(3)だから僕は、彼女を愛する

 大学卒業を目前に控えた3月、僕と結衣花は、横浜旅行を計画していた。計画をすすめる結衣花といったら、2ヶ月前には手書きの旅程表をつくり、僕にいちから説明し、説明しているうちにさらに旅行の実感をかきたて、とにかく、とても興奮していた。

 僕は、のりのりでデートや旅行の計画をする結衣花を見ていて、子供のような彼女の感覚に感心していた。テレビや雑誌でよく見るような、デートプランは男が考えるべきと主張するふつうの女子とは、やはり一線を画していた。

 楽しみだから、考える。結衣花にとって、ただそれだけのことなのだ。

 僕だってもちろん楽しみで、彼女がつくったプランをくわしく調べ、ちょっとしたお店を提案するくらいのことはした。

 こうして、二人で最高の旅行を計画した。


 しかし、運がわるかった。

 旅行の当日目を覚ますと、僕の喉の奥に、うっすらとした吐き気がひそんでいたのだ。僕は、年に1度かならず風邪を引くのだが、この吐き気はそういう日に出る症状だった。今はまだ大人しくしてくれているが、いずれ悪化するのは目に見えている。

 それでも、旅行に行けないほどではないし、中止になんてしたくない。僕はベッドから降りると、痛む頭を抑えながら支度をはじめた。

 自分が旅行に行けなくなること自体は、残念だけど、まぁ仕方がない。ただ、あんなにも楽しみにしていた結衣花のことを、悲しませたくない。そんな気持ちが、痛む僕を動かしていた。


 30分後、なんとか最寄り駅にたどりついたとき、やはり病というのは、気持ちでどうこうできるものではないということを思い知った。

 電車の中で乱雑に揺らされる僕は、自分の内臓や脳みそがめちゃくちゃに混ざり合っているような感覚で、痛みはないが、気持ち悪さに襲われていた。つまり、すぐにでも吐きそうだった。耐え切れなくなった僕は、腕時計を見て、一本後の電車でも待ち合わせ時間に間に合うことを確認し、途中の駅で電車を降りた。

 ゆがみつつある視界と、脳の血管のどくどくとした音を味わいながら、僕はトイレに駆けこんで、屈みこむ。身体の中からは何も出てこなかったから、吐くほどの状態ではないのだと安心した。本当のところは、僕の身体が朝食をとりいれていなかったから、出すものがない、というだけなのに。

 僕は、お世辞にもきれいとは言えないトイレの中で、息を漏らしながら、ゆっくりと目を閉じた。そして、結衣花の鳥のような声を、幻聴というかたちで聴いてみた。すると、わずかだが胸がすき、視界のゆがみと嫌な音が消えていった。

 目を開けた僕は、この風邪のことを結衣花に隠し通そうと心に決めて、そのおかげで、これは大変な旅になるだろうなと苦笑いを浮かべる。

 これくらいのこと、結衣花の笑顔のためなら何でもないと、あさはかな男らしさにひたっていたのだった。


 結衣花は、新幹線の改札前で、お行儀よく、ぴんと背筋を伸ばして立っていた。腰の部分がほそくしぼられているうすいキャメルのロングコートをまとう彼女は、傍から見ればしっかりとした淑女に見えるのだろう。

 が、そんな仮面の向こう側では、パレードのような音楽が奏でられ、たのしい光に満ちているはずだ。結衣花の仮面をすかして見ることのできる僕だけが、そのことをわかることができる。そう、たとえるなら、お行儀のいい犬。犬は、いくらお行儀がよかろうと、大好きな人とあそぶ時間を、いつもいつでも心待ちにしているものだ。

 そんな気持ちをくもらせたくない僕は、一向に消える気配のない吐き気を飲み込んで、彼女に駆け寄り、おはよう、と、ごまかしの笑顔をつくった。

 が、瞬間、結衣花のまゆが、けげんに傾いた。

「え? なに? 体調わるいの?」

 僕は、驚いて、でも正直に言うわけにもいかなくて、どぎまぎと言葉を返す。

「え? なんで?」

 彼女の目は僕を見つめる。

「なんか……元気なさそう」

「元気なさそうって……まだほとんどしゃべってないじゃないか」

「まぁ、そうだけど、なんとなく」

「気のせいだよ。元気、元気」

「そう? ……わーい、ついに横浜だね~!」

 内心、僕は彼女のするどい嗅覚に、そうとうめんくらってしまった。だけどそれを表情にださないよう努力しながら、名古屋から旅立つための改札をくぐっていった。


 が、そんな努力はまさに無駄で、僕のつよがりはとたんに霧散した。駅のトイレでやわらげたはずの頭痛が、再び姿を現してしまったからだ。

 新幹線のホームでは、あと10分で到着する予定ののぞみ号を待ちきれず、ホームを降りて、トイレに駆け込んでしまった。

 さらに、新幹線の中ではつねにぐったりと浅くすわって、いつも以上に口数を減らしてしまった。

 だんだん、僕の症状に気づいていく結衣花。彼女は、悲しそうな目をつくって、僕のことを気遣い始める。

「ねぇ、やっぱり体調悪いんだよね?」

 どうやら僕は、せっかくの旅行を台無しにしてしまったようだ。僕のことをよくしっている結衣花に隠し通そうなんて、土台無理な話だったのだ。

 いや、ばれた原因はそれだけではない。彼女の前でにせものの態度を維持できず、自然体でいてしまわざるをえない僕自身にも、原因はあるのだ。

 僕がしぶしぶ認めると、結衣花は、え~っ! と明るい溜息をもらした。

 やはり、ショックを受けている。

 だが、それはあくまで明るい溜息だった。だから僕は、その感情が読み切れず、 それでも探るだけの体力がなくて、新幹線の座席で眠りに沈んでいった。

 あとは、ぼんやりとしたせかいがつづいた。とはいっても、激痛が身体をめぐっているから、けっして楽な時間ではなかった。

 新幹線を降り、ホテルに向かった。チェックイン前に荷物を預け、有名なカフェに行くプランがあった。

 しかし結衣花は、ホテルマンとかけあって、どうやらとくべつにアーリーチェックインをさせてもらえるよう、とりはからってくれた。

 彼女が楽しみにしていた、チョコレートケーキが有名なカフェ。グルメサイトをこれみよがしに見せつけて、にこにこしていたあの表情。

 僕は、身体と同時に心をいためつけられながら、ホテルのベッドで眠りについた。


 ぼんやりとした夢のせかいから目覚めると、隣のベッドに結衣花がちょこん、と座っていた。彼女はサンドイッチを口いっぱいにほおばりながら、ひな壇芸人が騒ぐ夜のバラエティ番組を見て笑っている。霞む視界の中で、楽しそうに食事をしている。

 そのバラエティ番組は、毎週土曜日、夜の19時に放送されるものだった。

 今朝新幹線に乗りこんで、僕の風邪のことを結衣花が確信するすこし前。朝食のおにぎりをたべていたときの彼女の顔を、僕はぼんやり思い出す。あのときの結衣花は、横浜で待つ美味しいたべものと、明日行く予定のコンサートに期待をふくらませ、子供みたいな喜びを惜しみなく発散していた。頭痛を隠そうとする僕のとなりで、瞳をかがやかせていた。

 ふだんのデートが僕のせいで計画通りに進まないと、結衣花はすぐに不機嫌になる。それが君のだめなところで、同時にかわいいところなんだよって、僕はいつもからかってきた。

 そのはずなのに、どうして今、笑っているのか。少し考えると、胸が熱くなってきた。

「おはよう」

 僕がかすれた声で言うと、結衣花は口を閉じてもぐもぐしたまま振り向いて、なにか返事をしようとする。

「いい。飲み込んでからしゃべってくれればいい」

 僕が右手を掛布団から出して制すると、結衣花はその手をじっと見つめながら、しばらくもぐもぐとした後で、水といっしょにごくりと飲みこむ。

「おはようたーくん。気分はどう? ポカリ飲む? 体温、計る?」

 優しい声に、下がった眉。そして微笑み。不機嫌のかけらもない結衣花は、がんがんと痛む僕の頭に、ぬくい光を送り込む。

 遮光カーテンのすきまからのぞく窓の向こうでは、寒い黒の空の下、かがやくみなと街がちらちら煌めいている。眠っているうちに、とっくに日は沈んでしまった。

 ポットで沸かしたお湯に氷を入れて、冷たい水にしたものを結衣花は僕に差し出した。雑菌もカルキも飛んでいるから、とくべつ美味しいのだと言った。枕元に置きっぱなしにしてぬるくなったポカリより、僕の身体はそれを求めた。

「なんだか、もう治ったかもしれない」

 僕がそう言ってつよがると、結衣花は立ち上がり、バタバタと駆け寄ってきて、疑わしそうな目で体温計を押しつけてくる。

「そう簡単に治らないでしょ。わたしとは違うんだから!」

 意外にも、結衣花は人一倍身体がつよい。ここ数年、熱を出したことなどない。そのことを、彼女自身は誇りに思っているふしがある。

 風邪のつらさなんて知らないくせに、どうしてこんなに心配できるのか。

「まぁ、見てなって」

 根拠もなしに、僕は意地を張ってみる。結衣花はぷっと噴き出して、体温計が鳴るのを待った。

 やがて、ピピピピピ、と音が鳴る。体温計は、無情にも39℃を示した。

「ほらみい!」

 勝ち誇ったように、結衣花はぐい、と胸を張る。僕の風邪が治るのを望んでいるのか、そうでないのか、ごっちゃになっているようだ。

 セミダブルのベッド2つがすっぽり入ったせまい客室で、テレビの笑い声と、結衣花の笑い声と、僕のかすれた声がひびく。

 結衣花は、とてもナチュラルだった。心配も気遣いも、ナチュラルなのだ。僕の不調を、ただの風邪だと踏んでいるのが目に見える。笑顔も身ぶり手ぶりもいつも通りで、気兼ねなく会話を楽しんでいるのだと分かる。

「さっきたーくんのポカリを買いにコンビニ行ったとき、すごく美味しそうなクッキーを見つけたんだー。もう食べちゃったけどね」

 そう、結衣花はクッキーが好きだ。とくに、ざくざくしたタイプのものが。

 せっかくの旅行が丸1日つぶれてしまい、風邪ひきの男とホテルで過ごすだけの週末。結衣花はそれを、あたりまえに、ふつうに、楽しんでくれていた。

 あたりまえに、ふつうに、眠る僕の横にいてくれた。


 朝目覚めると、僕の熱は引いていた。

 結衣花は、風邪がうつらないように、ちゃっかりとなりのベッドで眠っていた。横向きになって、母親のお腹にいるあかちゃんのポーズで眠っていた。ひだりの二の腕と横顔だけが掛布団からはみ出して、しあわせそうな顔で眠っていた。

 僕は静かに、遮光カーテンを少し開いた。白と青の空の下、洒落たみなと街がきらきらと輝いている。

 僕には、根拠のない自信がある。

 きっと、しあわせになれる。きっと、仕事もうまくやっていける。いろんなことに、自信が持てる。

 それは、無条件に僕のことを好きでいてくれる人がいるからだ。

 どんなに格好わるいことをしようと、どんなに迷惑をかけようと、僕が僕である限り、結衣花は僕のことを愛してくれる。

 あたりまえに、ふつうに、愛してくれる。

 世の中には、お互いの長所を磨き、短所を指摘し、高め合う恋人たちもいると思う。だけど僕らはそれとは違うかたちで、ただしく成り立っているのだと思う。

 愛と自信をくれる結衣花のおかげで、僕はがんばれているのだから。

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ふつうの女性を、愛する理由 犬山 ホタル @First-class-HOTEL

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