(2)僕と彼女の大きなズレ

 僕と結衣花が付き合い始めて、4年が過ぎた。大学2年生になっていた。

 結衣花は、二人が楽しくあそべるように、デートの計画や旅行のプランを、僕よりも早めに、しかも深く、いつもいつでも考えていた。二人だけのせかいに没頭するのが好きらしかった。

 そのぶん、人並みに嫉妬もした。

 ふつうの女の子たちがそうであるように、僕が他の女の子たちと遊ぶようなことがあれば、やきもちをやくのだ。聞くと、僕のことを疑っているわけでもなければ、相手の女の子のことをにくらしく思うことはないらしい。それでも、どうしても感じてしまうというのだ。

 いやだ、と。かなしい、と。

 しかし、しばらくすると、そんな自分のことをみつめて、落ち込んでしまう。わがままなのかな、とか、こんなこと気にしなくてよくなれば、もっと大人っぽいのに、とか、考えているのかもしれない。

 僕は、それが理解できなくて、当初はとまどうことしかできなかった。でも、今はすこし、わかってきている。

 頭で分かっていることと、心で感じてしまうことを、分けて考えることができるのは、結衣花のいいところなのだ。

 おかげで、けんかもあったが、たがいに誠実に、思いやりをもって、接してこられた。

 毎週のように会い、なんの意味もない空気のような会話で、いつも笑うことができた。ほかのことで忙しいから会いたくないだとか、そういう気持ちが生まれたことは一度もなかった。

 僕の創作活動も、うまくいっていた。高校三年生のときには、全国の絵画コンテストで、あの斎藤貴志を破って優勝したし、結衣花の影響で進学した美大の工芸科では、独創的なアクセサリーをつくりあげては、いつもトップの成績を収めていた。

 しかし、すべてが順風満帆で、なんの問題もないというわけではなかった。

一種の刺激というものが、足りないと感じ始めていたのだった。

 

 ある晴れた夏の日。

 薄茶色の木の壁と、大きなガラス窓で包まれた喫茶店で、結衣花はいつものようにくだらない話をしていて、だけどそれがなかなか楽しくて、僕たちは、ふわふわときらめくいつもの時間を過ごしていた。

 この喫茶店のエアコンはすこし効きすぎていたが、窓際に座っていた僕たちは燦々とふりそそぐ太陽光にあたためてもらっていたので、冷え性の結衣花も元気いっぱいだった。

 ただ、じつはこのとき、結衣花の話を笑って聞きながら、僕は半分、他のことを考えてしまっていた。頭の中に、心配ごとをひとつ抱えていたのだ。

 秋のコンテストに出すデザインが決まらない。

 これまであまり直面したことのない悩みに、僕はすこし戸惑っていた。言い訳をすれば、テーマが悪い。つくったこともなければ、とくべつ興味があるわけでもない、『腕時計』を出展しなければならないのだ。

 結衣花に相談してみるか、いや、それはない。

 僕は、結衣花と、アクセサリーについてまじめな話をほとんどしたことがない。はじめのころは何度かあったが、理屈っぽい会話になってしまって、盛り上がらなかった。だから、いつのころからか、暗黙の了解でやめになっている。よって、この悩みのことも彼女は知らない。

 なにも知らない結衣花は、太陽に照らされながら、頬をゆるめたり、口をとがらせたり、大げさに手をふったりして、鳥のようにしゃべりつづける。

「うちのお父さん、ほんとに声が大きくてわがままでさぁ。この前もお母さんに文句言ってたんだよ~。『洗濯物を濡れたまま干したら服が伸びるだろ!』って。でもお母さんにはやっぱり家事の知識があるから、『ちがうちがう、この服は綿100%だから伸びないし、こうしておけば、むしろ皺だけが消えてくれるのよ』って冷静に言い返すの。するとお父さんは言い返せなくて、『お、おぉそうなのか』とか言って、そそくさと逃げるんだよ。ほんと、母って偉大だよね~」

 楽しそうな結衣花にあわせて、僕も笑う。

 が、僕の思考は、どうしても、もっと重要な事柄の方へ傾いてしまう。やがて、僕の頭の中で、創作活動がはじまってしまった。

藍色の霧もやが立ち込める空想世界のどこかに、腕時計のアイデア、つまりひらめきが潜んでいないかと、意識を沈める。

 と、すかさず結衣花のかなしそうな、怒っているような声がする。

「わたしの話、聞いてない……」

 ぎくりとして目を開けると、そこにはくもり空の結衣花がいる。

 あぁ、まずい、どう言い訳しようか。

 一瞬そんな思考がよぎったが、やめた。

 なぜだか分からないが、なにかの線がぷつりと切れて、正直に言うことにした。

「ごめん、よそ事考えてた」

「よそ事……?」

 結衣花の表情は、悲しさと怒りよりも、とまどいをあらわした。

 それを見て、僕もとまどう。

 いつもとちがう、ずるくない、だけどひどいことを言う僕に、二人でとまどう。

 しかし僕は、めずらしく強気になっていた。理由は、わからない。いつもと違うところと言えば、アイデアが浮かばなくて困っているというところくらいか。

 そして僕は、いつもとは違う話題を、結衣花に振ってみようと思った。

 アクセサリーの話。

 僕の創作に関する話。

 もしかしたらなにかヒントがもらえるかもしれない。もしもらえれば、お互いに高め合う関係というか、刺激を与え合う関係というか、そういう理想的なものにステップアップできる気がした。

 すこしの間、会話がとぎれた。

 結衣花は、意外にも好物としているブラックコーヒーを飲んで、ささやかな異常事態に抵抗している。

 しかし僕は、そんなとりはからいを意にも介せず、話しはじめた。

「アクセサリーの世界ってさ、デザインだけじゃやっていけなくて、科学の進歩ととなりあっているんだよ」

「科学?」

「そう、例えばプラチナ。今ではアクセサリーの世界を代表する貴金属だけど、意外と新しい素材なんだ。17世紀、ルイ14世の時代には、まだプラチナのアクセサリーはなかったんだよ」

「まだ発見されてなかったってこと?」

「いや、金属としては発見されていた。けど、それをアクセサリーの世界で扱う技術が世界になかった。金や銀のように細かく薄く加工して、自由な曲線を象るには、あまりにも硬すぎたんだ」

「ふうん……?」

「そんなプラチナを、デザイナーでも商人でもなく、大学の研究者が他の金属と配合して、プラチナ700っていう合金を生み出したんだ。これが扱いやすくて、一気に宝飾界に採用された。結果、相当に薄くしても銀とは違って硬度が保てるということで、デザインの幅が広がった。カルティエのガーランドスタイルなんて、プラチナの技術がなければ存在しなかったと思うよ」

「ガーランドスタイル……?」

「あぁ、ガーランドスタイルっていうのはね」

「さすが、すごいねぇ……」

 結衣花は、ぼうっとした表情で、僕のことを見ていた。

「ま、ガーランドスタイルのことはいいか。……で、僕が悩んでるのは、これからはなかなかそういう発展の仕方はないだろうなってこと。地球上の物質はほとんど出そろっているし、それぞれの可能性と役割が決まりつつある。だから、金属素材の発展も、宝石の新発見も見込めない。宇宙開発を待てばあるだろうけど、僕らの世代には間に合いそうにない。だとすれば、僕たちは狭間の世代だ。自分たちで新しい表現を見つけないと、新しいものをつくれないんだ」

 滔々とうちあけられた僕の悩みは、ここぞとばかりに流れ出る。こういう事情があって、次のコンテストに出す腕時計のアイデアが出ないんだということを、伝えようと思った。べつに、ヒントをもらえなくてもいい。ただ、この大きなもやもやを共有できれば、一緒に悩んでくれれば、それだけで……。

 が、その前に、結衣花は目を上げて、明らかなつくり笑いを見せた。

「うーん、なかなか難しい話だね……。やっぱりわたしはついていけないけど、応援してるからね」

 結衣花は僕の話題を、申し訳なさそうに遮った。僕が悩んでいることに対して、議論することを諦めたのだ。

 太陽がちょっとした雲のかたまりに隠れたせいで、効きすぎたエアコンの風が、やけにつめたく感じてしまう。

 僕は、うらめしい気分で、太陽を覆う雲を見上げた。

 結衣花とあそぶ中で、足りないと思う部分がこれだった。一番頑張ってやっていることに対して、影響を受けることがない。話し合い、議論し、高め合うことができない。ヒントをもらうことさえできない。

 ただ楽しみ、幸せを感じ、ぬくぬくとした時間をすごすだけ。それはとてもしあわせだけれど、それだけでいいのだろうか、とも思うのだ。

 しばらく沈黙が続いたが、やがて結衣花は、おずおずと、最近はまっているらしいバラエティ番組の話をはじめた。

 彼女が戻ろうとしている楽しい時間に逃げこむために、僕も、いつも通りのあいづちをうつ。

 そうして話しているうちに、だんだん調子を取り戻していく結衣花。

 あの男性アイドルの笑顔がかわいいだとか、お父さんがそれを否定してくるだとか、そういう話をうきうきと話す彼女は、やはりふつうで、美大に所属するどんな同級生たちよりも、個性にとぼしく見えてしまう。

 僕は、彼女と自分の右手の薬指に光る、ステンレスの指輪をちらっと見やる。

 そして、彼女だけにやどった目に見えない個性を思い出し、彼女の話を笑って聞くのだ。わずかなわだかまりを感じながら。通り過ぎていく雲のかたまりを見上げながら。

 

 その夜、僕はベッドに寝そべり、部屋の窓からのぞく星空を見ていた。

 この先の将来のことを本気で考えるのなら、今のままではいけないと思った。たとえ僕が我慢すればいいだけのことにしろ、お互いにとって最高の関係を築こうと努力することが必要だと考えた。

 雲が通りすぎるのを待てば、いずれ、太陽は射し込んできてくれる。

 しかし、そうではなくて、雲のかたまりを、二人でかき分けられたら……。

 二人がそれぞれ、どんな関係になりたいのかを分かり合い、その上で、かみ合う部分とかみ合わない部分を見つけ、苦労しながらも、よりよく改善できたら……どれだけいいだろう。

 おそらく、結衣花にすべてを合わせることで、結衣花をしあわせにすることは可能だろう。それによって、たしかに僕も、しあわせを感じることができる。

 でも僕は、二人して、心からしあわせに生きていきたい。

 僕は少しにやついて、でも少しだけ怖がりながら、このことを結衣花に打ち明けようと心にきめた。結衣花ともっと仲良くなるため、一歩踏み出すことにした。

 星たちにうすい雲がかかった。僕は、それをかき分けたくなって、そっと手を伸ばした。


 その一か月後、僕たちは沖縄旅行に行った。

 はじめて二人で乗った飛行機はとても居心地がよく、二人だけで別のせかいに飛んでいくような錯覚に見舞われた。

 結衣花はよくしゃべり、僕はほとんど聞いていた。その割合が、僕らの割合だった。楽しいし、居心地も良い。だけど、僕が話したいことも、本当はある。話さなくてもやっていけるけれど、ほんものの関係にはなれない気がした。

 だから僕は、カバンから、革張りの白紙のノートを取り出した。

まっしろい雲がただよう夏の空の上で、僕は結衣花へ、想いを打ち明けるのだ。

「なに? そのノート」

「僕たちがもっと分かりあうために買ってきた。ほら、僕たちは仲が良いから、これまであんまり、お互いの直してほしいところとか言わなかっただろ? だけどこれからは、そういうのをお互いに打ち明けて、このノートに書いて、二人で目指す最高の関係を探そうよ。どちらかの押し付けにならないように、対等のバランスでね。今の僕らに足りないところがあれば、それをひとつひとつ、解決していく。もちろん、全部を解決しようとしなくてもいい。ただ知るだけでもいいんだ。深く相手を理解することになれば、それはそれで前進だと思うからね。つまり僕は、今よりもっと、ほんものの関係になりたいんだ」

 僕は、まっすぐな想いを乗せて、君の顔を見た。

「どう? やってみない?」

 しかし、結衣花は、目を合わせてくれなかった。

「ほんものの関係……」

 つぶやく彼女に、僕は、はかりしれない怯えを感じた。

 結衣花は、飛行機の窓の外がわを見ていた。飛行機はものすごい速度で進んでいるはずなのに、広大な風景はほとんど変わらず、とてもゆっくり飛んでいるように見えた。

「はは……難しそうなはなしだね」

「難しそう? そんなことないよ。だって僕らなら」

「ほんものの関係って、それがなんなのか、わからないよ……」

「それは……」

「それに、ちょっとこわい」

 怖い? 僕は、彼女の言うことが分からなかった。

「ごめんね」

 結衣花はそう言うと、さっと立ち上がり、トイレに行った。

 僕は、彼女の後姿をぼんやりとした目で追いながら、打ちひしがれていた。結衣花は、僕のことを好きでいてくれる。それは間違いないことだ。しかし、この関係を発展させることにさえ、向上心がないのか、と思った。怖さを乗り越えて、相手を知って、多少なりともいざこざを起こしてでも、二人で成長していくのが、ほんものの信頼関係ではないのか。

 結衣花はそれを怖がり、共に一歩踏み出してくれない……ということだろうか。

 いや……結衣花のせいではなく、僕が話したいことを、うまく、たのしくわかりやすく話せないのが悪いのか。そうかもしれない。そういう部分もあるだろう。

 だけど、わからない。考えたくない。だけど、ここで逃げたら……また……。

 やがて、彼女は戻ってきた。

 僕は言う。格好わるい、よわよわしさを自覚しながら。

「……さっきの話は、なしにしよう! ところで、これからの予定だけど」

 僕はいったん、すべてを諦めたのだ。沖縄旅行が台無しになることを怖れたわけではない。

 こわい、と言った結衣花のこころが、怖かったのだ。

 あからさまに大人しくなってしまった結衣花も、旅行の話をしているうちに、徐々に調子を取り戻してきた。

 やがて、いつもの僕らの割合に、戻っていった。


 沖縄では、本州よりもさらに燦々とした太陽が、ぎらぎらと照りつけていた。

 僕らはホテルのプールに入り、ドライブをして、海水浴をした。水族館にも行った。天真爛漫にはしゃぐ結衣花の姿は、控えめだった昔とは別人のようだった。結衣花が心を許した人だけに魅せる、子供のような本性。それを、僕だけに見せてくれているのだ。彼女のふっくらした頬に伝うきれいな汗が、純にきらめく。

 こうしていると、結衣花に、二人の関係を軽んじる考えはないと思える。

 ではいったい、何がすれちがっているのだろう。

 僕と彼女の価値観の違いだろうか。

 そうだとすれば、価値観の違いというものは、どれだけ大きな隔たりを、二人の間につくってしまうのだろうか。

 僕は、常夏の島で、二人で過ごす時間を幸福として味わいながら、そんなことを考えていた。


 最終日、僕たちは、旅のハイライトとして、はじめてのダイビングを体験した。

 ダイビングスーツを着てボンベをかついだ結衣花は、わくわくを隠し切れず、ばかばかしく無理なスキップをしていた。こんなに重いボンベを背負って、よくあんなにはしゃげるなぁと、僕は笑いながら、のそのそと後につづいた。

 さらに、海に潜っても、結衣花は、そのばかばかしさを持続していた。細すぎる腰に巻き付けた重りがすぐに取れてしまったり、軽すぎる身体が頻繁に海流に巻き込まれ、まるごと流されそうになったり。べつに結衣花にはなんの落ち度もないのだが、とても頭の良い子には見えなかった。

 だけど、それをかわいいとばかりは思っていられなかった。あぶなっかしいその状態を見るたびに、僕は心配になり、こわごわとしてしまい、内心とても忙しかったのだ。

 水中で結衣花を襲う幾多の楽しい災難を乗り越えた後、おだやかになった海流の中、サンゴ礁に包まれ、色とりどりの熱帯魚たちを見る。あんなにもぎらぎらしていた太陽が、海に入ってくるだけで、さらさらとした青碧のせかいをつくりだす。

まぼろしのような情景。

 それに見惚れてぽうっとしている結衣花。

 そのようすが、たまらなく……そう、いとおしい。

 もっと、ずっと深いところまで、二人でいきたいと思った。


 やがて、今回のダイビングコースで最高の写真スポットにたどりつく。

 海中カメラで記念撮影をしようと、インストラクターが僕らから少し離れて、カメラを構えた。

 結衣花は、小さな両のてのひらで、思いっきりピースサインをつくった。

 その時だった。

 おだやかだったはずの海流の雰囲気が激変した。

 大きな流れが来て、身体がもっていかれそうになった。

 僕は両手で海底の岩にしがみつき、堪えようとした。

 が、結衣花の軽い身体は、容易に引きはがされた。

 ものすごく深刻な色をした焦りと恐怖が、僕の心に芽生えた。

 結衣花が流され、いなくなってしまう。

 僕の心が悲鳴を上げた。

 瞬間、僕は考えるよりも早く、本能で、彼女の腕を強く掴んだ。

 残った片手で、岩をつかんで、激流の中、必死にこらえた。

 すぐにインストラクターが戻ってきて、二人をがっしりとつつみこむ。じっと停滞していると、やがて海流はおさまった。


 僕たちは、陸に上がっても無言のままで、スーツを脱いだ。それぞれ恐ろしい想いを抱いた僕らは、ほとんどしゃべれなかったのだ。

 インストラクターは、彼が悪い訳でもないのに、必死で謝ってくれた。その後で、一枚の写真を僕たちに手渡した。

 結衣花が流されそうになっていて、僕がその腕を必死に握っている。

 そんな瞬間をとらえた写真だった。

 必死の表情で海流に耐えようとしている二人のまわりは、あいかわらず青碧で、華々しいサンゴと魚で彩られている。とてもあの恐ろしい時間を切り抜いたものとは思えない。

 僕は、あの瞬間の恐怖が再び湧き上がってきて、思わず目を逸らしてしまう。

 しかし、結衣花はちがった。

 写真に見とれて、絶対に買う、と言い切った。そしてホテルにつくまで、結衣花はずっとその写真を見つめていた。

 ホテルに向かう観光バスは、つかれた観光客でいっぱいで、とても静かだった。近くに座っていた小学生くらいの子供が、身体のすべてを母親にあずけ、眠っていた。こまやかな肌は、だいだい色の夕焼けに照らされていた。

 僕は、結衣花の方を見た。彼女の肌も、子供のようにつややかだった。表情のせいかな、とも思った。

 十数分後、僕は、ようやく声をかけてみた。

「写真、いつまで見てるの?」

 結衣花は答えず、こちらを見ることもせず、ただ写真を見つめつづける。

僕が会話をあきらめかけたとき、やがて結衣花の頬は赤くなり、にやついて、なんと、しまいには涙を流した。

 あの公園で見た、水色の涙と、同じきらめきだった。

 僕の胸は、激しく震えた。

 写真をよく見ると、僕の恐怖と必死さが、写真の中の僕の表情によくあらわれていた。

 そして、彼女がその写真を見る目は、あの日の、母親からもらったステンレスの指輪を見る目と、そっくりだった。

「この写真、すき」

 よわよわしくふるえる彼女の声は、愛にくるまれていて、僕の心をゆさぶった。

あの瞬間の僕に芽生えた本能的な恐怖が、愛の証明……だと、虫のいい解釈かもしれないが、少なくとも結衣花は、そう感じてくれたのだ。

 結衣花の心が、あたたかな温度でとろけ、涙となって流れ出る。かがやく水色のしずくとなって、流れ出る。それは、本当にうつくしかった。

 このとき、結衣花の中に、僕が、たいせつなものとして入った気がした。同時に、僕の中に結衣花というかがやきがやどった気がした。

 本当につよい、しあわせを得た。

 これさえあれば、十分だと思った。

ほかのことなんて、これからのことなんて、どうでもいいとさえ思えた。

 

 僕が求めている関係とは、どんなものなのだろう。

 結衣花がたいせつにしたい関係は、どんなかたちをしているのだろう。

 それがずれているなら、ほんものの関係とは言えないのだろうか。

 こんなにも、しあわせなのに。

 そもそも僕は、本当に欲しているものを、なによりたいせつにしたいと断言できるものを、自分で理解しているだろうか。

価値観の違いがあると言う前に、自分の価値観を理解しているのだろうか。

 一般的には、お互いに悩みを打ち明け、助け合い、高め合うことができてこそ、ベストパートナーなのかもしれない。

 しかしそれは、自分の価値観ではない。

いくらでもいる、よその人の意見より、結衣花のきれいな涙の中に、僕は自分の価値観の、たしかなヒントを見つけた気がした。

 外のせかいに、自分の価値観など見つからない。

外のせかいに、たいせつなものを決められる筋合いはない。

 まだまだはっきりとは見えないけれど、僕は僕と結衣花のなかに、その輪郭を見出した。

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