夕暮れのサンライズ

仁井暦 晴人

夕暮れのサンライズ

 夕暮れの陽光を背負う馬車が、進行方向に影を長く延ばしている。

 今は収穫祭が終わり、冬の到来を控えて町の活気も一段落する季節。国境最北端にあたるこの地方は特に寒く、馬車を引く馬の吐く息が白い。

 その馬車のキャビンの中、金髪をポンパドールに結い上げた女性がゆったりと揺られていた。彼女は、やや控え目に金糸を施した、豪華というより瀟洒なドレスに身を包んでいる。

 ほんのりと化粧を施しているが、あどけなさの残る顔立ちを隠すのは難しいようで、十代半ばの少女であることは一目でわかる。彼女は大きめで愛らしい青い瞳を伏し目がちにし、形の良い鼻の下にあるこれまた愛らしい口を小さくすぼめている。

 その口から、今日何度目かのため息が漏れた。

「オルガお嬢様、ご辛抱なさいませ。今日は婚礼前の大事な打ち合わせの日。そのようなお顔をされていては、伯爵様のご機嫌を損ねてしまいかねません。旦那様のお立場も――」

 金髪少女――オルガを窘めたのは、彼女とほぼ同じ年格好の黒髪の少女だ。メイド服を着た彼女は、オルガの侍女なのである。

「わかっているわよ! でも今日の打ち合わせなんて、衣裳合わせをするわけでもないのだからわたくしなどいなくても」

 オルガの婚約者は金の力で貴族となり、事業の功績を王に認められて男爵から伯爵へと爵位を上げたのだ。何かと口実を作ってはオルガに会いたがる、つまらない男。

 こんな時間に招くこと自体、泊まっていくことを前提としているのだ。今日もまた婚前交渉を求めてくるのだろう。何とかして突っぱねなければ。しかし、今までのようにうまく逃げ切れるだろうか。もう、いっそのこと……。

 オルガの思考は堂々巡りとなる。

「大体、お父様もお父様だわ。お金がないならこんな馬車や贅沢な調度品なんて売ってしまえばいいのに……あ、ごめんなさい」

 オルガは大きな目を見開き、口に手を当てて言葉を止めると侍女を真っ直ぐ見つめた。手を膝において謝罪を表明する。

「わかっているのよ。町まではまだ距離があるし、それまでにきちんと気持ちを整理するから」

 侍女は、まるで母親のようにオルガの手を両手で包み、無言で首を左右に振った。

 彼女らが乗っているのは二頭立ての四輪馬車。王家のものには及ばないが、豪華な造りの馬車は貴族のものと知れる。馬車のドアに彫られた文字は「コートニー」と読めた。


 オルガ・コートニー、十六歳。彼女は幼い頃から器量良しで、将来の美貌について近隣で話題に上らぬ日がないほどだった。

 しかし、コートニー家の現状は順風満帆と呼ぶには程遠い状態となっていた。

 古き栄光に彩られた名家コートニー家は、今や「斜陽貴族」と揶揄されるほどに落ちぶれていた。近代化の波の中で領主制度が廃止され、貴族がそれまでの財力を維持するには事業での成功が不可欠となったのだ。そんな中、うまく時流に乗るにはコートニー家の誇りが邪魔をしたのである。

 一方、庶民の中でも事業の才に長けた者は、少しずつ台頭してくるようになった。資産を得た庶民の中から、王室に金品を納めて爵位を得る者さえ現れたのである。メボータ家もそのひとつだが、その当主は手広く事業を手がける傍ら慈善事業にも力を注ぎ、庶民の心を知る資産家として人気を博した。庶民にとってメボータ家は、気位の高い旧貴族たちとは好対照な存在と映ったのである。

 しかし、彼ら“新興貴族”たちの急激な台頭は貧しい庶民たちから妬まれることもあれば、没落の兆しに怯える旧貴族たちから疎まれることもあった。今や飛ぶ鳥を落とす勢いの――庶民からはそれなりに人気のある――メボータ家でさえ、世間から“金で地位を買った新興貴族”と揶揄されることもあれば、真偽の定かでない黒い噂が囁かれることもあったのだ。

 そうした世間の目を気にしたのか、メボータ家は、伝統を重んじる旧貴族たちから軽視されないネームバリューを求めていた。一方、ジリ貧の旧貴族コートニー家は有力貴族との縁談に積極的だった。両者の利害が一致し、コートニー家令嬢オルガの噂は必然的にメボータ家当主の跡取り息子ブーデ・メボータの耳に入る。

 三十六歳にして独身のブーデは、不摂生を絵に描いたような肥満体型をしている。おそらくそのせいだろう、だらしなさを嫌う旧貴族たちはメボータ家を貴族社会に本気で受け入れようとはしていなかった。メボータ家がいかに資産を増やそうと、いかに庶民の人気を集めようと。

 そうと知りつつも、コートニー家当主はメボータ家に娘を差し出す決断をしたのである。


「貴族に恋愛結婚など有り得ない。お家のために娘が差し出されるのは昔から決まっていること。今さら子どものように嫌がったりはしないわ。でも――」

 続く言葉を呑み込んでため息をつくオルガを、侍女は再び窘めようとはしなかった。主人の気持ちは痛いほどわかっているのだ。

 彼女らの視線が、馬車の右横へと同時に向く。

 涼やかな切れ長の瞳と黒い長髪の、偉丈夫の貫禄と精悍さを併せ持つ青年が馬に乗って併走している。ただひとりの護衛である彼は、今はただ進行方向一点を静かに見つめている。


*          *          *


 傭兵ヴィオロ・ズーン。彼は自分の経歴について黙して語らないが、他の傭兵より安い報酬に応じたため、コートニー家の護衛として一年前から雇われていた。メボータ家に正式に嫁ぐまでの間、オルガは馬車で移動する機会が多い。ヴィオロは言わば、オルガ専属の護衛だった。オルガが部屋にいる時以外はほとんどと言っていいほど、探せば近くに彼がいた。

 オルガは十五歳まで女学校に通っていた。普段の生活の中でほとんど若い男と触れ合う経験がなかったのだ。彼女は好奇心を抑え切れず、自分からヴィオロに話しかけた。

「ねえ、ズーンさん。ヴィオロと呼んでもいいかしら」

「……ご随意に」

 それなりに筋骨逞しいが、顔だけ見ると女性的と表現したくなるほど美しく整っている。でも、とても無愛想な男。それがヴィオロに対するオルガの第一印象だった。

 ヴィオロは無口だったが、オルガにとって若い男との接点と言えば彼しかいない。オルガは連日のように時間を作ってはヴィオロに話しかけた。

「お父様は、お金があることが貴族の条件だと思ってらっしゃるのよ。でも、今のコートニー家にはお金がない。お金がないなら、貴族なんてやめてしまえばいいんだわ。わたくしはそれで構わない。ねえ、ヴィオロもそう思わない?」

「…………」

 オルガはヴィオロに対し、かしこまった態度をとることを禁じた。だが、そうすると彼は剣の手入れをしたり、馬の世話をしたりしながら話を聞くだけで、滅多なことではオルガを正面に見据えることすらしなくなった。

「この頃は女の人でもお仕事したりするんでしょ。わたくしだって健康そのものですもの、お仕事だってできるわ。ああ、そうしたら窮屈な家に閉じこもっているよりどんなにかいいことでしょう」

「…………」

 オルガは両手を胸の前で組み、一旦ヴィオロに背を向けると両手を広げて見せた。

「自由。そう、自由よ。最近流行りの言葉よね。なんていい響きなの」

 オルガがコートニー邸の庭から空を見上げると、数羽の鳥たちが飛んでいくのが見えた。

「いいわね。鳥は生まれつき自由で」

「お嬢様」

 ヴィオロの声に、オルガは素早く振り向いた。やっと答えてくれたのだ。笑顔を見せつつも、少し拗ねた声を出す。

「いやよ。お父様がいないところでは、オルガと呼んで」

「オルガ。失礼を承知で言う。鳥が自由だなどと誰が言った」

 オルガの表情がさっと曇る。声を出せずにいるとヴィオロが続けた。

「仮に、鳥たちが自由だとしよう。しかし、鳥たちは羽がぼろぼろになるまで飛び続ける宿命を負う。帰る場所のない自由とは苛烈なもの。その覚悟なき者が気楽に言うものではない」

 全く表情を変えずに淡々と言うヴィオロを睨み付けるオルガ。彼女の顔がみるみる朱に染まる。

「自由のない居場所なんて牢獄と同じよ! 気楽に言っているなんて決め付けないでっ」

 庭を静寂が支配する。

「…………」

 ヴィオロが黙っていると、ほどなくしてオルガは我に返った。

「……なんてこと。わたくしとしたことが」

 両手で口を押さえ、俯いてしまう。

「は」

 ヴィオロの声だ。オルガは上目遣いに彼を見上げた。

「ははははは! 気に入ったよ、オルガ。箱入りでお高くとまっただけの中身のないご令嬢だと思っていたが、誤解だったようだ。この私と真っ向から怒鳴り合える胆力をお持ちだったとは。護衛のしがいがあるというものだ」

「…………」

 今度はオルガが黙ってしまった。先刻とは違う理由で頬を染めていると、ヴィオロが手を差し伸べてきた。

「?」

「粗野な山猿に過ぎぬ私めに、ダンスの手ほどきをしていただきたい。踊っていただけませんか、オルガ」

 意外にも優雅な仕草で言ってくるヴィオロの様子を見て、オルガは「もと王国騎士団の方だったのかしら」と胸中でつぶやいた。

「仲直り、ね」

 オルガはにっこりと笑うとスカートの端をつまんで優雅にお辞儀をし、ヴィオロの手をとった。

 今オルガの頬を赤く染めているのは、いかなる理由によるものか。


 楽しい時間は瞬く間に過ぎる。

「完璧なエスコートだったわ、ヴィオロ。あなたもしかして、もと王国騎士団の――」

「ただの山猿さ。それより、次の予定があるのだろう、オルガ。もう屋敷に戻る時間だ」

「明日もまた、踊ってくださる?」

「いや、私としたことがはしゃぎすぎた。今日は畏れ多くも大それた事をしでかしました。どうかこれっきりにしていただきたい」

 ヴィオロの態度はごく常識的なものだ。後ろ髪を引かれつつ屋敷へと戻るオルガ。

「わたくしは箱入りで中身のないわがままな貴族の娘よ。明日も踊っていただくわ」

「…………」

 ヴィオロは沈黙と無表情で応じた。


*          *          *


 目的地まであと一時間というところで、馬車の振動が妙に激しくなった。

 速度がどんどん速くなっていくのだ。

「ちょ……。どうしたの――」

「止まるな、全速力だ!」

 オルガの叫びを掻き消し、ヴィオロの大音声が響き渡る。どうやら、ヴィオロは御者に命令したようだ。

 遠くで耳慣れない音が響いた。馬車の左後方だ。空気を叩く破裂音――。

 左の窓から外を見たオルガは目を見開いた。馬上で武器を構える男たちがこちらに迫ってくる。うちひとりは銃を携えているようだ。その数、三騎。

「さ、山賊……」

「お嬢様伏せてっ」

 侍女がオルガの頭の上に覆い被さる。

 何か硬い物が馬車のドアを叩く。容赦のない連続音にオルガの心臓が跳ね上がる。

 その直後、御者の絶叫が鼓膜に突き刺さる。

――ぐりゅ。

 オルガの耳に残るおぞましい音に、オルガの時間はしばらく停止した。それは、御者の絶叫よりも先だったか後だったか……。

「見てはなりませぬ」

 オルガに覆い被さったままの侍女が言う。

「ちっ――」

 ヴィオロの舌打ちがキャビンに届く。彼は死んだ御者に代わり、馬に鞭を入れている。御者台に飛び移っていたのだ。

「くそ、待ち伏せか」

 進行方向に山賊の本体が展開している。四騎だ。その中にもひとり、銃を構えている者がいる。回れ右をしようにも、方向転換をしている間に取り囲まれてしまう。

 ヴィオロは馬車を止め、キャビン右側のドアを開けた。

「急いで降りろ。ふたりとも、なるべく私から離れるな」

 頷いて飛び降りたオルガ。しかし侍女はキャビンから出ようとしない。歯の隙間から絞り出すような、掠れる声だけがオルガを追ってきた。

「なんとしても、お嬢様だけはお救いくださいませ」

「何を言ってるの――」

 ぎょっとして振り向くオルガの視界に、鮮烈な赤色が飛び込んだ。

 赤い。咳き込む侍女の口からこぼれる泡――その色が。

「い……や」

 やがてキャビンの床に俯せに倒れ込む侍女。その背に、矢が突き立っていた。

 甲高い絶叫。裏返ったオルガの声は、どうやら侍女の名を繰り返しているようだ。

 叫び続けるオルガ。ヴィオロは半ば強引に彼女の腕を引き、その背にかばった。

「侍女殿、済まぬ。後は任せろ」

 いつ抜き放ったのか、ヴィオロの腕には剣が握られている。彼が振り回す太刀筋に、オルガの目は追いつかない。ただ銀色に光る残像が見えるのみだ。

 彼らの周囲に、二つに折れた矢が山となっていく。

 剣を止めたヴィオロが呟きを漏らした。

「七人、いや八人か」

 矢が尽きたのだろうか。山賊どもは馬から降りて蛮刀を振りかざし、殺到した。

「男は殺せ。銃は使うな、女に当たる」

 山賊の頭目と思しき男が大声を張り上げる。

「女は上玉だ、売れるぜ」

 我先にという勢いで突進してくる山賊どもは、あまり統制がとれてはいないようだ。

 姿勢を低くしたヴィオロは、鋭くも低く「しゃがめ」と告げた。彼の後ろで、オルガはほとんど俯せに寝るような格好で地面に伏せた。

 一人目の敵が駆け寄るのを充分に引き付けたヴィオロは、勢いよく立ち上がりざま逆袈裟切りに斬りつけた。

 山賊が持っていた蛮刀が手から滑り落ち、オルガの足元で地面に突き刺さる。

 オルガが肝を潰している間に、ヴィオロは二人目を血祭りに上げた。

 三人、四人。ヴィオロが剣を振る度、山賊の死体が折り重なっていく。

 五人目に手こずりつつ、六人目の胴体に剣を突き立てた時、ヴィオロの胴体はがら空きになってしまった。

 七人目の蛮刀がヴィオロに迫る。

「やああああ!」

 無我夢中だった。オルガは地面に突き立てられた蛮刀を抜き、振り回したのだ。

「おのれっ」

 オルガの蛮刀が利き腕を浅く抉ったのだろう。蛮刀を取り落とした七人目が腕を押さえて距離をとった。

 ヴィオロは敵の身体に深く突き刺さった己の剣を諦め、ほとんど奪い取るようにオルガから剣を受け取った。

 七人目が倒れた仲間の蛮刀を拾っているうちに、頭目がヴィオロたちに歩み寄ってきた。その顔には不敵な笑みが張り付いている。

「なかなかやるじゃねえか。どうだ、俺と組まねえか。お前とならいくらでも荒稼ぎできそうだぜ」

 ヴィオロは蛮刀の切っ先を頭目に向けた。

「これが答だ」

 突如、疾風が吹き荒れた。

 ヴィオロが振り回す神速の剣撃を、頭目が同じ速度の剣捌きで受けているのだ。

 あまりの美技にオルガの恐怖心は麻痺し、ふたりの斬り合いに見とれてしまった。すると、七人目の山賊がそろそろとヴィオロの背後に回り込むのが目に入った。

 地面に手をついたオルガは、その手に触れた物を拾い上げ、山賊の背後へと足を忍ばせた。

「ぬう……っ」

 膝を折り、頭上で蛮刀を水平に構えたヴィオロ。その上から、頭目がほぼ青眼に構えた蛮刀を押し込んでくる。

「仲間の敵だ!」

 ヴィオロの背後で七人目の山賊が蛮刀を振り上げた、その瞬間。

 ――バンッ!

 空気を叩く破裂音。

 全員が凍り付いたように動きを止める中ただひとり、七人目の山賊が動いた。俯せに地面へ倒れ込む――蛮刀を振り上げた格好のまま。

 山賊が倒れたことにより、刀を合わせて力比べをしていたヴィオロと頭目の視界にオルガの姿が入る。彼女は銃を構えており、その銃口からは薄く硝煙がたなびいていた。

「…………」

 最初に沈黙を破ったのは頭目だった。

「ちっ、未熟者が。娘っ子ごときに」

 それは同時に致命的な――隙。

 ヴィオロは膝を一気に延ばし、頭目の蛮刀を弾く。

「ぐああ」

 ヴィオロの蛮刀は、体を開いた頭目を袈裟切りに仕留めた。


*          *          *


「幸い、馬は無事だ。メボータ家へ急ごう」

 ヴィオロの提案に、しかしオルガは首を横に振った。

「いやよ。オルガ・コートニーは死んだの」

「何を言っている」

 眉根を寄せて見下ろしてくるヴィオロに対し、オルガは碧眼に決意の光を灯して笑顔を向けた。金髪に夕日を反射させつつ立ち上がる。

「…………」

 まるで、間近で日の出を見ているようだ。ヴィオロは我知らず見とれていた。

「いやね。ここは黙るところじゃないでしょ」

 手を横に広げ、天を仰いだヴィオロが再びオルガに視線を向ける。

「私は根無し草のその日暮らしだぞ」

「知ってるわ」

 ヴィオロは盛大なため息をついた。

「一時の気の迷いだ。冷静になるんだ、オルガ」

「そう、あたしはオルガ。もう、自分のことを“わたくし”と呼ぶオルガ・コートニーじゃない」

「…………」

「あたしは羽を手に入れた。そして、ぼろぼろになるまで飛ぶ宿命も。ほとんど奴隷のようにメタボなオヤジのもとに嫁ぐのは嫌。あんな場所をあたしの帰る場所にするくらいなら、あなたと共に苛烈な自由に身を委ねることを選ぶ!」

 苦笑するヴィオロに対し、オルガは白い歯を見せて不敵に笑った。

「そして生まれ変わるの。オルガ・ズーンとして」

 黄昏がふたりの影を長く延ばす。やがてふたつの影はひとつに重なった。


   【完】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕暮れのサンライズ 仁井暦 晴人 @kstation2

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ