ふつうの女性を、愛する理由
犬山 ホタル
(1)ふつうな彼女
僕の高校の美術部は、放課後になると写生という名目で校外に出ていき、そのまま帰宅することがままあった。それに乗じて校門を出た僕は、意気揚々と帰宅する仲間たちとは、べつの道を歩いていった。
美術部員もクラスメイトも、グループでカラオケに行ったり、スマートフォンでみんなと同じゲームをしたり、みずから個性をうすめてしまう時間を過ごす。
僕らは、何のために生きているのだろう? みんなと同じ趣味を持ち、みんなと同じことをして、時代の輪郭をなぞって生きていく。それで、心は満たされるのだろうか?
少なくとも、僕は満たされてなどいなかった。
結果、彼らのようになりたくないという思いが、孤独を生んで、どんなグループにもとけこめなくなっていく。学校の中だけでよく話すクラスメイトたちは、僕をのぞいて、学校の外でもよく遊んでいるらしかった。ただ、それを気に病んでなどはいなかった。ふつうの人間に堕ちてしまうくらいなら、この方がましだと、そう思い込むことに成功していた。
秋の空にだけそそがれる薄いだいだい色の光線が、だんだん色濃く染まりはじめている。
僕が向かう先の公園には、繊細で、にごりのない白い天使の石像がある。高校に入って半年が過ぎたが、これをモチーフにして、僕は何十枚ものデッサンを描いてきた。
たとえそれが無彩色のデッサンであっても、モチーフがこの天使ならば、晴れと雨と曇りでは、もしくは春と夏と秋では、まったく別物に描き分けられた。それほどまでに、この天使には表情があった。
そのおかげもあって、僕の絵は、県のコンテストでいつも最優秀だともてはやされた。これが僕の個性の証だった。
今日の天使は、いつも通りの場所で、憂いの表情を浮かべていた。頭上の木の枝でゆれている残り3枚の葉っぱのことが、なごり惜しいのだろうと僕は思った。葉っぱの色は茶色くくすみ、見るからに乾燥しきっていた。
みんなが同じ表情をしている教室よりも、この場所の方がずっと、僕の創作意欲を掻き立てる。
そして、僕を焦らせる。
もっと高いところを目指さなければならない。創作物のセンスが僕のセンスの証明であり、創作物の個性が僕の個性の証明だから、ふつうの高校生たちとは違うのだと感じるために、僕は描き続けなければならない。いずれは、全国のコンテストで入賞しなければならない。しかし今のところ、作品のレベルがそこまで到達できていない。この夏、全国で最優秀賞をとった斎藤貴志という同い年の男が描いた絵を見たとき、はっきりとそれを自覚した。彼の絵は、どこがどう違うのかは分かりにくいが、明らかに他の作品とは異なる印象を抱かせた。
僕は鉛筆とスケッチブックを取り出して、白紙に描く構図を考える。今日の天使を物語る葉っぱを繊細に描くべきか、それとも葉っぱをあえてフレームから外し、天使の表情だけで頭上への憂いを示唆するべきか。
ちょっとした風が吹く公園のすみっこで、僕は石像に近づいたり、また離れたりして、天使を見つめる。
やがて、3メートルほど離れた僕は、ここからの画角を描こうと決めた。しばらくの間目を閉じて、イメージをふくらませていく。
そして、完成形が頭の中で鮮明な作品になったとき、ゆっくりと目を開けた。
その時、天使の石像のすぐちかくに、見覚えのある女子がふらふらと俯き歩いているのが視界に入った。ついさっきまでは気配も何もなかったから、僕は少し驚いた。
彼女は、千葉結衣花という同じクラスの女子生徒だ。アーモンドのかたちをした目にまっくろな瞳がはめこまれていること以外に、僕の関心を惹く部分はとくにない。成績も並で、目立った行動もとくにない。いたってふつうの、どちらかというと控えめな女子生徒という印象がある。
ふつうとか一般的とかいう言葉が当てはまる人物は、絵の主題になり得ず、背景にしかなってくれない。それは絵の話だけはなく、僕の人生においても同じことが言えた。
だから、目の前にいるふつうの女子の存在など気にすることもなく、石像の背景として描けばいいだけのはずだった。むしろ、石像を引き立ててくれるだろう。
しかし、そういえば、この千葉結衣花には、少しだけ興味を抱いたことがあったのだった。
一ヶ月ほど前の放課後、これまでほとんど話したことのないクラスメイトに、映画に行かないかと誘われた。少し丈の短い学ランに、白いエナメルバッグを提げたサッカー部の彼は、浅黒い肌に、さわやかな笑みを浮かべていた。
その日は金曜日で、夕焼けにまみれる教室の中は大いにざわついていた。ヒエラルキーの高い位置にいる男子と女子のグループが、日曜日の予定をくっつけて、満ち足りた週末を送ろうとやっきになっているように見えた。
そのグループの一人であるはずの彼が、僕の目の前にいた。用がなければ話さないくらいの関係のはずが、テンションの高いしゃべりで僕を映画に誘っていた。
「アニーっていう映画なんだけど、知ってる?」
「アメリカのミュージカル?」
「そうそう、あれが映画になって、リメイクされたんだってさ! 感動するらしいよ!」
感動するらしいよ、と言う彼の言葉には、作品に対する意志がまったく感じられず、映画のことを、日曜日を充実させるためだけのイベントとしてしか見ていないように聞こえた。一緒に行くメンバーを聞くと、男女4人で行くとのことだった。 僕と彼と、ヒエラルキーのトップにいる派手な女子、そしてそのおつきの女子。
こういう誘いは、断るのも面倒だ。僕は、作品を観るためだとわりきって、誘いに乗った。すると、はなれた場所でこちらを見ていた女子2人が机の周りに寄ってきて、僕はふつうの高校生たちの一部になってしまった。
どうして僕が誘われたのか。彼にそのわけを聞いてみると、どうやら、派手なほうの女子が、若い芸術家を主人公にしたテレビドラマにはまっていて、それで僕に興味を持っているとのことらしい。クラスメイトたちにしれみれば、僕と言えば絵が上手い、それくらいの印象しかないと思うが、それが功を奏したらしい。本当に、くだらないことだと思った。
映画は、王道で、まとまりがあって、適度に現代的なアレンジがなされていた。原作のミュージカルではすべての登場人物が白人だったのが、この映画では主人公2人ともが黒人だったし、富豪の象徴はIT企業のCEOへと変化していた。それでも、物語の大筋はかわりなく、原作と同じ、根本的な愛を描いていた。人間の変わる部分と変わらない部分を、一本の映画という枠を超え、アニーという作品の変化を通して表現していた。
僕は映画をつくったこともなければ、とくべつな愛好家でもなかったが、この映画の中に、確かな個性を見出した。王道、つまりふつうの物語のはずなのに、これまで観たどんな映画とも同じだとは言えなかった。
どうしたら、こんなにもまっすぐな個性をつくれるのだろう? 今の僕みたいに、無理矢理に人と違うものを追いかけているだけでは、いつまでたっても、たどりつけないように思えた。焦りが、胸の中でうずきはじめた。
スクリーンに幕が下りた後、僕を誘った男子と派手な女子は、一様に、感動した、よかった、泣けた、と言っていた。近くに座っていた20代のカップルが、しんみりと肩を寄せ合うのを尻目に、ふつうの高校生たる彼らは、大きな声で笑っていた。
おつきの女子は、ふわふわのハンカチで、しばらく顔を覆っていた。そして、その様子を2人にいじられ、涙ながらに、えへへ、と笑った。
彼女の涙の量は尋常ではなく、そのしぐさは、なんとなく、ふつうの高校生には見えなかった。
それが、結衣花だった。
今、目の前にいる結衣花は、公園の茂みにかがみこんで、何かを探している。わずかに口をとがらせて、悲しそうに眉を垂らす彼女に、僕は声をかけた。
「何か落としたの?」
彼女は、かがんだままで顔を上げ、僕のことを見た。そして、それまでの子供みたいな表情を途端に引っ込め、恥ずかしそうな、それでいて少し警戒した顔をつくった。
「え、あれ? どうしてここに? うん、探し物……。え、なにかって? えっと……」
にゃあにゃあと、猫のように口ごもった後、あまりにも小さな声で、彼女は言う。
「お母さんからもらった指輪を落としちゃって……」
「指輪? それは大変だ。一緒に探すよ」
僕は、彼女と同じように腰をかがめる。
すると彼女は、少し顔を赤くして立ち上がると、あわてて手を振りながら僕に訴えた。
「え、いや、自分で探すから大丈夫だよ! おかまいなく!」
「いや、いいよ。僕も暇だし、本当に大事な指輪みたいだし。さすがに、放っておけないよ」
「いや、でも……」
「まぁ、僕の好きにさせてよ。で、どんな指輪なの?」
戸惑う彼女を置いて、僕は茂みの中を探し始めた。
しばらく彼女は立ち尽くしていたが、やがて諦めたようで、その場にゆっくりとかがみこむ。そして、僕に背を向けた状態でこう言った。
「……ステンレスの、プレーンリング」
消えゆくようなか弱い声を聞いて、恥ずかしいのかな、と僕は思った。大事なリングと言っておきながら、プラチナでもゴールドでもシルバーでさえなく、ステンレス製だということが。
僕は、話題を変えることにした。
「そっか。……そういえば、この前、一緒に映画を観に行ったよね?」
結衣花は、いっしょうけんめいに芝生を覗きこみながら答える。
「うん、いい映画だったね」
僕は、気になっていた、あの涙の理由を聞いてみた。
「どこがよかった?」
「うまく言えないけど、感動したなぁ……」
ありきたりな答えに、僕はすこしだけがっかりした。こんな感想では、あの二人と同じじゃないか、と。
同時に少し、疑問に思う。
僕は、見るからにふつうっぽいこの女子に、いったい何を期待していたのだろう?
黄色い模様をうかべた二匹のモンシロチョウがふらふらやってきて、時の流れをゆったりとしたものに思わせた。彼女はそれにも気づかず、いつまでも泣きそうな顔をしたまま探していた。
10分ほど探し続けた後、緑の茂みの中に、だいだい色の夕日をきらりと反射するものを見た。それは銀色の輝きだったが、シルバーのそれよりも工学的な冷たさを持っていたから、僕にはこれが彼女の探し物だとすぐに分かった。
手に取ると、まったくプレーンなステンレスリングで、内側に『yuika』と彫られていた。彼女が恥ずかしそうにしていたのが分かるくらいに、高級感のない素朴な指輪だった。
「ねぇ、見つけたよ。これじゃない?」
立ち上がって結衣花の方を振り返ると、彼女はうさぎみたいにくるりとこっちを向いて、その黒い瞳に銀の光を映し込んだ。同時に頬に温かみが生じ、口角が上がって、とにかくうれしそうな顔をした。
このとき、公園にそそぐ夕焼けが、彼女だけをはっきりと浮きだたせるスポットライトの役目を果たした。太陽は、芝生と木々と彼女とを、ひとしく照らしているはずなのに、彼女のまわりだけが彩度を増した。
「それだよ!」
彼女は、ここ半年で一番ではないかと思うほどの大きな声を出して、駆け寄ってきた。
「もう無くさないようにね」
うん、と頷く彼女に、僕は指輪を手渡そうとした。
その時だった。
一匹の三毛猫が、天使の石像の頭の上にとつぜん飛びのり、大きな声でにゃあと叫んだ。
彼女はそれに驚いて、指輪を受け取る手を少し揺らした。そして、僕の指先に、彼女の冷えた指先が優しく触れた。
そんなわずかな衝撃で、僕の手がかるく握っていた指輪が落ちてしまった。茂みを抜けて、散歩道までころころころと転がっていく。その後も、装飾のない指輪はよく転がった。
とっさに、僕と結衣花は、二人して指輪を追いかけた。
指輪はかなり転がって、ようやく勢いをなくしたかと思ったその時、隣で結衣花が大きく叫んだ。
「きゃあ! だめ!」
なんと、指輪が転がっていく先に、小さな池があったのだ。小さいと言っても、鯉が2匹泳いでいるのが見えるから、それなりの深さがありそうだ。
彼女は勢いよく駆け出したが、途端につまずいて、ばたん、と転びそうになった。
僕はとっさにその身体を支え、彼女が散歩道の石畳とぶつかるのを防いだ。
「あ、ありがとう……」
そう言う彼女の目線は、池に迫る指輪に向けられた。
次の瞬間、ぽちゃりと音を鳴らし、銀の光は水に沈んだ。
「あ……」
じわりと、彼女の目に涙が浮かんだ。
僕も、全身の力が抜けていくのを感じた。そして、彼女から視線を逸らしてつぶやいた。
「ごめん……」
彼女は僕の謝罪を受け入れまいと、顔の前で手を振った。
「いやいや、わたしが転んだせいで間に合わなかったんだよ! せっかく見つけてくれたのに、むしろこっちが申し訳ないよ……」
しかし、そう言う彼女の肌には色がなく、あきらかに、目は悲しみで潤みはじめた。
「大丈夫?」
気の利かない台詞しかかけてあげられなかった。心のどこかに、ただのステンレスの指輪じゃないか、という意識があったかもしれない。
気まずい沈黙に包まれる。いや、彼女のほうは、気まずいなどという本当にどうだっていいことは、感じていなかったかもしれない。
やがて、彼女は、俯き、ひとりごとのようにつぶやいた。
「わたしも、一番たいせつなものを、たいせつにしなきゃと思ったのに……」
僕はどうしてか返事ができなくて、言葉を返すタイミングを失った。
彼女は、せかいで一番たいせつなものをなくしたかのように、声をふるわせている。
僕には、それがどうしてか、ほとんど分かることができない。
「それなのに……わたし……」
……僕には、何も分からない。
あんなもの、しょせんただのステンレスの指輪じゃないか。
母親からもらったからと言って、その価値が変わるのか?
リングの内側にyuikaと刻印されているだけの、ふつうの指輪だ。
そう、ふつうの……。
僕が嫌いな、ふつうの……。
冷たい季節の風が、平たい公園でひゅう、と鳴く。木や茂みや服や髪、いろいろなものが同時にゆれたはずだったが、僕の目は、わずかにゆれる池の水面だけを見ていた。そして、とてもばかばかしいことを考えた。
僕は彼女を立ち上がらせると、池の近くまで歩いていって、学生服の上着を脱いだ。
自分がどうして、何をしているのか、よく分かっていなかった。
ただ、彼女の指輪を見つけなくてはならないという衝動が、その指輪には僕の知らない何かがあるという衝動が、僕を動かしていた。
そして僕は、池の中に頭っから飛び込んだ。
彼女のさけび声と、水しぶきの音が大気にひびく。
水は冷たい。それに、あまりきれいじゃない。
池の中にいる僕には、上のせかいで彼女がなにか叫んでいるのが聴こえた。
水深は3メートル以上あって、底には泥が溜まっていて、潜れば潜るほど透明度は失われていく。指輪は、泥のけむりの奥まで沈んでしまっているようで、とても見つかりそうもない。
僕が追い求めている個性のように、それがどこにあるんだか、さっぱり分からない。
息が続かなくなって、僕は水面から顔を出す。
無様にしたたる水をぬぐって目を開くと、いかにも女子らしく、両手を口に当てた彼女が目に入る。まんまるくなった目に、きれいな水がたまっていた。
「ごめん、見つかりそうにないよ」
彼女はへたりと腰をつき、ふりふりと首を振り、ついに涙をぽろぽろこぼした。
「どうしてこんなにしてくれるの」
その涙には、感謝と、とはいえそれ以上の悲しみが、複雑に混ざりこんでいるようだった。
「……いや、結局見つけられてないし、何もしてないのと一緒だよ」
彼女は首をふりながらも、悲しみを隠し切れてはいなかった。
やがて、彼女の目から、宝石のようにきらめく水色の涙が流れ落ちた。
それがあまりにも純すぎて、僕はどうしようもなく、見とれてしまう。
池の水面はまだ波打っていて、僕の良心をあたりまえのように誘ってくる。そして同時に、本能を激しく刺激する。
この瞬間の決断が、これからの僕を左右するという予感があった。
なんとしても、指輪を見つけなくては。
僕は、再び池の中に潜っていった。
やはり、水は冷たく、そして淀んでいる。底に沈んでいるものを、目で見つけることは不可能だ。僕は目を閉じ、なるべく底にたまった泥を舞い上げぬよう、慎重に底面に触れ、やさしく表面を撫で、ステンレスの手触りを求めた。
泡が浮いていく音を聴きながら、すべての神経を指先に集め、泥のけむりの中をしらべる。ざらざらしたものと、さらさらしたものが、手のひらの間をすりぬけていく。
しかし、集中よりも息が持たなくなって、すぐに上のせかいへと引き返す。
大きく息を吐き、そして吸って、また池の中に潜り込む。できるだけ、彼女の制止する声を聞きたくなかった。
これを何十回繰り返しただろう。
夕焼けのだいだい色の濃さもピークを迎え、冷たいはずの池の中にも暖色が射し込んできた。
そのとき、石よりもずっと硬く、それでいてなめらかな物質が、僕の指先に触れた。
間違いない、と瞬時に心臓が高鳴って、近くの泥を巻き込みながら、わしづかむ。握った手に力を込めたまま、僕は池から顔を出した。
息を吸っては吐いて、咳を混ぜながら、無様にあえぐ。らしくない自分の姿をできるだけ思い描かないようにして、結衣花を見上げる。
「見つかったの!?」
彼女の目には未だに水がきらめいていて、たくさん悲しみ、迷ったのだと分かった。
「うん、なんとか」
僕が濡れた手のひらをひらくと、そこにはうす黒い泥に埋もれ、鈍くかがやくステンレスの指輪があった。
それを見た彼女の頬の色、目のかたち、そして瞳にやどった水の温度までもが劇的に変化して、悲しみに冷やされていたであろう心の熱が、あからさまに放出された。
「これ…うん、間違いないよ…。お母さんがくれたたいせつな指輪……」
「そんなにたいせつなものなんだ」
「うん……」
僕は、勇気を出して聞いてみた。
「お母さんとの思い出の指輪だから……ってこと?」
すると結衣花は、惜しみない笑顔と涙でうなずいた。
「うん、そうなんだ」
そして、息を一回のみこんで、結衣花は泣いたままで笑うのだった。
「たった、それだけのことなんだけどね。ふつうの、ステンレスの指輪だし」
その言葉とともに流れでた水色の涙は、僕の心の上に、岩のようにずしんとのしかかり。そして、じんわりと溶けていき。身体にはりついたシャツの感覚を変え、空気の匂いを変え、風景の色彩まで変えてしまった。
僕は、つくり笑顔で、そっか、よかったね、と言いながら、泥だけになった手のひらを、痛いくらいに握りしめた。
彼女は、ふかく愛されていて、たいせつなものを知っている。
このステンレスの指輪に、それが宿っていると知っている。
他の何を差し置いてでも、なくしてはならない自分の一部なのだと知っている。
ふつうで控えめな性格を持ち、ふつうで控えめな学校生活を送っているようにしか見えなかった千葉結衣花。
僕にとって、彼女は、よくある背景のひとつに過ぎなかった。が、この時、はっきり見えた。
彼女は、まぶしい人だった。あたたかい家庭で、すくすくと素直に育てられ、惜しみない愛をそそがれたが故の、光だろう。
僕の中にも、こんな光があるのだろうか?
おそらく、ない。すくなくとも、彼女ほど、そのかがやきに気づけていない。
こんな僕には、このかがやきを、ふつう、と呼ぶことなど、とてもできはしなかった。
ここにあるただのステンレスの指輪を、ふつう、と呼ぶことなど、とてもできはしなかった。
僕が焦って身につけようとしていた、個性という言葉の意味が、ゆらぎはじめた。
人の個性は、いったい何にやどって、何によってせかいに表されるのだろう。
この目にへばりついてくる見た目でも能力でも社会の評価でもなくて、こころに沁みこんだ思い出が、人との深いかかわりが、つまりはたいせつなものというものが、人をふつうではなくしてくれるのかもしれない。
そのことを、結衣花は教えてくれたのだ。
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