第3章 10
わたしはただ、彼女に付いていく。人通りの少ない通路を歩いてくれるのが、わたしにとってはありがたかった。話があるから二人きりで話そう、そう言われた時の物腰は、噂に聞いていたものよりも穏やかだった。元カレと付き合っていたとき、このストーカーさんの噂はよく耳にしたけれど、実際に顔を合わせるのは初めてだった。鼈甲みたいな色の深みのある蝶の形をした髪飾りが特徴的だった。
彼女が止まったのは、一階の階段下。普段は物置にされていて、誰も来ない場所らしい。置かれている荷物の上にうっすらと積もった埃がそれを物語っている。床も、歩くたびにちょっとだけ足跡が残る。確かにここなら、二人きりになれそうだ。
「こんな場所、あったんですね」
「そうなの。アタシも、あんまり大勢の前だと居づらい感じだからさ、隠れ家の一つくらい持ってないとね。ちょっと何かあっただけでストーカー扱いだし、やってらんない」
『も』という助詞に、少しだけイラつく。わたしを一緒にしないでほしい。しかし、よく考えれば、わたしも教室にいられなくて屋上に逃げたのだ。彼女も、ストーカー呼ばわりされて、それで居場所を失ったのだろう。
「それで、話って何ですか?」
「あ、最初から核心を突いてくるんだ」
「回りくどい話をしたって仕方がないかな、と」
「ま、それもそうね」
そう言って彼女は、埃にまみれた荷物の上に腰を下ろす。
「あなたも座れば? お世辞にも綺麗とは言えないけどね」
ついさっきまで、屋上で横わたっていたのだ。いまさら汚れなんか気にしても仕方がない。わたしも近くにあった埃まみれの何かの道具を引き寄せてそれに座る。彼女と向かい合わせになる。
「アタシがあなたに用事があるって言ったのは、事実確認をしたかったの」
「事実確認?」
「そう。あなたの噂が、どれくらい本当のことなのか」
わたしは感じる。きっと、この人も被害者なのだ。クラスの中でストーカーと呼ばれて、最初は些細なことなのに、噂が噂を呼んで、ハブかれて。
わたしの沈黙をどう捉えたのか、彼女は言う。
「アタシがみんなにストーカー呼ばわりされてるのは知ってるでしょ。あなたもそう思ってるのかもしれないけどね。でも、少なくともアタシは、自分をストーカーだなんて思ってない。もちろん、自分のことだから、自己評価が甘くなっちゃうのは仕方ないと思うけどね」
訥々と語りだした彼女の表情は愁いを帯びていて、とても一つ年上とは思えないくらいに妖艶な雰囲気を醸していた。もしかしたら、ここが暗い場所であることも原因の一つなのかもしれないけれど、そんなことはどうでもいい。
「事の発端は何だったんですか?」
「そこ聞いちゃう? うふふ。まあ、隠すようなことでもないけどね。アタシはあなたも同じだと思ってるの」
「はあ」
「まあ、たしかに、好きな人に執着してしまうところがあるのは認めるし、それで迷惑をかけてしまったこともあったし、これからもアタシのこの気持ちが原因で迷惑をかけることもあるんだろうなって思う。不本意だけどね」
彼女はそう言って足を組んで、わたしの元カレの話をし始める。
「最初は、アタシの片思いから始まったの。まあ、ずっと片思いなんだけどね。家の方角が同じっていうこともあって、偶然電車の中で会うことも一回や二回じゃなかった。一年生の時は同じクラスだったし、顔を合わせればよく話した。でも、アタシの態度が露骨だったみたいね。好きなのがバレちゃって、そしたら、少しずつ距離を置かれるようになっちゃったの。アタシは何回も聞いた。なんで? アタシが何か悪いことした? ってね」
「それで、ストーカー扱いですか?」
「ううん、さすがにそこまでシビアじゃないよ。あのね、それから、アタシは手紙を机の中に入れてきたの。『なんで、振り向いてくれないんですか。どうして、避けるんですか。追いかければ追いかけるだけ、貴方は離れていくんですか』って。そしたら、その手紙を入れるところを、同じクラスの女の子に見られてたみたいでね、告げ口されてみんなに広まっちゃった」
彼女はそこで一回言葉を切った。
さっきまではあった余裕も、いまはもうなさそうだった。目つきが真剣だった。
「内容だけ見たら、確かにストーカーじみてるよね。今では反省はしてるんだ。でも、取り返しはつかないの。今から考えたら自分が馬鹿だなって思う。一時近くにいたいがために、そのせいでずっと近くにいられる機会をなくしてしまったんだから。一年生の時に電車の中で偶然会ったのも、アタシが後をつけてたんだって思われちゃったみたい」
「そうだったんですね」
「そう。だから、あなたと付き合ったって聞いたときは驚いたし、ショックだったし、死にたかった。あの人はただでさえモテるし、いろんな可愛い子からアプローチもされてた。それでも、女の子には興味がないって素振りをしてたのに。あなたにはぞっこんだったみたい。傍から見てても分かった。あなたのことが本気で好きなんだなって」
「だから、わたしのことが気に入らない、と?」
「ふふ、そうね。嫌いだよ、あなたのこと。でも、ひとつ謝らないといけない」
「謝る……?」
「うん。あなたがスカイツリーのフードコートにいる写真、撮ったのアタシだから。こんなに大げさになるなんて思わなかったけどね」
わたしは彼女のつけている髪飾りを見る。そういえば、この綺麗な髪飾りには見覚えがあった。
「あ、こういうと胡散臭いけど、あの日アタシがあそこにいたのは偶然だからね」
「そうなんですか」
わたしは、そう聞いても特に何とも思わなかった。もちろん、腹を立てていないと言えば嘘になるが、今となっては誰が犯人かなんてどうでもよかった。
それに反して、少しイライラしているのは彼女のほうに見えた。
「ねえ、なんであなたそんなに冷静でいるのよ」
「いや、先輩を怒って、今のクラス内での状況が解決するならいくらでも怒りますけど、そんなことはないですし」
「ふうん、まあいいや。それで、あなたはどうなの? 一緒にスカイツリーにいた人は、彼氏なの? それとも本当にワンナイトラブかなんかの相手なの? 援助交際なんて噂が流れてるけど」
ああ、そういえばこの人は、わたしの話が聞きたかったと言っていたな。
「彼氏ですよ。援助交際なんかじゃありません。わたしは本気ですから」
それを聞くと、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そうなの。少し、安心した。でも、許せない。」
彼女は歯を固く食いしばって、こぶしを握り締めていた。
「あの人は――アタシの好きな人は、あなたと別れてから、本当に塞ぎ込んでいたの。あんなに明るかった人が、毎日落ち込んだ顔で登校してくるの。見てるアタシまで辛かったのに。あなたはどこで知り合ったか知らないけど、大人の人と付き合ってて、幸せそうにしてて……っ」
彼女の顔は、最初のころとは打って変わって憎しみに歪んでいるように見えた。雰囲気にも余裕はなく、焦燥感があった。
「でも、あなたには関係ないですよね」
そう答えると、そこで堪忍袋の緒が切れたらしい。彼女は唐突に立ち上がると、わたしの制服を掴んできた。わたしは必死に抵抗したけれど、力は向こうのほうが強かった。髪の毛を掴まれて床に引き倒される。髪の毛を掴まれると抵抗できないものなんだなとわたしはそんな見当違いのことを考えていた。何が何だかわからなかった。彼女は言葉にならない言葉を口から発しながら、わたしに対してマウントポジションをとる。髪の毛を抑えつかられながら、平手が飛んでくる。一発、二発、三発……。
「あんたからあの人のことをフッたくせに、偉そうなこと言わないでよ! あの人は、学校の人気者で、誰からも好かれているのに、その人と付き合ってて、それでもその人をフるなんて、考えられない! 人でなし! 偉そうに! むかつく」
そう言って何度も何度も手が飛んでくる。歯を食いしばっていなかったせいか、口の中に血の味が広がった。
わたしは抵抗することもなく、なされるがままにしていた。ただ、涙だけが落ちた。
でも、彼女の言っていることは間違っていない。元カレと別れるとき、別れを告げたのはわたしだった。
わたしは寂しがりやで、誰かに構ってほしいと心の中では思っている。それを隠すのに強がったりすることもあるけれど、恋人には甘えたい。そんなわたしにとって忙しい元カレの存在は、好きになれば好きになるほど辛い存在だった。惹かれていって、好きになって、でも、一緒にいたいと思っても、連絡を取りたいと思っても、彼が空いている時間は本当に微々たるもので、好きになるほど辛かった。
だから、わたしは別れを告げたのだ。好きだけど、いや好きだからこそ、大好きだからこそ、別れましょうって彼に伝えたのだ。彼は、渋っていたけれど、最終的には分かってくれた。もしかしたら、部活とかのほうを諦めてくれるかな、なんて気もしたけれど、そうはしなかった。
頬が痛い。叩かれている頬が痛い。彼女も疲れてきたのか、最初は鋭かった音も、今は鈍く響いている。彼女も泣いていた。
ばか、ばか、ばか、そう言いながら、泣いてわたしを叩く。
わたしは気が遠くなりそうだった。
「おい、なにをやっているんだ」
その声は、低く小さいながらも、階段の下で鋭く響いていた。
わたしを叩いていた手が止まった。その止まった手を見ると、少しだけ赤く腫れていた。
声の主は先生かと思った。
しかし、そちらに目をやると、そこに立っていたのは、さっきまでわたしたちが話していた張本人。
わたしの元カレが立っていた。
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