるいは一部の教育評論家なんかが薄っぺらい議論を交わすかもしれない。ハッ、くだらない。

 学校のみんなは、わたしが死んだら少しくらい責任を感じてくれるのかな。いや、一生後悔を背負い込ませるくらいのトラウマを植えつけるくらいでないと、一人の命を投げ出すには代償が軽過ぎる。でも、もしかしたら、わたしが死ねば一矢報いることができるかもしれない。みんながわたしをからかってくるのは、単にふざけているだけなんだと思う。一人をコケにして、みんなで笑って楽しんでいるのに過ぎないのだろう。それなら、自分たちは遊びだとしても、そのせいで一人の人が死ねば、その罪悪感は計り知れないのではないか。その人の一生を縛り付けるくらいには。

 そう考えると、死という選択肢は、妙に魅力的なものに思えてきた。ふいに、死にたい、死んでみたいなんていう気持ちが、心の中で無性に膨れ上がった。眦から、熱くて冷たいものが頬を伝って流れ落ちた。一滴、二滴。

バカバカしい。なんの涙だというのか。今後に及んで、まだ現世に未練があるのか。

 そう考えて、わたしは彼のことを思い浮かべる。

 ごめんね、と呟く。

 彼が実際、わたしをどう思っていたのかはわからない。でも、わたしは真剣だった。中学生の、バカっぽい、幼い、ままごとみたいな、そんな真剣かもしれないけれど、少なくともわたしにとってはガキなりの本気だったし、欺瞞だらけの生活の中で唯一の本物だったのかもしれない。彼と一緒に歩いて、彼と手をつないで、彼と唇を重ね、彼と体を重ね……そうやって関係を深めてきた。ちゃんと段階を踏んで、心を開いた。わたしの中で唯一の本物、そんなものを疑うのは、わたしにはできない。わたしは彼を信じる。わたしは本気だし、きっと彼だって本気だ。いや、絶対に本気だ。彼と寝たときの暖かさが、偽物だなんてありえない。

 みんなには、SEXなんてしていない、と言ったけれど、そうやって嘘をつくのもつらかった。彼に対する気持ちは、胸を張って言えるものだから。

彼とは体の関係まで進んでいるけれど、もちろん最初からそういう関係を望んでいたわけではない。むしろ最初は、ちょっとした好奇心だった。元カレと別れて、寂しく感じる毎日でも、連絡を取りたいときに取り合えるような都合のいい人がいれば、すこしは寂しさも紛れるかもしれない。そういう一瞬の気の迷いのつもりだった。それが気づいたら、彼の人柄に惹かれ、本当は会うつもりもかなったのに実際に会って、デートもして、キスも交わして、初めてのセックスまでしてしまった。そのことについて、わたしはまったく後悔などしていない。二人で肩を並べて、知らない世界にちょっとずつ踏み込んでいくような、そういう感覚もあって、心の底から楽しかった。

 わたしは立ち上がって、屋上の淵まで歩く。緑色のフェンスがあるけれど、乗り越えようと思えば何も差し支えない高さ。わたしはフェンス隔てて、その外を見る。周りを高層ビルに囲まれているせいもあるのか、屋上にいてもそんなに高さは感じなかった。真下を見下ろす。ここは五階相当の場所だけれど、それでもやはり怖さはなかった。足から着地すれば、あるいは生きていられるんじゃあるまいか。それに、いまなら、どこまでも飛んでいけそうな気がした。

 わたしはフェンスに手をかける。次に足をかける。そうして、もう一方の手もフェンスにかけようとして、しかし網目をうまく掴めない。わたしは手元を見ようと上に目をやる。けれども、目に入ったのは、自分の手でなく、どんよりとした曇り空。視界がぐるりと回って足元が竦んだ。腰から下が自分のものでないような気がして、目をつむってゆっくり足を下す。できるだけ、そろりと足を地面につけたはずなのに、膝から下あたりが、じーんと痛んだ。わたしは目を開け、改めて真下を見て腰を抜かした。頭が冷える。さっきまで何を考えていたんだろう。こんなところから飛び降りて、生きていられるわけがないではないか。死にたくない。わたしは、自分の体が震えるのを感じた。

 さっきはいろいろ考えて気分が高まっていたけれど、無理だ。冷静になってここから飛び降りるなんて、わたしにはできない。わたしにそんな勇気はない。

 わたしは今度こそ地面にへたり込んだ。いつもしている妄想のなかで、飛び降りを想像したこともある。でも、それは実際に飛び降りようとした経験がないからこそできるのだと思った。実際に切羽詰まって、本気で飛び降りようとしたことがあれば、あんな妄想はできない。できたにしても、それで心が晴れるなんてない。いま、わたしにあるのは、恐怖だけだ。数秒前の自分が考えられなかった。

 わたしはふと、月曜日の朝にテレビで流れていたニュース番組の報道を思い出す。

 いじめを苦に学校の屋上から飛び降りて自殺した中学一年生の彼は、この恐怖に打ち勝ったのだ。わたしは、年下の見ず知らずのその子に、口惜しさやら尊敬やら畏怖やらといった気持ちの入り混じったよくわからない感情を抱いた。

 わたしより年下なのに、その子はわたしより強い。その強いものが、憎しみなのか、覚悟なのか、劣等感なのか、あるいは全部なのか、はたまた全部違うのかは、わたしにはわからないけれど。少なくとも、わたしとその子との精神力とか忍耐力とかは、さして違わないような気がする。忍耐力とかが強ければ、自殺はしようと思わないはず。

 なんて、取り留めもないことを頭に浮かべていると、遠くでチャイムの音が聞こえる。校舎に掛かっている時計に目をやると、どうやらお昼休みに入ったらしい。

 ポツンと、右手に滴が垂れた。見上げると、もっさりとした雨雲は、一層暗さを増していた。雨が降り始めるみたいだ。わたしは口の中で舌打ちする。さて、どこに行こう。教室には戻りたくない。

 屋上の扉を開けて、階段を降りる。登りに比べて幾分楽だなと思いながら足を動かす。屋上から一フロア下の踊り場に着いて、曲がり角を曲がったところで、人とすれ違った。わたしのカバンが引っかかって、腕が持っていかれる。すみませんと言ったつもりだったけれど、それが言葉として外に発せられたかは分からないくらい小さな呟きだった。わたしは顔を下に俯かせたまま、そそくさと立ち去ろうとする。

「ねえちょっと!」

 そう、大きな声で言われて、体がびくりとした。女性の声だ。

 恐る恐る顔をあげると、そこには目を見開いて、なぜか悪戯のばれた少年のような顔をした元カレのストーカーさんがいた。

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