第04話

 よく眠れなかったし、時間も短かったと思うけど。

 次に気づいた時には、テーブルの上に人数分の食事が並べられた後だった。


 野菜がたくさん入った雑炊と、カットされたトマトと、ヨーグルト。ショックを受けた身体には、食べやすそうなメニューである。


 手慣れた感じの、手作りの食事。自分の作るブサイクな料理モドキより、買い食いする惣菜より、何倍も美味しそうだ。

 ただのトマトなのに、ケースで売られているサラダより断然綺麗に見える。

 ヨーグルトもガラスの器に移されているだけで、こんなにもオシャレに見える食べ物だったか。


「さ。召し上がれ」


 明日香の笑顔に押されながら、雑炊を一口、口にする。

 あっさりしていて食べやすい。旨みも口に広がってゆく。


 ――米ってこんな美味かったか?


 ぬくもりが胃に落ちてゆくのが分かった。身体の中にエネルギーの塊が落ちてゆく。

 トマトも甘かった。淹れてくれたお茶も美味しい。

 何もかもが、美味しい。


 真尋は食べながら泣いていた。恥ずかしいけど、涙が止まらない。

 食っているのか、泣いているのか、どちらがメインなのかすら、自分でも分からなくて。


 それでも食べた。美味くて更に泣けて来る。

 恥ずかし過ぎて、気づいたら笑っていた。泣きながら笑い、ごはんを食べる。もう、ムチャクチャだ。


「そうかそうか、真尋くん。そんなに美味しかったか。作った甲斐があるよ」


 背後から明日香に抱きしめられ、頭を撫でられる。

 それがくすぐったくて真尋は更に笑い、泣き続けた。


「明日香ちゃんっ! 真尋さんは、ヌイグルミじゃないんだよぉ」と水羽が口を尖らせている。


「まぁイヤだ、妬いてるの? 料理くらい教えてあげるわよ。男の胃袋を掴めってよく言うでしょ、あんたも精進しなさい。そうしたら、これくらい触っても怒られないから。ねっ」


 真尋は「あははは」と笑った。何がおかしいのか、自分でも分からない。

 でも女子のトークは耳に心地がいいなぁ、と思う。


「もうっ! 何笑ってるのよ、真尋さんっ。酔ってるのっ?」


 酔う?

 酒を飲んだら、こんな感じになってしまうと言うのだろうか。何と言うか、心が砕けてラクになれた気がする。

 水羽が言ってくれていた事だ。ラクになって欲しい、と。


 苦しみで爆発してしまいそうだった心に細かなヒビが無数に入って、そこから圧力を逃がしているような感じ。思考はまとまらず、視界も涙で揺れ続けている。


 頭がふわふわして、何が何だか分からない。

 起きているのか、生きているのか。そんな事すら分からなくなっていた。


「ほ~らほら、倫。パスっ」


「えっ」と呟いたのは、真尋と倫、ほぼ同時。


 真尋は右隣に座っていた倫の方へ、身体を押しやられた。力の抜けきっていた身体は、親しくもない男の方へと流される。


 かしゃん! と軽く食器のぶつかり合う音がして、彼の身体にぶつかり、真尋はそのまま床に転がった。


「あーあ。倫てば、男には冷たいのぉ~」


 ――いや。それ普通だから。


「真尋くんが女子なら、抱き止めてたよねぇ?」


 あまり愛想の無い彼に受け止められても、こっちが困る。ような気がする。

 すると彼が、床に転がった真尋をチラリと見下ろして来た。


「あの、ごめん」


 ――え? ナニが?


「この人、こんなんで」


 ――あぁ。明日香さんの事か。


「あれでも一応、元気づけようと頑張ってるだけだから」


「えっと、はい。分かりました」


「悪い人じゃないから」


「……そうだとは思います」


 第一印象はスレンダーな、少し大人っぽい人だったけれど。

 いや、大人って、人の気分を変えられる、気遣える、こう言う人の事なのかも知れないけど。


「あの人も水緒みおを失って、本当に気持ちが彷徨ってた人だから」


 初耳だが〈水緒〉とは、水羽の姉の名前だろうか。


 ――そうか。親友なんだもんな。


 親友の家族であるノエルを殺した瑛凛。

 親友を傷つけ、自分も傷つき、そうまでして傍に行きたかった男とは、どのような男なのだろう。


 ――この人のお母さんすら奪った男、か。


 子供もいる大人の女性が、男の外見だけに惹かれて家庭を捨てるとは思えない。

 そこには抗えない〈何か〉が存在したりする、のではないだろうか。人の気持ちを、それこそ闇に引きずり込むような、不気味な何かが。


 この倫と言う人に「どう思いますか」とは、まだ聞けない。

 自分達はそこまで親しくなってはおらず、この質問は人の心に土足で踏み込むのとあまり変わらないような気がするから。


 息子であるあなたより、男を選んだ母の闇を、どう思いますか? なんて。

 口が裂けても言える言葉ではなかった。


 それに、男を選ぶ母親に対する思いなんて、自分がイヤと言うほどに知っている。


 ――それでも、母親を好きなのなら、僕以上に傷ついてるよな。


 母親が出て行き喜んでいた自分達とは、違うだろう。この人の方がきっと、ずっと、つらいはず。


「何ボソボソと内緒話してるの?」と明日香が真上から覗いて来た。


「あなたの事を話してました」と倫。


「え。可愛いって?」


「凄いですよね。すぐそんな切り返しが出来るんだから、あなたは」


「ど、どう言う意味よ」


「彼にとって、あなたは重要な人になるでしょう、と。そんな話ですよ」


「へぇ~。わたしってもしかして、倫にとっても重要な人だったりするの?」


 ニヤニヤと笑いながら、そんな質問を投げている。

 何と言うか、強い人だな。否定されたら結構傷つく質問だろう、それは。


「もちろんですよ。俺にとって姉同然だった水緒の、親友ですよ、あなたは。あなたが居てくれるだけで、水羽だってどれだけ気持ちが強くなれたか、救われたか分からない」


 その言葉を聞いて、明日香は苦笑いを浮かべた。頬が染まり、瞳が潤んでいる。


 ――ああ、そうか。この人達って、そんなにも強く繋がってるのか。


 きっと水緒と言う人は、とてもいい人だったのだろう。親友に思われ、妹に慕われ、自身も深く傷ついている幼馴染みですら、親友の存在に感謝している。


 今日の途中まで瑛凛とふたりで過ごして来たこの部屋に、出会ったばかりの人が三人も居て、お互いを確かめ合うような会話をしている。

 それを転がったまま、夢見心地で聞いている自分。

 昨日まで、予想もしていなかった事だ。


 だから余計に、本当に思う。


 あぁ。瑛凛はもう居ないのだな、と。あの子との生活は、もう壊れてしまったのだな、と。


 自分の環境は、変わってしまったのだ。

 納得出来なくても、受け入れ難くても。


 今はこうやって三人が居てくれているけれど、みんなが帰れば、ひとりの時間が始まる。

 きっと泣くだうな。さっき以上に泣くのだろうな。


 自分は立ち直り、生きて行けるだろうか。


 昔もよく考えていたが、産まれて来てしまった以上、死ぬまで逃げ場なんてどこにも無い。

 挫けて泣いても、現実は許してはくれない。


 好きで産まれたんじゃないのに。

 勝手に産み落とされて、仕方ないから生きてるだけなのに。


「真尋さん、眠るの?」


 水羽の声が聞こえる。

 まぶたをゆっくり開くと、大きな瞳でこちらを見下ろす水羽が朧に見えた。


 そして数秒後、視界のチューニングが合う。


「寝るなら、その前にお風呂に入ってね」


 明日香の声がそう言った。


 ――風呂……どうでもいい。このまま、眠……。


「ダメダメダメダメ! お湯入れて来てあげるからっ」


 左腕を引っ張られ、上半身が無理やり起こされる。


「あ、でもお湯、入ってるはず……瑛凛が入ってたし」


「え。でもさっき覗いた時、入ってなかったよ? 綺麗だった」


 どう言う事だろう。確かに瑛凛は風呂に入っ……。


 ――そうか。血を流した、って言ってたな。そのままにしてるわけない、か。


 思わずため息が零れる。


「あっ。好きで覗いたんじゃないのよ? キッチンに居た時、風が吹いてるなぁと思って、ドアの方を見たらバスルームの扉も開いていて、中の窓が開いているのが見えたの。わざと見たわけじゃないのよ? わたしは風を視線で追いかけただけなの。結果的には見てしまったわけなんだけど……えっと。ごめんなさいね?」


「別に責めてないです、風呂場覗かれたくらいで」


「それで、どれがいい?」


 目の前に広げられたのは、個装された入浴剤だった。


「こっちからローズ、ミルキーピンク、ネイビーブルー、ミントブルー、ライムグリーン、スカッシュオレンジ、レモネード。ちなみにスカッシュオレンジは、炭酸入りよっ」


 思わず息が止まる。


 ――どっどれでもいい……っ。


「なんだ。興味無さそうね。じゃあ水羽はどれがいい?」


「えっ。どうして私なの」


「それはもちろん、今夜はここにお泊まりさせてもらうからよ。お風呂入りたいでしょ?」


 ――……えっ?


「えっ! 聞いてないよっ。そんな事勝手にっ」


 水羽が恐る恐る、と言う感じでこちらを振り向く。


「ほらぁ! 真尋さん、すっごく驚いてるじゃないっ」


「いいよねぇ、真尋くんっ」


「は? いやあの……えっ?」


「だってもうこんな時間だよ? これから帰れって言うの? 未成年三人を、夜道に放り出すのぉ~?」


 鼻先にスマホが突き付けられる。二十三時を回っていた。

 寝たり起きたりして、時間を把握していなかったが、もうこんな時間だったのか。いや、まだこんな時間だったと思うべき、か?


「最終のバス、出ちゃったなぁ~。歩いて帰るの、怖いなぁ~。ね、水羽も怖いよね」


「こっ怖い、けど、でも」


 ふたりがこっちをチラチラと見る。


「い、いいけど、さ……」と呟く真尋。


「だって。よかったね~、水羽。追い出されなくて」


「あの、ごめんねごめんね、真尋さんっ。勝手で、図々しいよね、私達っ」


「い、いや。謝らなくていいから」


「でも」


「ほんと、いいから。大丈夫だから」


「本当に?」


「うん。でもこんな時間になっても帰って来ないって、お家の人、心配してるんじゃ」


 水羽がハッ、と息を飲んだ。慌てて電話を取り出す。

 それを明日香が取り上げた。


「はいはい。あなたのお家にはもう電話しておきましたよぉ~、買い出しに行った時に。ね~、倫」


 彼は冷静な声で「ああ」とだけ返事をした。


 ――この人も泊まり込むつもりだったのかっ。無表情過ぎて、ワケ分からん人だっ。


「中学の予習って言ってあるから、最初のテスト頑張りなさいよ?」


「ちょ……そんなっ」


 水羽が悲壮な声を出す。そうか。勉強は苦手なのか。自分と一緒だな、と真尋は思った。


「だから真尋くん、早くお風呂入って。後がつかえてるんだから。水羽っ、どの入浴剤がいいのっ」


「えっと、ピンク……でも私、着替えも無いしっ」


「大丈夫。さっき下着だけは買って来てあげたから。真尋くん、早く立ってっ。これ、入れてね。よろしくっ」


 立ち上がると背中をグイグイと押され、部屋から出された。


 ――まぁ、風呂くらい入るか。抵抗しても意味の無い事だ。あぁぁ。


 隣の部屋に着替えを取りに行ってから、バスルームへ向かった。


 手渡された入浴剤を見ながら、女の子はこんなのが好きなのだな。と改めて思う。


 瑛凛だって好きだったはずなのに、入浴剤なんて、あまり使った事はない。

 それこそ、誰かに偶然もらった時に使ったくらいだ。


 ――僕は本当にダメな兄だったんだな。


 大切にして来たつもりだったけれど、本当は自分が瑛凛を可愛がったつもりになっていただけなのかも知れない。

 単なる自己満足。

 ならば、他の男を選ばれても仕方のない事だ。


 小さく笑いながら、湯船に入浴剤を投入する。

 淡いピンクに染まってゆくお湯。甘い香りに包まれる。


 ――あぁ。確かに女の子みたいに愛らしい、可愛い香りだな。


 水面をボンヤリ見つめていると、扉の外から明日香の声が聞こえた。


「お風呂から上がったら、ご褒美があるんだからねー」と。


「ご褒美に釣られて風呂入るとか、僕、子供じゃないですからっ」と返す。


「うっそだぁ~。絶対嬉しいって、喜ぶって」


 ――妙に自信満々だな。


「い、一応聞いてみますけど、何ですか」


「アイスぅ~!」と嬉しそうな声が返って来た。


 ――う。定番過ぎる。意外性がこれっっぽっちも無い。

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そして僕は橋になる あおい @aoi-nanami

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