AM11:20 政治家秘書は心中しない

「首相官邸から、いま、木下総理が出てきました! 総理! 総理! 総理! 横山商事からの献金について、お伺いしたいのですが!」


 カメラに視線を向けていた記者が、くるりくるりと反転して詰め寄る。


「その件に関してはお話した通りです。ぼくは潔白だ」


 そう言い捨てて、車に乗り込む。その車内で、二階堂にかいどうすみれはノートパソコンの画面を見つめていた。


隆三りゅうぞう先生」


「なんだ?」


牧村まきむら先生から、お電話がございました。折り返されますか?」


「このあと牧村くんのところに行くんだから、かまわんだろう」と木下隆三は言った。


 こういう不精なところがいつか身を滅ぼす、とすみれは思った。

 そこに行くまでの10分でなにかできることがあるかもしれないのだ。

 おそらく牧村の電話はたいした用事ではないだろう。

 だが、1の緊急事態に備え、10のくだらないことをケアする。仮にも一国の宰相であるのだから、そのくらいの慎重さは持つべきだ。


「承知しました」


「今日は牧村くんとの会談しかないから、君もそのまま隆信のところに戻っていい」


「かしこまりました」


 報道陣はまだシャッターチャンスを狙っている。

 車はゆっくりと動いているが、ひとが多くなかなか加速できない。これをテレビで見るなら、どれだけよかっただろう、と二階堂すみれは思った。

 まさか、こんな男と心中するハメになるとは、思いもよらなかった。


「しかし、参ったな、この騒ぎは。それどころじゃないというのに」と木下隆三は愚痴のような、いいわけのようなものを言ったきり、腕を組んで眠るように目を閉じた。


 事情や政治的信念を知っていようが、知っていまいが、不正は不正だ、とすみれは思ったが、無論そんなことは言わない。

 車は徐々に報道陣をかき分け、加速する。官邸から栄民党えいみんとう本部までは、15、6分程度だ。

 ここに居はするものの、すみれは本来、栄民党の衆院議員・木下隆信たかのぶの私設秘書である。となりで目を閉じている男、内閣総理大臣・木下隆三の実弟にあたる。


 すみれは大学を卒業後、広告代理店に入り、3年目に政治家秘書に転身した。ボーナスや手当などを勘定に入れると、収入は4割程度に落ち、勤務時間は大差ない。政界に進出する予定もない。それなのに、なぜこんな職についたのか?


 本人曰く、なんとなくカッコよかった。


 木下隆三に仕えることになったのは、1週間ほど前である。

 木下隆三は栄民党で5期当選の中堅議員で農林水産大臣を1度務めただけの実績であったが、栄民党の相次ぐスキャンダルで、総理のお鉢が回ってきた。

 中堅議員の中でいちばんから、という理由以外はないだろう。小者ゆえ、木下隆三の師匠にあたる、前々総理・浮田総作うきたそうさくが傀儡しやすかったのだ。浮田は80近いが、栄民党のリーダーのひとりと言える、食えない老人だ。


 弟・木下隆信は俗物だが、野心を隠さない。

 兄・木下隆三は小者だが、大望を持たず、目先の利益のみで動く。


 すみれにとっては、前者のほうがよほどマシだが、後者が一国の宰相になるというのだから、やはりなにが起こるのかわからない。

 事情はなんにせよ、総理になった木下隆三にとっては、金が入ればそれでよかった。

 が、その隆三本人も総理就任から半年、不明瞭な企業献金が露見し、マスコミのバッシングが強くなった。

 そのため元広告代理店で広報対策やイメージ戦略などをしていたすみれは、その経験を買われ、一時的に応援で兄の元へ貸し出された。


 ここのところのすみれの処遇はだいたいそのようなものである。表向きは。


 無論、本来の姿はそうではない。

 コトの収拾が、うまくいかなければ、責任をとらされる。木下隆三といっしょに。誰に責任を分散させるか、という話になり、木下隆三は、弟に助けを求めた。弟は手頃なスケープゴートに、私設秘書でよければ、どうぞと差し出した。という説が栄民党内では主流だ。


 ただし、すみれはこの説も正しくないと思っている。

 自分が隆信に重宝されていたわけではないのはわかっているが、切られるほど無能でもない。なにより、ぱっと出の私設秘書に全責任を被せられるはずがない。たしかにこの1週間は公設秘書を差し置いて隆三に同行しているが、そもそもすみれがやって来たのが、カネの問題の後なのだから、それで説得される選挙民はいない。


 もっとべつのなにかが、ある。


 漠然とそんなことを感じていた。もちろん、それは雲の上の出来事なので、すみれにはわからない。きっと、事態が完結したあとに、運がよければ気づくのだろう。


 栄民党本部に車が到着すると同時に隆三は目を開けた。

 どうやら、眠っていられるほど神経が図太いわけではなさそうだ。車から降りると、むっとした空気と、セミの鳴き声がうるさいほど聞こえる。


「そうだ、二階堂くん」と隆三は車を下りながら言った。「ぼくはちょっと自分の部屋に寄って行くから、先に牧村くんのところへ行っててくれ」


 牧村道隆みちたか

 内閣官房長官である。

 無論、大俗物だ。


「先に、ですか?」


 その行動に意味がない。すみれが牧村と話すことなどないからだ。自動ドアをくぐる。


「私もすぐに行く」


 外よりはマシだが、決して快適とは呼びがたい温度に設定されている。要するに、部屋に取りに行くものは、すみれには見せられぬ、ということなのだろう。


 木下隆三と、牧村道隆は、一部から「隆々コンビ」と呼ばれるくらいに仲がいい。歳はふたつほど牧村が上で、関東第一大学の先輩後輩の間柄だ。

 牧村が隆三を政界に呼び込んだと言われている。

 ただし、隆信と「隆々コンビ」は、あまり仲がよくない。隆信だって「隆」だし、関東第一大学出身なのだが。

 そのような事情で、隆信の秘書であるすみれは、牧村とは2度ほど会っただけだ。


 栄民党本部は6階建ての建物だ。

 木下隆三も隆信も党本部の4階に居室がある。

 対して、牧村道隆は5階。最上階には、前総理の来島崇くるしまたかしや、前々総理で隆三と牧村の師である浮田創作など栄民党の重鎮がおはす。

 上に行くほど栄民党内の序列は高くなるわけだ。

 ちなみに最上階に部屋がある議員は天上人と呼ばれている。


 いつもより1階分、多く階段を上る。夏の風物詩「節電」の影響で、エレベーターは稼動していない。隆三はふうふう、と息を上げながら階段を上っていた。汗をかいている。


「では、よろしく頼む」と木下隆三は息を上げながら言った。


「かしこまりました」とすみれは言って、もう1階分、階段を上がる。


 栄民党本部5階の廊下は、とてつもなくしんとしていた。

 1階や2階の若い議員たちは、党本部に寝泊まりすることも多いが、年配の議員は、党本部に用事がなければ来ない。彼らにとって党本部は、会議室程度の意味合いしかない。

 ノックをする。


「どうぞ」と中から声がする。


 ドアを開けると、牧村道隆がイスにかけていた。秘書の姿すら見えない。記者が取材に入るとき以外は、エアコンがガンガンに効いている。


「やあ、二階堂くん、わざわざすまないね」と牧村が言った。


「いえ、総理もすぐにお見えになります」とすみれは言った。


「君に用がある」と牧村はやや不機嫌そうに言った。


「先生が、私に、ですか?」とすみれは訊いた。内閣官房長官が、一介の秘書になんの話があるというのか。


「東京都豊島区」と牧村道隆はするりと尋ねた。


 すみれには、なんのことだか、さっぱりわからなかった。次のことばを待ったが、次は牧村の口からは出てこない。どこが手短だ、と思いながら、すみれはとまどったように口を開く。


「官房長官、おっしゃっている意味が……」


「なるほど。では、桐村宗太郎、と言えばわかるのかね?」


 桐村宗太郎は大学時代の恋人の名前だった。


「……桐村は私の大学時代の友人ですが」


「最近は、会っているのか?」


「……申し訳ないのですが、お話の趣旨が見えません」


「いや、それはそうだな。ただ、順を追って説明、というわけにもいかんし、総理には黙っていて欲しい問題なんだが、桐村くんが、とんでもないことをやらかしたそうだ」


「はあ?」と思わず、すみれは言った。「……失礼しました。ただ、それと私となんの関係があるのでしょうか」


「大学時代、いや、卒業してからも1年ほどは親密であった、と訊いている」


 完全なセクハラだった。


「ですが、いまは彼の住んでいる場所も知りません」


「なるほど、そのようだね。池袋の近くに住んでいるようだ」


「左様ですか。それで、豊島区、とおっしゃったわけですね。ただ、なんのお話なのか、まったく理解できかねるのですが」


 あきらかに不機嫌になってすみれは言った。


「いま、は、彼に握られている、と言ったらどうする?」


 日本国の命運。冗談だった。すみれにとって、120%まちがいのない冗談だった。

 気が小さく、快楽主義で、責任感がなく、プライドは高い。理屈をこねるのは好きだが、他人のことがまったく考えられないので、説得もできない。そんな人間が、日本の命運?


「悪い冗談でしょう」と言って、すみれは爆笑した。


「はしたない笑い方はよろしくないね」と牧村は言った。


「……失礼しました。しかし、桐村が日本の命運」とまたすみれは笑いそうになる。


「我々もね、最初は冗談だと思ったんだよ、これ。ただね、どうやらほんとうらしい」と牧村は書類をすみれに渡した。


 それをぱらぱらと読む。あまりに整いすぎている、というのがすみれの感想だった。テロリズムの最重要人物、いや、むしろ容疑者として、桐村がピックアップされている。


「これを信じろと?」


「内閣官房長官が冗談でこの書類を作らせたと?」


 もっともだった。住所、年齢、職歴、残高27円の銀行口座、税金の滞納額。個人情報の嵐だ。ただし、すみれがまず感じたのは、あいかわらずダメな男である、という事実である。


「事実かどうか、本人に確認をしたいのですが」


「極秘資料だよ? 本人にもその開示は認められない。見せれば、逃亡の恐れもある」


「おっしゃっていることは、たしかに。……あ、いえ、この資料もたしかに」


「だが、ぼくは思う」と牧村は芝居がかって言った。「君は友人だ。その君が非公式に、テロリストの嫌疑がかけられていた友人を、訪ねる。数年会っていなかったから、仕事が早く終わってだとか。そういう話となれば、それはもちろん、政府が管轄すべきことでもなんでもない。無論、機密情報を漏らさない範囲であれば、だが」


 テロリストのところに、抑揚をつけた。じつに臭い芝居だった。だが、すみれにも、それ以外に方法が思いつかない。


「つまり、この資料には言及無用ということですね?」


「隆信先生のとこだと、機密情報の取り扱いに注意はないのかね?」と牧村は言った。


 完璧に空調された部屋の外では、強い陽射しがちらつく。裏金の責任をかぶってくれと言われたほうが、よほどリアリティがあってまともだとすみれは思った。

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