第3章 8

 わたしはお昼休みになると、お弁当を持ってトイレに行くことにした。とてもこんなところにはおられなかった。個室に閉じこもって、一人だけの環境にいれば、少しは気持ちも落ち着いた。トイレで食べるお弁当は全くおいしくなかったけれど、教室で白い目を向けられながら一人で食べる味のしないお弁当よりはよっぽどマシ思えた。

 教室に戻ると、わたしのほうを見て会話し始める人たちもいた。

「え、あのビッチ女、どこに行ってたわけ? ずっと教室にいなかったよね」

「たしかにー。あ、でも、女子トイレの一番右の個室、ずっと鍵かかってたから、そこにいたんじゃない?」

「マジで。あんなところに隠れてんの。クッサ。今度、上から汚物でも撒き散らしてみようか」

「あはは。でも、やめときなって、掃除当番がかわいそうだから。それに、あいつみたいな肉便器に汚物撒いても、なんとも思わないって。普段から男の汚物にまみれてるんだから」

「あ、それもそうかー! ま、便器は便器同士仲良くさせてあげればいいかな。類は類を呼ぶ的な?」

「それいいね、きゃはは」

 なにがきゃははだ。そんな下らないことで盛り上がって、クソガキめ。

わたしは顔を机に伏せたまま相手になってしなかったけれど、そんなふうに心の中で悪態をつくのが、せめてもの強がりだった。


 金曜日、わたしは朝早く学校につくと、教室に入ることができなかった。誰もいない教室に向かって歩いて、誰もいない教室の前で扉を開けようと手をかけたけれど、どうしても開けられなかった。その扉は、まるで凍り付いているかのように冷たく固く閉ざされていた。いや、動かないほど重かったと言ったほうが、適切かもしれない。物理的に、ではない。精神的に、だ。

教室に入りたくなかった。教室に入ってしまえば、もう出られなくなる。一歩足を踏み出すたびに、足が重くなる。教室を出たくても、逃げるところを誰かに見られたくないという、なけなしの矜持がわたしを支配して、教室にとどまる。そのうちに、わらわらとクラスメイトが教室に入ってきて、いよいよ自分の机に伏せたまま身動きが取れなくなる。それを分かっていたから。この一週間、毎日そんな日々を過ごしていたから。周りのみんなにまた白い目で見られて、一挙手一投足ごとにわたしに対する罵詈雑言が教室に飛び交う。想像するだけで吐き気を催した。こんな教室にはいたくない。もしかしたら今日こそ、暴力を振るわれるかもしれない。今日こそ、もっとひどい仕打ちに遭うかもしれない。頬を伝って、涙が音もなく、一滴だけ手首らへんに落ちた。

 わたしは手をひっこめて、踵を返した。たしかに、あと一日耐えれば、土日が来る。嫌でも学校は休みだ。そう思ったけれど、もう一日も耐えられそうになかった。

 そうはいっても、今度は行く場所がない。わたしはどこに行こうか迷った。帰るわけにはいかない。まず、下駄箱に行けば生徒の誰かとすれ違うかもしれない。そうすれば、わたしは逃げたと思われる。事実だとしても、それだけは嫌だった。それと、帰ったにしても、この時間だと母はまだ家にいる。母に心配だけは掛けたくなかった。もしかしたら、このことがバレたら年上の彼氏のこともバレてしまうから、という保身もあるのかもしれないけれど。いずれにせよ、学校の外に出るという選択肢は考えられなかった。

学校の中にいて、誰の目にもつかない場所。そんな場所は、わたしには屋上しか思いつかなかった。

 わたしは、屋上に上がる階段までの道のりを歩く。道のりとはいっても、三十メートルほどしかないのだけれど。しかし、今のわたしには、この三十メートルが非常に長く感じられた。ここで誰かがやってきたら……、そんなことを思うと気が気じゃなかった。足は間違いなく階段に向かって歩いているはずなのに、階段はむしろどんどん遠ざかっていくような気がする。はやくはやくと気だけは急いているのに、走り出すにしては、あまりに足が重かった。真夏でもないのに冷や汗が額を濡らす。脇のあたりにも汗が伝うのを感じる。ほんのちょっぴり、制服が肌に張り付く。心臓の鼓動は、足の動きと反比例するように早い。

 ようやく階段に辿りついたとき、わたしはホッとしてへたり込みそうになった。もちろん、こんなところで誰かに見つかってもいけないので、そんなことはしないけれど。

 わたしはゆっくりと階段を上がる。足取りはほんの少しだけ軽くなった気がするが、たぶん気のせい。わたしたち二年生の教室は三階にあるから、屋上まではあと三フロア上がる必要がある。わたしは一段一段踏みしめる。みんなの悪口を踏みにじるように。あるいは、心の中のモヤモヤした気持ちを振り払うように。わたしがそうして歩くたびに、コツンコツンという拍子抜けしたみたいな音が、悲しく空間に吸い込まれていく気がした。

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